日本
東京市向ヶ岡(現東京都文京区弥生)、向ヶ岡貝塚
弥生時代後期
頚部径8.4cm、胴部最大径22.7cm
底部径8.5cm、高さ22.0cm
資料館人類・先史部門(DO. 6990)
農耕社会の定着発展期として縄文時代と古墳時代の間に位置づけられる、弥生時代。その名称の由来は、この1個の土器が1884年(明治17年)、帝国大学(現東京大学本郷キャンパス)の隣地、向ヶ岡弥生町(現文京区弥生)で貝や縄文土器とともに発見されたことにある。この壺が発見された地点は「向ヶ岡(弥生町)貝塚」と呼ばれているがその正確な位置はよく分かっていない。
5-1 向ケ岡弥生町出土の壷型土器(最初の弥生土器)
「弥生町の壺」を発見したのは有坂蔵氏であるが、『東洋学芸雑誌』上に報告したのは坪井正五郎氏であり、1889年(明治22年)のことであった。当初から、この壺形土器が弥生式土器と呼ばれていたわけではないが、後に、蒔田鎗次郎氏が1896年(明治29年)自宅ゴミ穴壁面から出土した土器について、「はじめて弥生ヶ岡より発見せられたるゆえに人類学教室諸氏が弥生式と名づけられたるもの」と述べたように、次第に「弥生式」の名称は定着していった。つまり、弥生町出土の1個の壺形土器は学史的に「最初の弥生式土器」となる。昭和初期になると弥生式土器は日本の初期農耕文化の土器であると認識されるようになり、ここに「弥生」の名は日本の1つの時代を表す名称となっていったのである。 一方、弥生式土器の研究が進むと、弥生式土器を分類し、地域差や時期差を明らかにしようと試みられるようになる。1939年、日本各地の弥生式土器の編年を試みた『弥生式土器聚成図録』が小林行雄氏らによって刊行されたが、ここで再び「弥生町の壺」が注目された。つまり、南関東地方の弥生土器は4つの様式に分けられたが、「第三の様式は彌生式土器の名の基となった彌生町貝塚の土器を以て代表される様式である」、「第三様式を彌生町式と呼ぶことを提唱したい」としたのである。その後、杉原荘介氏によっても「弥生町式」の名が用いられるようになり、南関東地方の弥生時代後期に使われた「土器形式」と考えられるようになる。つまり、「弥生町の壺」は時代の名称の由来となったとともに、一地方のある時期の標式ともなってきたのである。
1974年、東京大学浅野地区構内で弥生土器が発見され、翌年東京大学考古学研究室及び人類学教室によってこの地点の発掘調査が行われた(挿図2)。調査区内からは集落を囲む環濠と考えられる断面V字形の溝が検出され、溝内からは数カ所の貝層と一括出土品を含む土器などの遺物が検出されたのである。 この調査地点は、発見者の有坂氏が記した、「根津の町を眼下に見る丘」、「陸軍の射的場があってその西北の方」u上野の森や不忍池を望んでいる」、といった向ヶ岡貝塚の位置についての記述と合致し、しかも、「貝塚は円形や矩形の穴で一部削られていた」(佐藤1975)とされることから、この調査地点が有坂氏の「弥生町の壺」発見地点であった可能性も示唆されている。
5-2 「弥生町の壷」発見の頃の弥生町周辺と東京大学調査地点 |
東京大学によって調査された断面V字形の溝が集落をとりまく環濠であるならば、調査地点の北西側に展開する集落をとりまいていたものと考えられる。つまり、調査地点は環濠の南東コーナー部分に相当すると考えられ、環濠はさらに崖線に沿って言問通りの方へ伸び、西へ湾曲して旧射的場の谷の方へ向かい、小台地上を南走、東走して1周していたものであろう。調査地点で環濠内への貝や土器の廃棄が見られたということは、集落をとりまく環濠の各所に、点々と同様の廃棄が行われていた可能性は高い。有坂氏の発見した壺は口縁を除いてほぼ完形であるから、弥生時代にこの壺が廃棄された後に、原位置を動いた可能性は少ない。つまり、有坂氏の発見地点は集落をとりまく環濠のどこかであり、東京大学調査地点であった可能性も高いといえよう。
東京大学調査地点の発掘報告書は『向ヶ岡貝塚』として刊行され、同遺跡は「弥生二丁目遺跡」という名称で史跡指定されている。
肩部には縄を転がしてつけた縄文装飾が施され、上側の縄文をつけた後に、それとは撚りの異なる縄を用いて下側の縄文をつけている。縄の原体は「単節縄文」と呼ばれるもので、細い割にやや長めの縄を用いている。この下段の縄の下端には、縄が解けないように縄の節の1本を解いて結んだ跡がS字状になって付いている。縄文の上には円形の貼付文が3つずつ並んで施され、一部欠けているがこれが、6単位ほぼ等間隔に頚部にめぐらされていたようである。
縄文を施した部分以外の胴部は全面にわたって丁寧にミガキ調整されるが、頚部の縄文より上はミガキ調整の痕跡は認められない。ミガキが施された部分は焼成の具合で、赤みがかった部分もあるが、もともと赤く塗られてはいなかったようである。
挿図3には東京大学の向ヶ岡貝塚の調査で、環濠内より一括出土した土器群であるが、様々な土器がみられる。1は「弥生町の壺」に似ているが、底部は突出せず、やや上げ底になる点や、胴部に縦ハケを施し胴下位の稜をなす接合部付近を横位にミガキ調整するなど、駿河湾西部から天竜川流域の特徴を持っている。2は東京湾岸に特有の広口壺であり、3は平底の甕であり口縁に布目の押圧文を施すなど東京湾岸に見られる手法を持つが、胴下位に残る接合の手法やハケ目による調整法、口縁端部の仕上げ方など、東海地方東部の特徴を有しており、南関東地方との折衷的な土器といえよう。4、5はハケ調整の台付甕であり、東海地方東部から相模湾及び武蔵野台地東部に分布するものである。 このようにみてくると、「弥生町の壺」は東海地方東部、中でも駿河湾の東部との類縁性が認められるようである。「弥生町の壺」が東京大学の調査で環濠より出土した土器と同じように廃棄されたものであったと考えれば、向ヶ岡貝塚の環濠には、南関東地方の特徴を持つ土器とともに主に東海地方東部との関連を持つ土器群が出土していると考えられよう。 向ヶ岡貝塚に近い、神田川流域や荒川中下流域は、新宿区下戸塚遺跡、板橋区四葉地区遺跡、同区根ノ上遺跡、北区赤羽台遺跡など弥生時代後期の環濠集落が集中している地域である。これらの環濠集落からも、主に東海地方東部との関連を示す土器群が出土しており、向ヶ岡の環濠集落と同様な傾向を示しているといえよう。四葉地区遺跡や神奈川県綾瀬市神崎遺跡などでは東海地方から直接人が移住してきたことも示唆されている。
5-3 向ケ岡貝塚(東京大学調査地点)B溝(環濠)一括出土土器(報告書より転載)
向ヶ岡貝塚の環濠から出土した弥生土器には、東海地方に見られる手法が見られるほか、南関東地方との折衷的な要素や東海地方の手法には見られない特徴を持つものもある。「弥生町の壺」も多分に東海地方東部、特に駿河湾付近の土器づくりの特徴を残しており、その地から弥生時代後期にこの地へ移り住んだ人々、あるいはその後間もない後裔の手に成ったものである可能性が高いといえよう。
(鮫島和大)