東京大学総合研究博物館所蔵標本の再検討(上條・佐宗・諏訪)

2-1.標本資料調査と標本情報の再整備

東京大学総合研究博物館では中山遺跡出土資料として、標本台帳上で53点、現存を確認した標本として48点が特定されている(中村ら2008)。2012年10月9~11日に上條が標本資料の実見調査を行った。実物が確認されていた出土資料48点(土器27点、石器7点、土製品6点、石製品とその他8点)のうち、『石器 中山』に掲載されていたのは31点(土器20点、石器2点、土製品4点、石製品5点)であった。さらに、『石器 中山』を参考に、出土地不明とされる資料を探索したところ、新たに3点(人類学教室原番号290・2192・5943)の資料を確定することができた。したがって、『石器 中山』の掲載資料53点の中34点、6割以上が東京大学総合研究博物館に所蔵されていることが判明した。これにより東京大学総合研究博物館収蔵の中山遺跡出資料は標本台帳上で56点、現存する標本は51点となった。これらの資料にはすべて「人類学教室原番号」がふられており、大正・昭和期に登録されたと推定される。

東京大学総合研究博物館所蔵が確認できた標本資料51点のうち、30点に来歴をうかがわせる札や貼紙が付いている。発掘の当事者である「佐藤」「初太郎」押印の貼紙がある資料は土器土製品で7点、石器で6点ある(図1-1)。「秋田縣廰ヨリ預リ」と記載され「理科大學人類學教室」と印字された札(以下、人類學教室札、図1-2)は土器土製品では11点、石器でも12点に付属している。人類學教室札の裏書には、佐藤初太郎のほか、村上嘉七・横山安整・佐々木熊次郎・中村徳松・渡邊由蔵の名が認められた。さらに、人類先史部門の標本カード(人類学教室原番号旧カード)でも46点に、これらの人物の名が寄贈者あるいは採集者として記録されている。最終的に現在所在不明の標本を含めた全56点の内、計50点に来歴を示すと思われる情報を確認することができた。なお、人類学教室原番号7823は人類學教室札には「佐々木熊次郎ヨリ」と記載されているが、標本カードには「佐藤初太郎舊蔵」とあり、情報の不整合が見られる。中村ら(2008)に掲載されている一覧リストにこれらの来歴情報等を加え、改定したものを表1表2として、ここに新たに示す。

東京大学総合研究博物館の収蔵資料の大方に同じ内容で同じ筆跡の札と貼紙がある点や、資料の所属時期にまとまりがある点から、ほとんどの資料が佐藤の発掘調査に関連があり、ほぼ同時期に博物館所蔵になったことをうかがわせる。『石器 中山』に掲載された資料と掲載外の資料との間で、札や貼付、遺物カードの状況に明瞭な違いはみられない。遺物ごとに個人名が記されている点について検討したところ、器種のまとまりはないことから、調査時の遺物の第一発見者の名を記したか、あるいは調査後に所有権を分割したのではと推測される。なお、横山・中村・渡邊については貼紙から寄贈当時、五城目町に住所があることが分かる。佐々木については、人類学教室原番号12675(注口土器)に五城目町に「寄留」していた旨の貼紙がある。

2-2.来歴に関する考察

東京大学総合研究博物館収蔵の中山資料の殆どには3~4桁までの人類学教室原番号が付されている。人類学教室原番号カードは大正末~昭和初期に作成されたとされることから(初鹿野ほか2006)、資料受贈はそれよりも古いと考えられる。人類學教室札に「秋田縣廰ヨリ預リ」あるいは「秋田縣知事ヨリ預リ」とあることから、佐藤初太郎調査の発掘後全ての資料は、一時調査に関わった人物に分割されたとしても、ある時期に秋田県保管とされていたと考えられる。

そこで佐藤初太郎の動向をみると(冨樫2011)、調査から僅か1年後の1901(明治34)年5月には秋田県第一中学校、1904(明治37)年2月に函館中学校へ異動し、1906(明治39)年7月に亡くなっている。秋田県在住中に関わりのあった東京人類学会の人物として、大野延太郎(雲外)がいる。佐藤初太郎は中山調査以前、1897(明治30)年に秋田県麻生遺跡を調査しているが、同年に大野延太郎が調査を行っている。1902(明治35)年8月の大野の秋田県来訪時には真崎勇助らとともに中学校師範学校の遺物を案内し、佐藤は人類学教室へ石器を寄贈している。石川理紀之助の日記『克己』には、佐藤の死後、1907(明治40)年2月から佐藤氏旧蔵遺物について、未亡人よし氏、秋田県立図書館長と何度かやり取りをしていることが記載されている(冨樫2011)。こういった経緯から佐藤初太郎の資料の多くは県立図書館に保管されることとなったと思われる。現蔵の資料のなかには中山遺跡関係のものはほとんどない。

1927(昭和2)年の中谷治宇二郎の注口土器に関する論文に中山遺跡の資料が掲載されている(中谷1927)。また、今回の調査で確認された出土場所不明となっていた標本3点(人類学教室原番号290・2192・5943)には、3~4桁までの人類学教室原番号が付されている。この4桁までの人類学教室原番号カードが作成された大正末~昭和初期には、中山遺跡資料をよく知る人物が人類学教室にいなかった可能性がある。

以上をふまえると、おそらく発掘後しばらくの期間、所有者は別々であったとしても遺物が教育資料として馬川小学校に展示・保管されており、それが佐藤の中学校への異動とともに秋田県(中学校)へ移管され、大野延太郎の来訪後から函館への異動前の1902年~1903年(明治35年~36年)の間に佐藤自身が石器の一部とともに、人類学教室へ託したのではないかと推測される。当時の人類学教室において最も資料について知っていたのは大野延太郎であったと考えられる。この頃の大野の足跡をみると1902(明治35)年東京帝国大学理科大学の助手となったのち、関東大震災前の1922(大正11)年に休職を命ぜられており、人類学教室原番号の遺物カードが作成されたと思われる時期にはすでに不在となっていた。


図1−1

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図1−2

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