縄文時代人骨の調査・収集史

鳥居(1905a, b, c)の報告

荻堂貝塚は、沖縄本島南東部の北中城村字荻堂銀岩の小高い丘の上に位置し、最初の言及は鳥居龍蔵が1905(明治38)年に『太陽』11巻1号にて発表した「沖縄諸島に住居せし先住人民に就て」に見られる。荻堂貝塚は『中頭郡中城間切荻堂(Uujo-)村の後銀岩(Nanjazi-)一名ウリグチ』と当時の地名で紹介され、城趾の付近に位置し、海に面した丘陵の上にある約二百坪の貝塚であるとされる。また鳥居の調査時には既に耕作されていたが、まだ貝塚は残っており、多くの石器や土器の破片を得られるとされる。鳥居は貝塚から多くの石器を採集したとしている(鳥居1905a: 166)。論考には土器4点、石斧1点の図版が掲載されている(鳥居1905a: 167)が、どの遺跡から採集したものかは明示されていない。

なお同論考は、同年の『考古界』4篇8号に再録され(鳥居1905b)、さらに骨牙製品の図版を追加して『東京人類学会雑誌』20巻272号(鳥居1905c)に掲載されている。

松村(1920a, b)の報告

荻堂貝塚は、松村瞭によって1919(大正8)年春に調査され、1920(大正9)年10月10日に発掘成果をまとめた報告書が刊行されている(松村1920a)。調査の具体的な期日に関する記述はないが、大学の命により奄美大島から沖縄本島各地へ赴いた4~5月の出張の合間に調査が行われたという(松村1920b: 46)。沖縄県において初めて本格的に発掘調査が行なわれた遺跡であり(財団法人沖縄県文化振興会公文書管理部資料編集室2000: 364)、現在は国指定史跡となっている。なお松村は、報告書に先立ち、1919年12月6日の東京人類学会例会にて、荻堂貝塚の調査に関して講演している。その大要は「琉球の貝塚」という題で『人類学雑誌』第35巻第2号(1920年2月25日発行)に掲載されており(松村1920b)、同年の報告書の概略となっている。

報告書(松村1920a)によれば、調査時の荻堂貝塚には少量の貝殻が混在した暗黒色の表土層の下に貝層が確認され、遺物包含層となっていた。今回扱った資料には、松村(1920a)の記載どおり、ほとんど例外なく石灰分と貝片が付着している。松村(1920a)の報告書によると、総数786個の土器標本(破片)が採取され、うち230個が文様を有するものとされた。そして口縁部の評価から95個以上の土器から由来すると推計された。これらのうち相当数を器形復元したことが報告されているが、その数は明示されていない。部分復元されている18個体と、口縁部のみの資料15点、底部6点が写真図版に示されている。また67の別個の文様を示す口縁部を含む個体破片が認識され、その拓本が図版に示されている。

石器については石斧と凹石について記述されている。石斧は13個を得たと記述されている。何れも両刃であり、4種類の「形式」が認められるとされるが、分類の基準など詳細は明示されていない。また凹石は10個を得たとされる。その内4個は槌として使用された「槌石」と推察されると記述されている。その他の6個は打たれる方の石器であるとしている。

また、これらの資料の昭和大正期に由来すると思われる写真5点が現存している(東京大学総合研究博物館人類先史部門の「東アジア・ミクロネシア古写真資料画像データベース」(2011年現在は一部非公開)写真番号6155~6159)。

昭和期以後の言及

松村(1920a)の報告後、八幡一郎(1950)が「琉球先史学に関する覚書」を発表し、琉球諸島の先史学について本土の研究成果との比較を通じて概説した。その中で荻堂貝塚から出土した骨器と土器について言及している。琉球でも本土と同じく骨製の銛を用いた狩猟が行われたこと、土器は縄文式土器と似ており、文様は奄美諸島の土器と酷似したものもあるが、資料が充分でないため今後の研究に待ちたいとしている。八幡一郎(1950)の論考には、松村(1920a)の報告では破片を接合し一部に石膏を入れたのみの土器標本について、さらに石膏を入れて底部を除く器形全体を復元した状態の写真が掲載されている(八幡1950: 36 今回のEQ08-29)。

1993年から1997年にかけて、安里嗣淳らによる資料の確認調査と報告が行われた。これは荻堂貝塚に留まらず、総合研究博物館所蔵の沖縄関係考古資料全体の現存状況を調査したものであり、その概要ならびに写真一覧が出版された(安里1994,安里他1996,1997)。土器資料は1997年の報告に954点が掲載されており、このうち755点が荻堂貝塚の土器資料とされている。なおこの報告では当時特定した全点について、収蔵ケースごとに複数の土器片をまとめて写真撮影し、写真に番号を付して報告している。この数字は資料番号ではないものの、同一写真に含められた土器片全てに一括対応する「土器番号」となっている。

石器資料は1996年と1997年に報告され、土器と同様に写真ごとの「資料番号」が付されている。安里他(1996)には総合研究博物館所蔵沖縄関係石斧103点が掲載されており、うち18点が荻堂貝塚、9点が「ウリグチ」(荻堂貝塚周辺の別称)の資料とされている。安里他(1997)には石器43点が掲載されており、うち19点が荻堂貝塚の資料とされている。このうち5点は注記がなく、付随メモから「ウリグチ」とされる資料である。また、3点(安里他 1997の石器資料番号の115と116)は、今回の限定的な基準により、本資料報告書では記載登録しないこととした。

安里らによる上記の報告の後、沖縄県伊是名貝塚の発掘調査が行なわれ、出土資料と比較するため、当館収蔵の荻堂貝塚の土器23点を含めパリノサーヴェイが分析している。これにより、荻堂貝塚出土土器について胎土分析の成果が得られている。分析された資料はチャック付きのポリ袋に入れられ、パリノサーヴェイによって振られた番号「Palyno No.」がメモ書きされている。報告書(橋本・矢作2001)では、胎土をA~H類まで8種に分けており、荻堂貝塚出土土器は全てA類だとされている。A類は以下のように定義されている(橋本・矢作2001: 304)。

砂粒のほとんどは石英の鉱物片とチャートの岩石片からなり、試料によっては他に微量の砂岩や泥岩の岩片が含まれることがある。石英とチャートとの量比関係は、試料によって様々である。その中で全体的な砂の量が少量であるものをA′類とし、さらにチャートが微量しかなく、石英が非常に多いものをA″とした。

この報告書では分析結果に基づき、チャ-トの産状から判断すれば、伊波・荻堂式の混和材の由来する地域としては、伊平屋島、伊是名島、沖縄本島本部半島を結ぶ地域にほぼ限定されるといってよい、としている。荻堂貝塚はこれら素材の供給地と推察される地域から外れている。橋本・矢作(2001: 306-307)では、さらに供給地に位置する伊是名貝塚出土資料と比較し、荻堂貝塚を初めとする沖縄本島出土試料の胎土は砂の径が比較的細粒で淘汰良好なものと、比較的粗粒で淘汰不良のものの両極端に多い傾向が読み取れ、素材の供給地から離れるほど素材の質が集約されてくる現象として考察している。

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