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石器・土器・金属器

(日本)


3 土面(重文指定)


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日本
秋田県山本郡二ツ井町麻生遺跡
縄文時代晩期
直径14.5〜13.9cm
資料館人類・先史部門(BE. A4117)

秋田県山本郡二ツ井町麻生遺跡は米代川と阿仁川の合流する地点に位置し、縄文時代後・晩期の土器・土偶等の優品を出土することで古くから知られる。残念なことに、これまでに学術的な発掘調査がなされたことはほとんどなく、当資料館のコレクションもその例に漏れるものではない。しかし、量的なまとまりと多くの優品をふくむ点で当館のコレクションは貴重なものと言える。当資料館に収蔵されている麻生遺跡の資料のうち、土製品は計21点を数え、そのうち土偶が13点、土製仮面が2点、岩版が2点となる。それらの主要なものは、大洞B2からC2期のものである(磯前・赤沢1991)。

麻生遺跡は東西2地点からなるが、ここで紹介する仮面は明治20年頃、大洞C1期を主体とする東地点から掘り出され、地元の蒐集家小笠原為吉氏に所蔵されていたものである(——1898)。東京帝国大学人類学教室の画工大野延太郎(雲外)が明治30年(1987年)12月初旬に麻生遺跡の調査をおこなったさいに、この仮面を小笠原氏から預かり、人類学教室に持ち帰ったのである(——1897、同上1990)。それはすぐさま当時の主任教授坪井正五郎の古典的論文「石器時代の仮面」のなかで中央学界に紹介されている(坪井1987)。なお、そこには大野延太郎の手になる模写図が載せられているが(挿図2-I)、大野の図には明治33年(1990年)に発表された別のものもある(——1990)。一方、この仮面のまとまった説明としては、明治38年(1905年)の『人類学写真集 日本石器時代土偶ノ部』における柴田常惠のものがある(坪井・柴田1905)。

その後、この仮面に対する言及や説明は再三おこなわれ、その資料的・美術的価値はひろく知られるところとなり、昭和32年(1957年)には重要文化財に指定される(野口1957)。そして、昭和41年(1966年)に東京大学総合研究資料館が設立されるのにともない、同館の人類・先史部門に保管され、現在にいたる。

椀形の形状を呈するこの仮面は、縦幅14.5センチ、横幅13.9センチの、大人の手のひらに収まるものである。内湾の深さは中心部で最大値4.1センチを測る。眼・口は塞がっており、外部を覗くことはできない。額部左右下端に開けられた直径0.5センチの耳孔の存在は、この仮面が、人間が直接着装する「被り仮面」よりも、壁や木柱などに掛ける非着装の「飾り仮面」、あるいは着装するにしても間接的なかたちでの「当て仮面」として用いられたことを示している(坪井1987、磯前1994)。 製作法は内湾する円盤を基盤とし、その表面全体に薄い化粧土を貼りつけている。外縁部には幅0.4センチ前後の沈線が二条めぐらされ、沈線部から外縁部にかけては無文、沈線部より中心寄りのところには縄文帯が設けられている。外縁部の厚さは0.6センチ前後である。裏面はヘラ削りをしたうえで、ナデが施されている。ヘラ痕がかなり残っているものの、表面同様に光沢をもったものに仕上げられている。色調は右頬の茶褐色を除くと、表裏両面とも全般に黒褐色を呈する。焼成は堅固な状態を示す。

額・眼・頬・口・顎部には、周囲の無文帯より一段盛り上がった浮き彫り状の縄文帯が設けられ、そこにLR縄文が充填される。額部縄文帯には大洞C1式土器の文様と共通する雲形文が三単位施文される。但し、額部を無文帯にする資料も珍しくはない。

遮光器状の眼部の上下辺にめぐらされた眼帯は縄文帯にされ、両眼帯上辺には半裁竹管が外に向って開いたかたちで施される。そして、左右両眼帯のあいだには縦位のB突起が付されている。なお、左眼部は眼帯上辺を除き欠損しているが、偶然の剥離が想定しにくい部位のため、意図的な破壊のおこなわれた可能性もある。もしそうであれば、鼻梁を斜めに走るヒビも、そのさいの衝撃で生じたのかもしれない。

無文の鼻部には鼻梁がまっすぐに走り、鼻先にいたって急激な隆起を示す。鼻孔は陰刻によって深く開けられている。鼻の下には二条の縄文帯によって人中が表現されているが、その縄文帯はさらに下垂して楕円形の口の周りをめぐる。この口部の中央には横位の沈線が引かれている。そして、頬部には陰刻の三叉文を抱えた縄文帯が、中央に向かって二等辺三角形状に張り出し、その両底辺部には円形の突き出しが付されている。顎部にもB突起状の縄文帯が三単位施されている。

仮面はその数の少なさから、族長あるいは特定集団に保管され、彼らの指揮下のもと共同体の儀礼がとりおこなわれていたと考えられる。そこから、族長による共同体成員に対する共同体の価値規範の付与、例えばイニシエーションなどの具体的な儀礼を推察することも可能であろう。それは、土偶がその量の多さから共同体成員のあいだに広汎に保有されていたと考えられるのとは対照をなす。また、土偶はその破損率の高さから儀礼のさいに故意破壊がおこなわれていたと思われるが、それに比べて仮面の破損率は低く、仮面自体の破壊が儀礼の必須過程であったとは考えにくい。

仮面と土偶の違いは儀礼過程にとどまらず、型式特徴にも指摘することができる。遮光器型土面第一類に属する麻生の資料は、小型で内湾する形態、額部の文様帯、ふさがれた遮光器状の眼部、人中、写実的な鼻部、頬部の三叉文などの型式特徴を示すが、それらは遮光器状の眼部を除くと、遮光器形土偶にはみられないものである。総じて、遮光器形土偶は抽象的な表現傾向をもつが、それに対し、遮光器形土面は現実の人間の顔の造作に近い写実的傾向をもつ(磯前1994)。

遮光器型土面第一類はおよそ大洞C1期に北上川中流域以北の東北北半部に分布するが、このことは東北北半部がその他の地域に対して仮面儀礼を共有するひとまとまりの地域であったことを表している。但し、同じ遮光器型土面第一類といっても、東北北半部のなかでいくつかの地域的な特色を示す(挿図1)。資料数が少ないため強引な推測にならざるを得ないが、米代川流域では耳部を欠くのに対し、北上川中流域では耳部をもち、岩木川・雄物川・馬渕川流域では両方の折衷様式をもつ。しかも、馬渕川では遮光器型土面の外に鼻曲り型土面を併せもつ。鼻曲り型土面は、遮光器型土面が直接の着装を不可能とするのに対し、眼孔・耳孔を穿った人面大のものであり、直接的な着装を可能とする。仮面の表情の違いや異型式の併存は、東北北半部の各河川流域で仮面に込められた精霊のイメージが異っていたことを示す。このような東北北半部における仮面型式の共有とその内部での差異の併存は、東北北半部における緩やかな文化的同一性の存在を前提としたうえで、各河川を単位とする固有の文化的同一性が存在したことを物語っている。

3-1 大洞CI期における東北北半部の仮面
I〜IV.VI.遮光期型土面第1類、V.花曲り型土面

3-2 秋田県麻生遺跡出土の仮面

なお、麻生遺跡からは遮光器型土面第2類の資料も出土している(磯前1992)(挿図2-II)。これも当資料館に保管されているものであるが(標本番号546)、もはや眼部は遮光器状をとらず、鼻下の人中も消滅する。現長の縦幅9.2センチ・横幅5.9センチを示す大きさは第一類同様に手のひら大であるが、断面形は新たに平板化し、裏面にも文様が施文されるようになる。耳孔もみられなくなり、同じ飾り仮面でも何かに掛けるよりも、横に安置するか立て掛けるほうがふさわしくなる。 縄文時代の土製仮面は後期前葉の九州北部・韓国南部を皮切りに、その形態・文様を変えながら日本列島を北上していった。最後に行き着いたのが、晩期東北北半部の亀ケ岡文化であった。しかし、それも遮光器型土面を最後として、土偶よりもいち早く日本列島から姿を消す。つまり、麻生にみられる2点の資料は、縄文時代の土製仮面の最後の姿を伝えるものなのである。

(磯前順一)

参考文献

麻生出土の土製仮面
——、1900、「石器時代土製仮面」『東京人類学会雑誌』177
坪井正五郎・柴田常惠、1905、『人類学写真集 日本石器時代土偶ノ部』、東京帝国大学
野口義麿、1957、「新重要文化財 土偶・土面の研究」『MUSEUM』71
磯前順一・赤沢威、1991、『東京大学総合研究資料館所蔵縄文時代土偶・その他土製品カタログ』、東京大学総合研究資料館
磯前順一、1992、「岩手県根岸・秋田県麻生出土の土製仮面—東京大学総合研究資料館蔵品より—」『考古学ジャーナル』323

明治30年の麻生調査
——、1897、「羽後来信」『東京人類学会雑誌』141
——、1898、「秋田県庁より東京帝国大学への照会」『東京人類学会雑誌』143
大野延太郎、1898、「羽後国北秋田郡七座村大字麻生上ノ山遺跡取調報告(第1回)」『東京人類学会雑誌』143

仮面総論
坪井正五郎、1897、「石器時代の仮面」『東洋学芸雑誌』197
磯前順一、1994、『土偶と仮面—縄文社会の宗教構造—』、校倉書房


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