大場秀章 |
人類は野生の植物を食料として利用するだけでなく、森を伐り開きこれを栽培する技術をもつようになった。食料の安定した供給は、人類の生存の基盤を確固たるものにしたことはいうまでもない。しかし、人類は生物の宿命として、いずれ死を迎える。古代の人々にとって死因の多くは理解の範囲をはるかに超えるものであったにちがいない。だが、昇天や昇魂などを信じる一方で、ある種の植物は痛みを癒し、人を死から救うほどの効果をもつことも経験的に知っていた。 |
薬になる植物、すなわち薬草の種数は世界で軽く一、〇〇〇を超えるだろう。中国と日本だけでもそのくらいの種数があるかも知れない。いまでも未知の薬草があるくらいだから、日本でも江戸時代以前となれば未知の薬草も多数あった。薬草の新たな薬効を発見することとならび、野外で未知の薬草種を発見することは薬学にとって重要な意義があったのである。また、既知の薬草であっても未知の薬効も多かった。このように、有機化学の発展によって、化学合成によって薬の生産ができるようになる以前は、新薬は発明ではなく野外で発見されることが多かったのである。 ところで衣食住に満たされた王侯貴族や金持ちの最大の心配事のひとつは、いつ襲ってくるか知れない病気であり死であった。薬草の研究を彼らが支援したのはいうまでもない。 日本では、明治時代まで、薬草を含め薬になる天然自然の産物を研究する学問を「本草学」といった。「本草」とは「薬の本になる草」、という意味で、いみじくも薬の多くが植物であることを示している。本草学の研究は広範囲であった。病気の見立て、薬の調合から実際に野外で薬草を探す採薬まで、薬にかかわるさまざまな研究が含まれていた。ヨーロッパでも本草学が隆盛を極めたことは無論である。多様な領域を宿していた本草学から、やがて薬になるならないに関係なく植物そのものを研究の対象とする植物学が誕生する。植物学が誕生したのはヨーロッパであったが、その前身に本草学があったのである。 |
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表紙 |
植物図 |
1 R.Dodoens著,A nievve herdoll(H.Lyte訳),1578年, この本草書は日本に移入され、日本の本草学者に大きな影響を及ぼした。 |
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誰あるいは何の著作をもって植物学の成立とみるかは定説がない。ヨーロッパでの本草学・植物学の歴史は紀元前のアリストテレスやクラテウスにまで遡るが、一五世紀までは、実際の植物を研究するよりは、紀元五一二年頃に著わされたディオスコリデスの『De materia medica』を中心とした文献学・解釈学的研究に終始していた、といえる。 それが一六世紀になると、野外や薬草園で実際の植物を観察するようになった。もはや実際に植物自体を研究する外は何も新しいことが見出せない状況になっていたのである。この本草学の新たな時代を開いたのは、イタリアのマッティオリ、スイスのゲスナー、ドイツ植物学の父といわれるブルンフェルスやレオンハルト・フックス、さらにネーデルランドのクリストフ・プランタン、ドドエンスなどの傑出した学者であった。この時代、神学と医学が中心とはいえ、ヨーロッパには数多くの大学があり、本草学者の多くは大学に学び、また薬草園が附置された大学で教職の地位にあった。 ここに名を挙げた本草学者は実際の植物を観察し、その結果を記述している。これは植物学といっても過言ではあるまい。次世紀に入る一六二三年に出版されたガスパール・ボーアンの、通常は『ピナックス』と通称される『Pinax theatri botanici』は、一七五三年に出版され高等植物の学名の出発点となるリンネの『植物の種』の出現を予言するものであった。ボーアンは、その中で、歴代の本草学者が用いた名称の実体を究め、名称間の異同を正し、それを一覧できるかたちにして示した。種のレベルでの分類誌の今日のスタイルの萌芽をここにみてとることができる。 すでに述べたように一七五三年に出版されたリンネの『植物の種』は後に高等植物の学名の出発点と見なされた重要な著作だが、リンネはこの本の原稿を作成する間中、片時もボーアンの『ピナックス』を手放さなかったといわれている。 |
2 C.Linnaeus著 Specius plantarum 1753年 |
3 草合せの図 |
本書は今日の植物の学名の出発点となる重要な著作である | 原画は「やすらい花繪巻」に収載される。土佐光信筆による。草合せは同種の草を見つけて、姿かたちを競う遊びである。博物学や植物学の原点の一つ |
中国の本草学の想像上の創始者である、神農なる人物は諸国を巡り百草を嘗め薬効のある植物の発見を果したといい伝えられている。しかし、このような伝説を創り上げた東洋の本草学者も、実際に植物自体を観察するようになるのはずっと後になってからであった。実際、日本においても江戸時代初期の本草学は明の李時珍の『本草綱目』を中心とした文献学・解釈学であった。日本の薬用植物を中国の本草書に記載された薬草に当てようとしたのである。日中の植物相には大きな相違があるとは考えなかった。植物分類学の知識が欠けていたためである。日本でのこうした文献学的本草学者の最後の大家は、稲生若水である。 若水の活躍した時期に重なるが、宝永五(一七〇八)年に完成した貝原益軒の『大和本草』をもって、日本でも実際に自らが植物を観察研究する時代に入るとするのは上野益三(一九八六年)の説である。益軒以後、多くの本草学者が、山中を巡り歩き薬効のある植物を発見することや今日の民俗植物学的資料の収集に努めた。すなわち、研究とは自らが諸国の山野を歩くこと、つまり採薬にあったのである。 今日、日本においても学問としての本草学は姿を消した。本草学が求めてきたものの大半は、薬学と植物学に引き継がれたか、あるいは吸収されたとみてよい。本草学から植物学への移行期に重要な舞台となったのは、現在の東京大学理学部植物学教室であり、理学部に付置された植物園であった。 通称、小石川植物園と呼ばれ、市民に親しまれているこの植物園が、東京大学が創設される以前から存在していたことは存外知られていない。小石川植物園の名物といえば、必ずその一つに加えられるのは大イチョウだろう。樹齢は三〇〇年を超えるが、幹はまっすぐに伸び、いまなお盛んに葉を繁らせたその樹姿は素晴らしい。実はこの大イチョウや蛇伏した幹をもつサネブトナツメの古樹などは、大学の植物園になる以前から存在していたのである。 この稿では、(一)日本での本草学から植物学への移行期、及び、(二)小石川植物園の前史とでも呼ぶにふさわしい、江戸時代の小石川植物園の歴史のあらましを記してみた。 |
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4 白井光太郎(1863—1932) |
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