金銅造
朝鮮
平壌(?)
11世紀初頭
高さ(中尊)67.5cm、高さ(両脇侍)37.6cm
福井武次郎氏旧蔵
文学部考古学研究室・列品室
水瓶を左手に、未開敷蓮華を右手に持し、頭上に化仏を頂く金銅観音像は中国北魏の代に先行作例が確認でき、太和8年(484年)銘をもつものは図像的先駆として知られている。古代朝鮮でも、三国時代7世紀の同形式のものが伝えられ、この種の造形の広範囲の流布が推測される。中国宋代では、各宗派とも観音造形を好んだことが指摘され、この形式の造形も時代とともに生きていたことが想定される。
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「統和」は中国遼代(916〜1125年)聖宗(在位983〜1031年)の年号で、「二十八年」(1010年)は、宋真宗(在位998〜1022年)大中祥符三年、高麗顕宗(在位1010〜1032年)元年、日本一条天皇(在位986〜1011年)寛弘7年に、それぞれ当たる。『遼史』に徴すれば、高麗朝の中でも、統和期に当たるこの時期は、学童を遼に派遣して遼の言葉を勉強させるなど、遼との交流が急速に多くなったようだが、一方では、『宋史』によると、高麗朝が遼の年号を用い、その正朔を奉じるようになったのは、恐らく文宗朝の1030年代以降のことらしい。本像の「統和二十八年」の1010年代には、遼との往来は多くなったが、宋王朝を正統と仰ぐ意識が依然として強かったように思われる。この時期で遼の年号を仏像に使ったということは、本像の製作地を暗示するように思われ、可能性としては、遼の工房が高麗の注文を受けて作ったことが考えられる。
ところで、統和期の年銘をもつ本像はしかし、様式の観点から見ると、完全に朝鮮化した高麗仏像の系統と違い、必ずしも当代の様風そのものでないことが指摘でき、そして、一見大陸的ではあるが、宋風彫刻の自由平明さとも違い、言ってしまえば、かなりの古様を伝えているように思われる。
三像とも頭部から足まで一鋳で、蓮肉、八角台脚を含む台座は別鋳である。いずれも光背をつけた痕跡が見られず、部分的に錆が甚だしいほか、鍍金がよく残り、特に両脇侍が保存良好である。三像通じて、背面肩部に掛けた天衣がU字型に腰辺まで垂れ、韓国公州博物館蔵7世紀の百済観音像(挿図1)、日本では、新潟関山神社に現存する百済7世紀の菩薩像(挿図2)と同じ意匠をもつ。また、半跏像ではあるが、両肘後部衣端の鋭角的なはりも含めて、近似する表現を有する古新羅の作品があり、MOA美術館蔵隋代金銅菩薩像(挿図3)にも先駆的な様式が確認される。因に、日本の仏像の中で、那智山経塚出土十一面観音(挿図4)を始め、7世紀白鳳時代の菩薩像に集中してそれが見られるのは興味深いことである。
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それらに加えて、三面頭飾をつけた頭部が大きめ、腹を前方に突き出して、反りぎみに直立する、殊に両脇侍が長身に表現されているなどの点も、朝鮮三国時代後半の百済の観音像の基準作と見なされるもの(挿図5)や、前掲公州博物館蔵百済観音像に共通して、中国北斉隋代様式の吸収を窺わせる。 一方、天衣の作りに乱れが認められ、背面肩にあった天衣が正面から見ると、消えてしまっている。その結果、膝下でX字型に交差する天衣が2本となり、それぞれの一端が両腰側で鋲で止められ、形式的なものとなってしまった。宋風のものと見なされる台座の反花の細長い蓮弁と共に時代の下るのを物語り、銘記の示す時代の認定に証拠を与えるように思われる。
遼代在銘の作品が少なく、様式的比較を行い難い現状の中で、幸いにも、「統和二十六年」(1008年)銘の金銅菩薩像(挿図6)が伝存する。座像であるため、全容の比較は適当ではな<
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いかもしれないが、上半身のモデリング、例えば端正でやや硬直した姿勢、細めの首に大きめの頭部、はりながら丸みをもつ両肩などには類似性をみて取ることができるように思われる。そして、細部表現をもたず、大まかに把握される淡泊な肉身感覚は、両像通じての特徴であり、前代の唐とも、当代ないしその後のものとも違い、前記斉隋代の名残を偲ばせる。そういう意味では、本像はまた、遼代造像の守旧性の一面も示してくれると言えるかも知れない。
時間、資料等の制限で、詳細な検討ができないが、中尊と両脇侍の顔面形態、表情における著しい相違が第一の問題として残り、同じスタイルの中での作風の違いも見逃せない。特に中尊の顔の異常なほどの膨らみや、女性的な優しい笑顔は、朝鮮三国時代の中でも、古新羅の独自な展開と見なされる童顔を彷彿とさせるところがあり、中尊と両脇侍との間に再模倣、再創造の関係があることも考えられないでもない。今後の材質等に対する精査を待たねばならぬ。
(漆紅)