長谷部光泰 |
一〇〇年ほど前には、日本に自生している高等植物の名前を全てわかる人はいなかった。しかし、今日では、訓練を積んだ人ならば、図鑑を使えばほとんどの種類の名前を知ることができる。これが、日本の植物分類学の大きな成果の一つである。 |
植物相の解明とモノグラフ 国民の九九%は生涯に一度もDNAに直接触れることはないであろうが、ほぼ一〇〇%の人は、植物の名前を調べたことがあるに違いない。国民に最も近い植物科学が分類学であるといっても過言ではないであろう。そして、日本の分類学の発展にとって小石川植物園は欠くことができない施設であった。 日本の分類学の第一歩は、日本の植物相の解明であった。日本全国に採集旅行をし、収集した標本に基づいて種の同定が行われた。この作業は、採集という野外調査とともに、研究室での標本、文献調査を必要とする。「新種」を記載するためには、世界中の近縁種を検索することが必要であり、それらのタイプ標本と比較するという気の遠くなるような膨大な作業が必要となる。また、植物は芽ばえから花を咲かせ枯れるまで、さまざまな形の変化を示すし、分布地によって形態に変化が生じる場合がほとんどなので、種の概念をつかむには各地で採集された多量の標本が必要となるとともに、栽培観察をせねばならないのは日常茶飯事である。このような、研究形態に、標本庫、図書室、植物育成用の土地を兼ね備えた植物園は、まさにうってつけであった。欧米には、イギリスのキュー植物園、アメリカ合衆国のミズーリ植物園など、分類学研究の世界的中心となっている植物園がいくつかある。小石川植物園は、規模こそ小さいが、研究者数を考慮すれば、これらの大植物園にまさるとも劣らない分類学に対する貢献をしてきた、日本が世界に誇るべき植物園なのである。 日本は狭い国土に関わらず、約五、五〇〇種という多様性に富んだ維管束植物相を持っている。そして、今日世界でもっとも植物相の解析の進んでいるのは日本であるといってもよいであろう。日本植物相の集大成である『日本の野生植物』(平凡社)そして英文版の『Flora of Japan』(講談社)は、小石川植物園に所蔵されている、先達の収集した多くの標本なくしては完成しなかったであろうし、小石川植物園のスタッフであった山崎敬、大橋広好、大場秀章、岩槻邦男らはその完成に大きく貢献した。 日本の植物相が次第に解明されていくにつれ、他国、とりわけ日本の植物相と関係の深い近隣諸国における植物相解明も行われた。小石川植物園標本庫に所蔵されている早田文藏(台湾、インドシナ)、中井猛之進(朝鮮半島)、矢部吉禎、北川政夫(旧満州)、中原源治(カムチャッカ半島)、小泉源一、津山尚(ミクロネシア)、原寛、金井弘夫、大橋広好、大場秀章(ヒマラヤ地域)、加藤雅啓(インドネシア)の標本は各地の植物相を知る上だけでなく、世界における日本の植物相の意味を知る上で特に重要なものである。この二〇年ほどの間に、植物園の研究者によってヒマラヤ、インドネシア、マレーシア、オーストラリア、北中南米、インドシナ、中国などにおける現地調査、標本収集が行われた。 日本の植物相がほぼ解明されつつあるとはいえ、まだ調査の必要な地域がいくつか残されている。世界文化遺産に登録された屋久島もそのような場所の一つであり、植物園の研究者らによって集中的な調査が行われ、いくつかの新種が記載されるとともに、屋久島の固有植物、矮性植物、渓流沿い植物について新たな研究を進展させるきっかけを作った。 植物には国境は存在しないので、植物分類をするには、世界中の植物を解析せねばならないが、全ての植物を取り扱うことは通常困難なので、世界中に存在する特定の分類群を詳細に研究してモノグラフを作成することが必要となる。植物園においては、ベンケイソウ科、マメ科、ラン科、サトイモ科、コケシノブ科、メシダ科、チャセンシダ科などに属する植物のモノグラフ的研究が行われた。 |
1 小石川植物園スタッフによるインドネシアでの植物調査 昼間は採集、その後のおし葉標本作製は深夜に及ぶこともある |
種の構造と種分化研究 植物の分類は種を単位として行われるので、種の実体を知るための研究が必要となる。植物の種内にどのような変異があるかを調べ、種がどのように分化(進化)してきたかを解明する研究の日本における中心の一つが一九八〇年代半ばから一九九〇年代中頃にかけて小石川植物園にあった。植物の種に特異的な性質である「倍数性」と「無性生殖」について、古典的な形態、染色体観察を用いた研究と近代的な酵素多型を用いた研究が精力的に行われた。種の構造を解明するには、集団として植物を研究するための集団遺伝学的手法、進化様式については数理モデルを用いた進化生態学的手法、野外集団での調査を伴う生態学的手法、そして分子マーカを用いる分子生物学的手法とを統合していく必要がある。 倍数性に関する研究の一例をあげよう。キク科のヒヨドリバナ(秋の七草で有名なフジバカマの仲間)は、ヨツバヒヨドリとの間にさまざまな中間型があり、両者は同じ種に属する変種または亜種であると考えられていた。しかし、集団レベルでの染色体観察から、ヒヨドリバナとヨツバヒヨドリにはそれぞれ二倍体と倍数体の個体があることがわかった。倍数体の個体は交雑によって生じた可能性があるので、二倍体のもののみを用いて外部形態を統計学的手法の一つである多変量解析によって分析したところ、ヒヨドリバナ二倍体とヨツバヒヨドリ二倍体ははっきりと形態的に区別できることがわかった。また、ヨツバヒヨドリ倍数体は、ヒヨドリバナ倍数体とヨツバヒヨドリ二倍体との交雑によってできたことがわかった。つまり、ヒヨドリバナとヨツバヒヨドリの形態が連続的に変化し、同じ種に属するようにみえたのは、ヒヨドリバナとヨツバヒヨドリの雑種であり、両種の中間的形態を持ったヨツバヒヨドリ倍数体があったからなのである。その後、酵素多型を用いた解析から、ヒヨドリバナとヨツバヒヨドリは系統的に離れた明らかな別種であることが確認された。 植物には、無性生殖をする種が知られている。有性生殖をする種と異なり、無性生殖をする種の子孫は親と全く同じ遺伝子型を持つので、種内形態変異がほとんどないと予想される。しかし、実際には、無性生殖をする多くの種は種内で大きな形態変異を持っており、その理由に関心が集まっていた。この原因を解明するために、ホウビシダ、オオバイノモトソウなどを用いた研究が行われた。その結果、無性生殖種は、ときどき近縁な有性生殖種との間で雑種を作ることにより、多様な遺伝子型を持っていることがわかった。 これらの種生物学的研究は、その後、小石川植物園スタッフであった現九州大学の矢原徹一、現京都大学の村上哲明らによって、特定の種の分類という範疇を越えて、有性生殖の意義、植物の適応進化といったような、生物学全般にかかわるような問題解明へと展開している。 |
2 種分化研究のために世界各地から収集され、小石川植物園研究温室にて栽培されているホウビシダ |
植物の系統解析 分類は、種の系統関係、すなわち種の類縁を知ることなしにはできない。種の系統関係は、従来、外部形態の類似に基づいて推定され、今世紀初めころには植物の大まかな系統関係がだいたい明らかになった。しかし、外部形態だけでは、情報の不足からはっきりと系統関係のわからない部分も残されていた。とりわけ、離れた分類群間の系統推定は、形態が大きく異なっているためにかなり困難を伴った。この一〇年ほどの間に塩基配列などの分子データを情報源として系統関係を推定する技術が進歩し、さまざまな植物の系統関係が明らかになってきた。光合成など、植物が生きるために必須な生命活動を司る遺伝子は、系統の離れた分類群間でも共通に使われていることが多く、それらを比較して、遠縁なもの同士の系統関係も推定できるようになった。 小石川植物園は、岩槻邦男教授の着任にともない、研究施設を拡充し、日本の植物分子系統学の草分けかつ中心的役割を果たした。多くの研究者が、植物園に滞在し、植物園で作られた実験系を各大学に移植し、今日の日本における分子系統学の繁栄が導かれたといっても過言ではあるまい。 分子系統学的手法を用いて、チャセンシダ科、メシダ科、サトイモ科、バラ科、ゴマノハグサ科などに含まれるいくつかの種間の系統関係が解明され、分類体系の改善に大きな役割を果たした。また、より高次な分類群間の系統関係についても大きな成果が見られた。シダ植物は花の咲く植物に比べ、形態情報が少なく、科の系統関係について定説は無かった。小石川植物園のスタッフらは、世界中から材料を集め、一科を除いた現存する全ての科の系統関係を解明することに成功した。これらの論文は広く世界中の分類学者に受け入れられることとなったが、その大きな理由は、これらの仕事のメインは分子系統学であるが、材料の選定、系統関係の推定などにおいて、世界の一線で活躍している形態分類学者、染色体分類学者、進化生態学者など多様な材料と手法を用いた研究者が小石川植物園の決して広くない建物の中で、日常的に議論を交わすことができる環境が出来上がっていたことにある。そして、これらの研究において、小石川植物園に系統保存されていた生きた植物が大きな役割を果たしたことは言うまでもない。 |
3 遺伝子の塩基配列を用いて系統推定を行うための実験風景 |
おわりに 一九九五年三月の研究室改編にともない、小石川植物園の分類学を専攻するスタッフは全て他大学などへ移動し、小石川植物園スタッフによる分類学研究、標本管理などの分類学関係業務は途絶えた。しかし、小石川植物園には、先人が残してくれた分類学上貴重な標本、図書、そして生きた植物が残されている。このような資料は、残念ながら分類学に精通した研究者によってしか管理することができない。また、これらの資料は、現在の分類学研究に直接利用されているものであり、たえず、国内外の研究者による標本、図書閲覧、標本貸し出し、生きた植物の分譲の要望がよせられており、そのほとんどは、小石川植物園所蔵の資料を用いなければ、研究の進行に大きな支障をきたすものである。現在、この貴重な財産を有効利用できるよう努力が続けられている。 (はせべ みつやす) |
参考文献 以下の文献には、小石川植物園を中心として行われた分類学研究の流れがいきいきと描かれている。 矢原徹一(1995)『花の性−その進化を探る−』、東京大学出版会 岩槻邦男(1996)『シダ植物の自然史』、東京大学出版会 |
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