前のページ ホームページ 一覧 次のページ

仏教彫刻

(中国・朝鮮・タイ)


18 釈迦像


-39Kbyte image-

石造
中国
山東省曲阜
東魏天平四年正月(西暦537年)銘
高さ46.5cm、(本尊のみ高さ30.3cm)
関野貞氏将来品
文学部考古学研究室・列品室

北魏(439〜534年)は、永煕3年(534年)の東西分裂によって終焉を告げ、西魏(535〜555年)は西方の長安(西安)に都を建てた。東魏(534〜549年)も旧都洛陽を背後に北上して、に根拠地を据え、年号を天平と改めた。以降、隋(581〜618年)の全国統一までは新都が政治、文化の中心になり、仏教造像は再度東中国で栄えた。

本像は、北魏で流行した一光三尊式像に通じる幅広の舟形光背を背負い、灰黒色の石材で作られた如来像で、光背正面には、唐草、蓮華文を挟んで、二竜、二仏、二比丘、二弟子が浮き彫り風に表され、背面には、須菩提よという語り口で始まる経文の一節が升目に正書で丹念に彫ってある。

須菩提若有善男子善女人初日分以
恒河沙等身布施中日分復以恒河沙等身布施後日分亦
以恒河沙等身布施如是無量百千萬億劫以身布施若復有人
聞此経典信心不逆其福勝(註1)何況書写受持讀誦為人解説須菩提
以要言之是経有不可思議不可稱量無邉功徳如来為發上乗者説
為發最上乗者説若有人能受持讀誦廣為人説如来悉知是人悉見是
人皆得成就可量(註2)不可稱無有邉不可思議功徳如是人等則為荷擔如
来阿耨多羅三藐三菩提何以故須菩提若楽小法者著我見人見衆
生見壽者見則於此経不能聴受讀誦為人解説須菩提在在處處
若有此経一切世間天人阿修羅所應供養當知此處則為是
塔皆應恭敬作禮圍繞以諸華香而散其處
大魏天平四年正月敬造

註1 『大正新修大蔵経』では、「其福勝彼」となっている。
註2 『大正新修大蔵経』では、「不可量」となっている。

五胡十六国時代(4世紀初頭〜5世紀半ば)の西域僧鳩摩羅什(343〜413年)訳金剛般若波羅蜜経の文句で、釈迦が弟子の須菩提に金剛般若波羅蜜経を信奉することの利益を説く一節である。光背正面へのやや異例の配置は恐らくこの経文の内容を意識してのものであり、両脇の僧形立像は釈迦の弟子で、同じ僧形の拝む人物は“以恒河沙等身布施”の出家者たちのことであろう。図像的には、菩薩形の脇侍を従える三尊形式が普通であるが、ガンダーラの早期作品には比丘の供養を受ける三尊像が作られていたし、中国五胡十六国時代の金銅仏にも同じ形式の三尊像が確認される。ともかく、本像を釈迦像とすることは認められよう。明治40年代頃関野貞博士によって将来され、1975年大阪市立美術館「中国美術展シリーズ(2)、六朝の美術」展に出陳されたことがある。

さて、天平4年は西暦537年に当たり、同じ天平期の作品で著名なものには、青州 (山東省)という同じ出自をもつ藤井有隣館蔵天平2年(535年)銘像(挿図1)、クリーブランド美術館蔵同四年銘像(挿図2)が知られている。本像は光背の形式、光背底辺を沿う蓮華(蓮葉)の意匠、中尊の細面で大きめの頭部、身体の形態などにおいては、特にクリーブランド美術館像との共通点をもち、時の流行を反映すると同時に、造像の盛況もほのめかしてくれる。第一、像全体を統合する対称性、中尊の裾部の、強くはないが、角張るはりなどは、クリーブランド美術館像に通じ、北魏時代に直結するこの天平期の造像に相応しく、北魏様式の継承を物語る。一方では、クリーブランド美術館像に比べても、光背のあますところのない装飾文や、中尊着衣裾部の衣紋の消失、それに、脇侍比丘の足元の蓮葉(通常は蓮華)、中尊の素髪の表現などから、本像に簡略化傾向が認められ、様式中心から一歩離れた、言い換えれば北魏離れの一面も示されているように思われる。

18-118-2

そして、何と言っても、本像の一番の特色はその丸やかで温和な感覚にあるように思われる。裾部の北魏的なはりに対照する肩部の形態、衣紋の丸みある表現がそれである。同じような趣向は光背各モチーフの作りにおいてもっと顕著に表されているように思われる。例えば竜による荘厳は、北魏時代以来の手法だが、それも本像においては、従来のパターンを踏襲しながらも、やや太りぎみの温和なものになっている。その点、前記天平2年銘像とも違って、その軽快で鋭い感覚と一線を画すものがある。本像と近似した雰囲気の竜を同じ山東省の北魏期作品(挿図3)において見ることができることは興味深く、2年銘像と本四年銘像の継承した系譜の異なった一面も示されているように思われる。

一般に強いはりとこのはりに伴う線的鋭さを特徴にもつとされる北魏正光様式の代表的作品群を、金銅仏(挿図4)を始め、正光期(520〜525年)の河北省において見る見解があるが、河北省に地続きの山東省がその影響を受けていることは言うまでもない。一方この山東省では、正光期より2年早い神亀元年(518年)の銘記を有する作品(挿図5)と、前掲のもの(挿図3)も作られていた。その共通した点はというと、例えば強い張りのかわりに、真っすぐ垂れる裾に示された重厚温和な造形感覚にあることは明らかである。このことは、横の線での北魏正光様式の地域的限界を示すと同時に、縦の線で見た、北魏様式に対する東魏的特徴としてよく指摘される穏やかな丸みの系譜についての1つの解釈へ導くように思われる。思えば、冒頭で書いた東西魏への分裂が仏像の北魏様式からの脱皮を実現させ、東魏におけるそれには、山東省の土地柄で育まれた重厚温和な造形感が介在したように思われる。そういう意味で、本像は北魏的且つまた東魏的だと言うことができるかもしれない。

18-318-418-5

ところで、本像の丸みの主張は、光背にある各モチーフの作り方においても窺えよう。形態だけでなく、決してシャープでない輪郭線、言い換えれば、立体方向の凸出のまろやかな出し方には興味深いものがあるように思われる。山東省はまた、画像石で有名な孝堂山石刻、武氏祠石刻(挿図6)を育んだ土地である。漢時代以来、造形を、線刻または鋭い輪郭線で僅かに対象を凸出させる平板型の形象に託すのに長じ、それに慣れてきたこの地方にとっては、対象を丸みのある立体に表現することが、技法と自覚の両方において、北魏代の課題であると同時に、東魏代及び続く後世の宿題でもあると思われる。本像中尊の透かし彫りの頚部、奥行きの深い頭部に一応示された立体性と、未だ半分素材(光背)に埋まっている肩部の、言ってしまえば偏平性との不釣り合いは、1つの傍注になってくれるだろう。ともかく、まだまだ検討する余地のある問題であるが、漢代画像石では、このように素材から対象を盛り上げるように作り出す浮き彫りの作品が四川省に集中して見られるし(挿図7)、北魏代の仏教彫刻では、従来南北様式の交差点とされる河南省にある竜門石窟の造像例が確認される(挿図8)。このように、本像は大きく南北様式の問題をとらえる時の価値ある材料となっているように思われる。

(漆紅)

18-6
18-7
18-8

参考文献

大村西崖、1980、『中国美術史彫塑篇』、昭和55年
Siren, O., 1925, Chinese Sculpture
松原三郎、1961、『増訂中国仏教彫刻史研究』、昭和36年
中国美術全集編集委員会、1988、「絵画論18」『中国美術全集』
栗田功、1988、『ガンダーラ美術』I、II


Copyright 1996 the University Museum, the University of Tokyo
web-master@um.u-tokyo.ac.jp