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石器・土器・金属器

(日本)


4 石剣


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石製
日本
埼玉県岩槻市真福寺遺跡
縄文時代晩期
長さ60.4cm、最大幅3.1cm
最大厚2.6cm、重さ779g
資料館人類・先史部門(136)

展示されているこの石器は、埼玉県岩槻市真福寺遺跡の調査で発見された縄紋時代の考古遺物で、石剣と呼ばれる。端部に向かってすぼまる棒状の形態を呈する。両端は尖らず、まるいふくらみのある小さな端面を形成する。このような両端面にわずかながら欠損があるだけで、完形品といっても過言ではない石器である。これを石剣と認定する過程を説明しよう。

4-1 熊登型石剣(左:埼玉・新幅寺 右:秋田・虫内III)

石材は不明だが、黒光りしているのが印象的である。さらにつぶさに観察するに、本石器がこのような光沢があるのは、全体にきれいに研磨されていることに起因するが、一部研磨が不十分な部位があって、それ以前の成形工程の痕跡である敲打痕を残している。その部位とは、棒状の本体に二条のやや稚拙な沈線に囲まれた幅2センチ程の範囲のことである(挿図1左)。二条の沈線で区画しさらに敲打痕を残すことで帯状部が強調されており、明らかに意図的なもので、ここが明瞭な区画となって把部が形成されているとみなせ、さらに、もう1カ所、これも稚拙な沈線がより端部に近いところを二条めぐっており、これによって把頭を表しているとみなせる。他方、一見棒状のこの石器のもう一端のところから10センチ程のところまでは、両側縁にそって比較的明瞭な稜を形成しており、両刃が形作られていると見るべきであろう。しかし、さらに把部にいたる間はそのようなはっきりとした稜を呈していないようであるが、その部分の身の断面形態は円形ではなく、やや不整形な楕円状となる。そして、把部や把頭の断面形態も同様に不整形な楕円状である。

要するに、一見棒状の本石器は、詳細に形態を観察することから、一端には両刃の刃部を有し、他端は把部になっていると見なすべきなのである。さらに、このような性状の石器は、特に両刃の刃部を有するという形態上の特徴を根拠に考古学上石剣と呼ばれるのを常とするのに倣い、ここでも石剣と呼称するのである。通常、身の断面形態が円形で刃部とみなせる部分がない棒状石器は石棒と呼ばれ、また、石剣と違い片刃の刃部を有する棒状石器が石刀と呼ばれるのである。

さて、実際に、把とみなせる部位を握り、この石剣を振ったり突いたりしてみると、実に具合がよく、手頃な重量感を覚え、あたかも武器である剣を手にしているかのごとき感覚に支配される。はたしてそうなのか。違うのか。本資料の性格をもう少し考えてみようと思いたくなるが、考古学では、取り扱う与件資料を分類命名する際に、現実に存在する道具や武器に似ているからということだけからその名前を採用している場合が多々あり、本当に同じ機能・用途かは保証がない場合が多い。石剣も、石を素材とした両刃の武器なのか否か、あるいは偶然そのような形を呈しているが武器としての実用の道具ではなく、非実用的な祭祀具ではなかろうかなど、存外議論が続いたままなのである。より正確には、縄紋時代の棒状の石器が形態的に「石棒」「石剣」「石刀」といった3つのカテゴリーに分けられるようになって以来(鳥居1924、八幡1933、同上1934、小林(行)1951など)、機能・用途については実に多様な議論を生んでいるのである(その学史的概要は能登1981、野村1985、山本1987参照)。つまり、いま取り上げている石剣も機能・用途がよく分からない縄紋文化の遺物の代表のようなものの1つなのである。

ところで、考古遺物を考究する場合の必須的基礎的研究領域として、型式論的研究・編年論的研究・分布論的研究がある。真福寺遺跡の石剣についても、型式論的研究・編年論的研究・分布論的研究から、まず検討されねばならない。幸いなことに、この3領域については参照に値する研究があるので(後藤1986、同上1987)、その研究を手がかりとしてみよう。後藤氏は石剣を次のように型式分類している(後藤1986)。——裏畑型石剣、熊登型石剣、東北原型石剣、高井東型石剣、西広型石剣、なすな原型石剣、貝の花型石剣、乙女不動原北浦型石剣、寺下型石剣。そして、それらは縄紋時代後期後半/晩期に発達することが詳しく論じられている(後藤1987)。

後藤氏が掲げている各型式標本資料を検討するならば、真福寺例は把部を沈線で造っている点や形態上の類似から熊登型石剣に該当しよう。氏の説く熊登型石剣は、東北地方(新潟県東部を含む)に分布する型式で、編年的には晩期前半に位置するらしい。ということは、真福寺例は縄紋時代晩期前半という編年的位置を占めることになり、しかも関東出土であるが、所属型式は東北地方のものであることになる。当然、搬入品であろうことが推定されることになるのである。

真福寺遺跡の石剣が東北地方からの搬入品の可能性があるということは実に興味深いが、まずもって後藤氏の型式設定の当否を検証しなければならない。後藤氏は事例が少ないことと完形品に恵まれていないことが熊登型石剣の設定に当たって難点とされていたが、筆者の手元にある報告書を案配してみるに、氏の説く熊登型石剣が東北地方に分布することは確実であり、編年的位置を晩期前半とすることも妥当のようである。しかもなお、熊登型石剣設定の当否を検証してく過程で、当該型式の完形品を知った。挿図1右に転載した石剣がそれである。東北地方日本海側秋田県虫内III遺跡(大野ほか1994)の縄紋時代晩期前半に形成された土壙群の1つ(SK91土壙)から出土したもので(この遺跡の近隣にも同様の石剣を出土する遺跡がある)、粘板岩製で、全長71.1センチ、最大幅2.8センチ、最大厚2.6センチ、重さ807グラムである。二条の沈線で区画された部位(しかも敲打痕を残したまま)によって把部を形成していることは、真福寺例とよく似ているのである。他方、関東地方では筆者が検索し得た文献からは熊登型石剣は見いだせなかったのである。今のところ、真福寺例が熊登型石剣の関東に於ける唯一の例といって差し支えないようである。

このように後藤氏の熊登型石剣の設定の当否に対してはその設定が有効であることが追証できたことによって、意外なことに真福寺例は関東在地の型式ではなく、縄紋時代晩期前半の東北の型式・熊登型に属する石剣であることが判明したのである。したがって、東北地方からの搬入が考えられるのである。このことは重要であろう。なぜならば、縄紋時代晩期に関東地方は様々な分野で東北地方のいわゆる亀ケ岡式文化から影響を受けることがつとに指摘されているからである(山内1939)。しかも、東北地方からの影響がさらにどのような分野に及ぶのかを例証するのが今後の課題だからである。真福寺遺跡から出土の熊登型石剣はそのような動向を示すまたあらたな例証といえるのである。

真福寺遺跡出土の石剣の由来として、縄紋時代晩期前半に東北地方から持ち込まれた可能性が高いことが分かったが、そもそもこのような石器は一体何なのであろうか。その点は従来からいろいろな意見はあるが、見解の一致を見ていない故に、ここで議論を止めるのも1つの見識であろうが、あえてどのようなことに使われるのか筆者の常々考えるところを記しておこう。もちろん、正体のよく分からない遺物故に甲論乙駁の轍を踏むのは承知である。結論を先に述べるならば、このような石器は模擬戦という祭儀の過程で使用されるのを本来とするのではなかろうかと考えている。しかも、縄紋時代後晩期に発達する石棒・石剣・石刀の3者について該当すると考えている。

ちなみに日本の古典研究から模擬戦という祭儀があったことはかなり以前に指摘され(西郷1967)、考古学では金属製武器を模した木製品が弥生時代の遺跡から出土することからそれが武器型木製品として模擬戦の祭儀でもちいられた祭祀具であることが説かれるようになっている(金関1978、中村1980)。筆者はそのような研究趨勢に鑑み、縄紋時代後晩期に発達するこれら一見武器的な石剣や石棒・石刀が手でもつのに都合いいように工夫されていることの指摘(末永1961、後藤1987)を重視し、遺跡内での出土状況の分析から、完形品ではなく破損品が圧倒的に多いということ(新津1985、藤村1985、山本1979a・b)と、ある対象物に対して例えば石刀を打ちつけたという示唆(末永1961)とを関連づけるべきで、さらには石剣や石棒や石刀はそれぞれを打ちつけあった故に破損品が多いとみるべきと思う。そして、そのような行為の場は、つまりは、模擬戦が行われる祭儀の場に結びつけるべきと考えるのである。要するに集落のどこかに据え付けるのではなく、手で持って使う石器であろうということに注視し、破損品が大多数であることの原因を手に持って打ちつける動作に求めたいのである。そして、そのようなことが執り行われる場は模擬戦という祭儀の場と考えたいのである。また、時として土壙から石棒・石剣・石刀が出土するが、このように副葬品として用いられるのは、被葬者が生前に模擬戦に関与した人物であることを顕彰しているのではなかろうかと想像する。筆者の意見は、学史的には石棒・石剣・石刀を祭祀具と考える見解の1つということになるが、武器とみる見方にも配視し、より具体的な祭儀として模擬戦と結びつけるという点では新しい解釈を示したことになる。

さらには、模擬戦と石棒・石剣・石刀とを結びつけて考えることで縄紋時代後晩期に関する時代像に関しては、緊張をはらむ時代像を描くべきではなかろうかということにもなる。例えば、土偶研究に於いて、後期後半から晩期にかけての日本列島の南・九州とより北の本州とでは土偶製作のピークが時期的に異なることに着目し、アジア大陸からの稲作の到来に帰因した「縄文世界観の存亡の危機」がこの時期にあったとする意見がすでに小林達雄氏によって出されているのは重要であろう(小林(達)1991)。何故ならば、そのような時期に石棒・石剣・石刀の発達を見るからである。これらの石器の発達を考える上で、日本列島内部の事情だけでなく、アジア大陸の動向をも視野に入れるべきであろうと考える。

したがって、真福寺遺跡に異型式の石剣が出土している社会的背景は、思いの外深刻なものとみるべきであろうことをいい添えておこう。

(大塚達朗)

註1 ちなみに、後藤氏は石棒・石刀については以下のような型式設定をおこなっている(後藤1986)。——石棒(東正院型石棒 柏子所型石棒 大沢型石棒 興野型石棒 蟇沢型石棒)/石刀(天附型石刀 新田型石刀 橿原型石刀 保土沢型石刀 萪内型石刀 山本新型石刀 寺家にしきど型石刀 小谷型石刀 亀ケ岡型石刀 九年橋型石刀 札苅型石刀)。

参考文献

大野憲司ほか、1994、『東北横断自動車道秋田線発掘調査報告書XVII——虫内III遺跡——』、秋田県教育委員会
金関恕、1978、「木製武器」『日本原始美術体系』5:176、講談社
後藤信祐、1986、「縄文後晩期の刀剣形石製品の研究(上)」『考古学研究』33-3:31-60、考古学研究会
後藤信祐、1987、「縄文後晩期の刀剣形石製品の研究(下)」『考古学研究』33-4:28-48、考古学研究会
小林達雄、1991、「縄文文化と弥生文化」『弥生文化——日本文化の源流を探る——』212-217,大阪府立弥生博物館
小林行雄、1951、『日本考古学概説』、東京創元社
西郷信綱、1967、『古事記の世界』、岩波書店
末永雅雄、1961、『橿原』、奈良県教育委員会
鳥居龍蔵、1924、『諏訪史』1、信濃教育諏訪部会
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能登健、1981、「信仰儀礼にかかわる遺物(I)」『神道考古学講座』1:108-128、雄山閣
野村崇、1985、『北海道縄文時代終末期の研究』、みやま書房
藤村東男、1985、「岩手県九年橋遺跡出土石剣類の損壊について」『古代』80:241-257、早稲田大学考古学会
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八幡一郎、1934、『北佐久の考古学的調査』、信濃教育会北佐久教育部会
山内清男、1939、『日本遠古の文化』(補註付・新版)、先史考古学会
山本暉久、1979a、「石棒祭祀の変遷(上)」『古代文化』31-11:1-41、古代学協会
山本暉久、1979b、「石棒祭祀の変遷(下)」『古代文化』31-12:1-24、古代学協会
山本暉久、1987、「石棒性格論」『論争・学説 日本の考古学』3:95-122、雄山閣


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