日本
茨城県稲敷郡東村福田貝塚
縄文時代後期
高さ13.5cm、底径6.8cm、口径6.6cm
資料館人類・先史部門(CW. 2155)
遺跡は明治26年に坪井正五郎らが椎塚とともに確認した学史上名高い貝塚であり、佐藤の報文によると調査地点は字神明前にあたる。地表から貝層が確認できる部分を貝層下まで発掘したということであるが、この土器がどの層から出土したのかは記録にはない。ともに堀之内一式から加曾利B3式までの土器が出土しているようである。幾多の土器が出土した中で佐藤はこの土器をそれまで出土例のない第一に注目すべき遺物として報文でとりあげたが、100年経った現在でも同類の完形品の出土は希である。
器面は丁寧な平滑化がなされており、器表には砂粒はほとんど認められない。頚部と胴部を別に作り装着したのか、内面の接合部分には鋭利な触感がある。注口の接合部分は通常の方法では観察ができず、どのような装着方法を用いているかはわからない。注口部側の把手表面の調整がやや粗いのは注口部が邪魔になったためと考えられる。器面調整の丁寧さにくらべると、文様施文や把手の接合にはやや粗雑さが見られる。細い粘土紐を貼り付けた区画の中に長円形の区画を削りだし、そこに点列を充填しているが、点列は直線とはならず、また区画からはみ出している部分もある。把手の左右にも沈線区画文と列点が施されるが、左右対称とはなっておらず、いずれも把手の左側が逆コの字形の区画であるのに対し、右側は不完全な区画となっている。また胴部の沈線文はほぼ対称に配置されているものの、注口部と逆側の把手はそれには沿わず時計方向にずれた位置につけられている。底面にはけずり痕があるのみで、網代痕などはない。また器面には特に用途を示すような使用痕跡は認められない。
いつの発掘かは判らないが、ほぼ同工異曲の注口土器が同じ福田貝塚から出土しており、かつて滋賀県長浜市の下郷コレクション中に納められていた。その写真が『日本原始工芸』に掲載されている。しかしコレクション散逸後の考古遺物類の所蔵先である辰馬考古資料館、天理参考館、大阪市立博物館にはその土器は見あたらず、残念ながら現在の所在は確認できないでいる。現在でもこのタイプの土器の出土数が少なく、一遺跡から二個体も完形に近い土器が出土していたのは珍しい。
この注口土器の編年的位置は縄文時代後期中葉の加曾利B1式とされている(山内他1964)。しかし同時期の他の器種と文様の共通性が乏しいため、変化を追うことが難しく、土壙内、住居址一括出土など他の土器との良好な伴出例が殆ど知られていない。そのような意味ではやや特殊なタイプである。底部が張り出すこの特徴的な器形の注口土器には列点文が組み合うのが一般的であり、この基本的な文様と器形の組み合わせは前段階の堀之内二式で成立しており、さらに頚部が筒状に発達した器形も前段階で祖形が認められる。注口土器には独自の文様が用いられる傾向があり、この土器に見られるような区画内に列点を充填する手法の文様もまた注口土器特有のもので同時期の他の器種で用いられることはほとんどない。この種の文様が施されたほかの器種としては堀之内二式の浅鉢形土器があり、その他には堀之内二式から加曾利B1式の深鉢形土器の突起の内面に希に用いられるのみである。堀之内二式が層位的に出土した東京都荒川区延命院貝塚の調査では上層の2つの層から同種の注口土器の口縁破片が出土しており、また茨城県土浦市上高津貝塚でも堀之内二式終末期の土器を主体とし加曾利B1式の土器が若干混じる層から把手部分が出土している。これらのことからこのタイプの土器の製作開始の時期を堀之内二式末期まで遡らせることができる可能性がある。
推測される変化としては、胴部に渦巻き文を持つ群馬県赤城村三原田出土例(挿図1)のようなタイプが堀之内二式にあり、渦巻き文様の把手を持ちながら頚部に区画文のある神奈川県伊勢原市下北原出土例(挿図2)や茨城県高萩市小場出土例(挿図3)を次の段階におくことができるであろう。そして把手の位置が口縁部より下につけられるようになった段階が福田出土例であると考えられる。 地域的広がりとしては北は福島県、西は滋賀県まで確実に分布しており、器種は判然とはしないが大阪府淡輪遺跡でもこの注口土器の流れを汲むと考えられる土器口縁部破片が出土している。 なぜかこの特異な形態の注口土器は後継器種を残さないまま姿を消したと見られ、密接細線文を特徴とする注口土器(鎌倉市東正院遺跡)(挿図4)がこのタイプにとって替わり、さらに広範囲に分布を広げることとなった。
(西田泰民)