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仏教彫刻

(中国・朝鮮・タイ)


19 菩薩頭部


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石造
中国
山西省天龍山石窟
8世紀初頭
高さ20.5cm
文学部考古学研究室・列品室

天龍山は彼の有名な雲岡石窟と同じ山西省に位置し、北斉(550〜578年)の代から造寺造窟が始まったことは文献によって知られる。通称の天龍山石窟は東峯と西峯とに分けられ、初期の造営としては、北斉皇建元年(560年)の聖壽寺(一説には天龍寺)や、仙嚴寺などが著名である。東魏に続く北斉代の造像の中心と見なされるこの地には、以降、隋、唐を経て、多くの造営が重ねられ、時の仏教造形の流れを把握する上で、豊富な資料を残してくれた。しかし、この天龍山石窟も、時の移り変わりと共に、長年荒涼のままに眠っていた。大正7年に関野貞氏の踏査を契機に、再び人目に触れることになった。以来、度重なる人的破壊によって、支離破砕して、今日では、もはやその全容を仰ぐことができない。眼前のこの美しい菩薩頭が過去の破壊につながっているとはなんと痛々しいことであろう。あるいは、舎利八分の思いでもって接するのがその痛みに対する些かな慰めかも知れない。

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本像はもと繭山順吉氏の収集品で、頭飾に丹、髪際に青、唇に朱が残り、顔面のところどころに白土の跡が認められる。彩色像だったであろう。髻部が欠損し、頭部の宝珠形頭飾、鼻先、左耳下部が黒ずんで見え、後補時に使われた接着剤の変色と思われる。後頭部には、上に、
「百」
その下には、
「十八窟
左協」
の墨書がある。「協」は「脇」の誤写であると推察されるが、「百」が何の数字なのかは分からない。根津美術館所蔵の天龍山仏頭、菩薩頭にも、同じ位置にそれぞれ「上」と「深」の墨書をもつものがあり、もとは共通した事情を有することを想像させる。

さて、十八窟は、西、北、東の3面の壁に、それぞれ一仏二半跏菩薩、一仏二立形菩薩二半跏菩薩、一仏二半跏菩薩二立形菩薩がある。左脇侍と考えられるのは、西壁1、北壁2、東壁2の計5躯があるが、『天龍山石窟の現状』によれば、北壁の2つの内、1つは根津美術館所蔵で、1つは旧山中蔵と言われ、作風から見ればそれでいいようである。

東壁の2つについては、同論文では、ハリー論文「天龍山彫刻—復元及び年代推定」の掲載写真の69番、菩薩頭部(旧山中蔵)(挿図1)を半跏像の方に当て、立像の方は明らかにされていないが、もと北壁にあった脇侍の頭部に接合されているその上半身(ともに根津美術館所蔵)の法量からみて、本頭像より一回り小さいことが分かり、本件と無関係と見てよかろう。

西壁の左脇侍の頭部も所在不明。ただ、その破損状況からみて、これも本件との関係が薄いように思われる。むしろ、東壁本尊頭部(根津美術館蔵)(挿図2)との作風上の近似などから、本頭像はもとは東壁にあったと推定するほうが妥当かもしれない。そして、本頭像が前掲ハリー論文写真69番菩薩頭部とほとんど差が認められないほど似ていることもこの推定を裏付けるように思われる。

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ところで、『中国文化史跡』では、破壊前の十八窟東壁の写真(挿図3)が紹介されている。それによると、半跏像頭上の髻が既に欠損しており、ハリー論文に上げられた写真69番菩薩頭部の現存状態とは論理上の矛盾がおり、その点、本頭像のほうがうまく当てはまるように思われる。つまり、本頭像の帰属について2通りの考えができる。1つは、今述べたように、東壁の左脇侍半跏像に本頭像を、右脇侍にハリー写真69番頭部を比定することである。もう1つは、ハリー写真69番頭部と本頭像とを同一のものとする見方であるが、その際には、ハリー写真69番頭部に対する確認の作業が残る。いずれにしても、過去の写真を含む資料の再確認、再検討の必要があり、今後の進展を待たなければならない。因に、本像の鑑賞に当たっては、現在の真っすぐの状態ではなく、身体部にある動きの方向に沿ってやや傾いた感じでみられるのが本来の姿にふさわしいということを付言しておきたい。

天龍山には、唐代石窟が14あり、そのもっとも優れたものに四窟、十四窟とこの十八窟などが上げられる。十八窟は、玄宗帝開元期(712〜742年)前後の造営と言われ、そのすばらしい出来栄えは、たとえ断片残頭と言えども、一世を魅了する。よく絶賛されるところのゆったりとした、静かな趣は、本像を通してもその一斑を窺うことができる。人体に対する的確な把握は、例えば本展の東魏天平四年銘像と比べても、著しい進歩が見られ、これはまた、北魏様式と違う唐様式の本質でもあると考えられる。東魏像は、全身が着衣に覆われ、身体部の肉体表現が見えないどころか、部分的には歪曲された関係にある感じさえする、それほど肉体の存在が無視されていた。顔面も理想像的な細面で、表現のポイントはより正面に集中される。それに対して、この天龍山頭像は、膨よかな顔面形態の中で、弾力性に満ちた肌の感触を出し、唇の優美な曲線にも豊かな肉体感が示されている。ここでは見られないが、身体の比例、動きから肉体の起伏まで写実性に富み、唐代を通じての造形精神を我々の目に訴えてくる(挿図4)。

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唐代に至るまでの300年間の造像事情はもちろん、唐様式に即しても、尚多くの問題が残り、一言で言い切れないことはいうまでもない。全体として、石材による人体の立体表現に恵まれなかった北中国の土地にこれだけの出来栄えの作品が作れたことは、東西南北の広範囲にわたる交流なしでは到底考えられないことである。前掲写真(挿図4)の菩薩像に見られた崩した半跏形式は、時代の隔たりがあるが、インド古来の在家信者、または国王、竜王の形象によく見られるポーズであることは興味深い。ともかく、この交流の結晶は、龍門の唐代石窟であり、天龍山石窟であるが、中でも、天龍山からは石に思えないぐらいの柔らかさや、菩薩の姿勢をさらに自由にさせる、人体を素材からさらに解放させる、そういった独特なとらえかたが感じられる。そういう意味でも、本像を、前にお勧めした傾いた状態で鑑賞できないのは無限の遺憾と言わねばならぬ。

(漆紅)

参考文献

関野貞、1921、「天龍山石窟」『国華』375号、大正10年
常盤大定・関野貞、1976、『中国文化史跡』、昭和51年
小野玄妙、1927、「天龍山石窟造像攷」『大乗仏教藝術史の研究』、大雄閣、昭和2年、所収
水野清一、1950、「唐代の仏像彫刻」『仏教芸術』9号、昭和25年
林良一ほか、1982、「天龍山石窟の現状」『仏教芸術』1四1号、昭和57年
Harry Vanderstappen and Maryline Rhie, "The Sculpture of Ten Lung Shan: Reconstruction and Dating," Artibus Asiae, Vol.XXVII, 3.1965
田中俊逸、1922、「天龍山石窟調査報告」『仏教学研究』第3号、大正11年


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