1956–1957年撮影のイラン史跡写真

西秋良宏

1. 1956–1957年のイラン調査

東京大学イラク・イラン遺跡調査団の当初の旅程は1956年の9月に離日し、まずはイランの諸遺跡、博物館を訪問し知見を深めた後、10月にイラクに移動。北イラクで、テル・サラサートという新石器時代遺跡を発掘し、農耕牧畜経済の起原とその後の発展、それと文明の起源との関係を実地に調べることとされていた。帰国は、同年末を予定していたと言う(江上1959: 18)。ところが、テル・サラサートの発掘が想定以上の成果をもたらしたため、滞在を翌年まで延長し発掘を継続することとなった(総合研究博物館アーカイヴ『第一次東京大学イラクイラン遺跡調査団 諸書類綴』。ただし、1月から2月の北イラクは雨季にあたるため発掘調査には適さない。そこで、その間は、シリア、ヨルダンなど周辺諸国を中心とした遺跡巡見にあて、テル・サラサートの発掘再開は1957年の3月1日とされた。再発掘は同年4月26日に終了したが、その後、一部の団員は再度、周辺諸国の巡見に出立し、全ての団員が帰国したのは8月19日であったと記録されている(標本資料目録125号)。

この都合一年間におよぶ野外調査は、現地での臨機応変な対応の結果、可能になったものであったことがよくわかる。イランにおいても、まず、1956年の9月、予定していなかったマルヴダシュト平原における銅石器時代遺跡群の発掘が可能になった(例えばPlates 30–33)。あまりに急に得られた現地当局の配慮の結果であったため、発掘はペルセポリス近郊のタル・イ・バクーンA、B丘を一週間ほどの間に掘るという慌ただしいものであった。しかし、その後、1959年以降、当地を東京大学の調査団がイランにおける本格的調査地の一つとして定める契機を作ったという点できわめて大きな意義がある。事実、後進の筆者らは土器、石器など当時の調査標本をいまだに頻繁に活用し研究教育にあたっており、関係機関との共同研究をすすめる基盤としている。

また、調査団は、イラク発掘前にイランを訪れただけでなく、発掘終了後にも再度、イランを巡見しつつ調査行を締めくくっている。後に東京大学イラク・イラン調査団が新たな研究目的として「東西文化交流」を掲げていることを鑑みると、イランの諸史跡に東アジア的な香りを感じたのではないかと想像する。さらに、調査団長の江上は、帰国前にテヘラン博物館を訪問し、東京で開催予定のペルシア美術展につき懇談したと言う(下記参照)。


2. イラン調査の写真資料

『イラン史跡写真』(標本資料目録第125号)と同様、イランにおいても、この調査期間中に撮影された写真群は大きく二つに分かたれる。一つは、調査団の公式カメラマン、三枝朝四郎が撮影したもの、もう一つは参加した団員(同行した映画撮影クルー3名と三枝を除き11名、詳細は下記)の手になる撮影写真である。前者は、総合研究博物館が保管する調査団公式アルバムに整理されており、その総数は我々の勘定では約1万2000点に達する。江上(1958: 5)によれば全部で約5万枚の写真が撮影されたというから、残りは個人撮影分と推定される。既に、調査参加者のご遺族から多数の写真類が寄贈されているから、今後、その整理をすすめて全貌を明らかにしたい。

『調査団日誌』(下記)によれば、調査団本体がイラク、テル・サラサート遺跡調査で繁忙中も、団員の一部はイラン各地を巡見していたことがわかる。特に、古生物学の高井冬二、地理学の小堀巌らは、考古学者とは別の関心をもっていたせいか、別行動をとった期間が長い。彼らは、地質学的名所はもちろん、イラン北部、カスピ海沿岸の先史時代遺跡なども訪問しているが、彼らの撮影写真は調査団の公式記録におさめられていない。例えば、調査団が出版した踏査記録(江上1958)に掲載された団員撮影写真の類は、現在のところ、総合研究博物館では同定できていない。後に、自らイラン調査を指揮するようになる東西美術史の深井晋司、先史考古学の増田精一も同様に多くの私的撮影をなしたと思われるが、その内容も現存の記録ではつまびらかではなく、その解明は今後の課題となる。

ウェブ版DB(UMDB)では2089点を公開していたが、今回の改訂にあわせて2125点を公開する。全く新たに追加したのはカラー写真である。6×6が28点、6×9が3点ある。モノクロ写真では6×9が74点としていたところが77点に、4×5は441点が443点に増加した。いずれも、近年の調査で新たに発見された写真を追加したものである。モノクロの35mm(1066点)、6×6(470点)、パノン(36点)、ガラス乾板(2点)の枚数に変更はない。


3. 写真の記載

本書データベースにおける個々の写真の記載項目は既刊の西アジア標本資料目録に準じている。

(1)通番:本書編集において簡便のためにつけた番号。写真図版キャプションにも括弧内にこの番号(#)を付した。

(2)登録番号:東京大学イラク・イラン遺跡調査団がつけた登録番号。X-23-11のように付されている。最初のXはExpeditionの略である。その前に数字がないのは第一次。第二次調査以降は2X、3Xなどとされるが、今回は該当しない。次にRとあるのはいわゆるロールフィルムで大型フィルムが相当する。
 なお、カラーフィルムには登録番号が付されていなかったため、今回、新たに番号をつけている。Rの後にC-Iranを付したものがそれに相当する。

(3)図版番号:本書の図版(plate)番号。

(4)内容:アルバムには被写体に関する説明がほとんど付されていなかったため、調査して、わかる範囲で記載した。出版歴(後述)のある写真については、その出版物に添えられた記載を参考にして記した。記載を引用した際には、カッコ「」書きした。

(5)遺跡・場所:撮影地点。これも筆者らの解釈である。

(6)写真の種別:本文に記載のとおり、4×5、6×6、6×9、パノン、35mm、ガラス乾板のいずれかである。

(7)出版歴:東京大学イラク・イラン遺跡調査団の撮影写真は多数の出版物に用いられてきており、出版歴の網羅的調査は容易ではない。調査団が編集に直接関与した以下の書物で公開されているものについてのみ記した。

  • 江上(1958):東京大学イラク・イラン遺跡調査団編(1958)『オリエント —遺跡調査の記録』朝日新聞社
  • 江上・増田(1962):江上波夫・増田精一編(1962)『マルヴ・ダシュトI タル・イ・バクーンの発掘 1956』東京大学東洋文化研究所
  • 江上(1965):東京大学イラク・イラン遺跡調査団編(1965)『オリエントの遺跡』東京大学出版会
  • 江上(1981):江上波夫編(1981)『アジアの人間と遺跡 —三枝朝四郎50年の写真記録』光村推古書院

(8)関連写真:同じ被写体を同一の、あるいは同じようなアングルで撮影されていることがある。そのような写真をリストアップした。


4. 参考

東京大学イラク・イラン遺跡調査団編(1958)『オリエント—遺跡調査の記録』: 104–107(朝日新聞社)に1956-1957年現地調査の行程が整理されている(深井晋司・尾崎守男「調査団日誌」)。それにもとづき、イラン調査に関わる部分を下記の表に、抜き書きした。シリア、イラクに関わる部分は本資料目録第107、125号にそれぞれ掲載してある。 表中にあらわれる人名は調査団の構成員である(肩書は全て当時のもの):江上波夫(東京大学教授・考古学)、新規矩男(東京芸術大学教授・美術史)、高井冬二(東京大学教授・古生物学)、池田次郎(新潟大学助教授・人類学)、曾野寿彦(東京大学助教授・考古学)、小堀 巌(東京大学講師・人文地理)、増田精一(東京国立博物館技官・考古学)、佐藤達夫(東京大学助手・考古学)、深井晋司(東京大学助手・美術史)、堀内清治(東京大学助手・建築史)、阪口 豊(東京大学助手・地質)、三枝朝四郎(東京大学研究員・写真)、中村誠二(日本映画新社・映画)、桑野 茂(日本映画新社・映画)、尾崎守男(日本映画新社・報道)。


表 東京大学調査団1956–1957年イラン関連行程(抜粋)


1956年
9月
7日 早朝、新、高井以下10名、PAAで羽田空港出発。
8日 午前テヘラン到着。先発の江上、小堀、中村、桑野、尾崎ら出迎え。
9日 江上、新、尾崎は三笠宮と同行、シーラーズに向う。
10日 江上ら、ペルセポリス見学。
11日 江上ら、イスパハーン見学。
12日 江上ら、イスパハーン見学。
13日 高井、小堀、阪口、カスピ海沿岸へ。
14日 江上ら、アンディメシュクを経て、スーサ見学。
15日 高井ら、江上ら、テヘラン帰着。
16日 美建、考古班、テヘラン到着以来、連日テヘラン国立博物館収蔵の諸作品の撮影、実測に専念。
18日 内地より輸送荷物、テヘランに到着。 日本大使館庭で荷ほどき開始。高井、小堀、尾崎、シムランヘ。
19日 ジープ5台、ホラムシャールから陸送、テヘラン到着。新、先発として空路、バグダードヘ。
21日 荷物整理終了、テヘラン大学の案内学生とイラン調査の準備打合せ。
22日 高井、小堀、尾崎らクムヘ。江上、曽野、堀内、佐藤、阪口らダムガンヘ。池田、増田、深井、三枝、中村、桑野らペルセポリスヘ。
23日 高井ら、クム付近の調査。江上ら、テペ・ヒッサール見学。新、バビロン見学。
24日 高井ら、イスパハーンヘ。江上ら、テペ・ヒッサール調査。 池田らペルセポリス着。
25日 高井ら、イスパハーン見学。江上らダムガン周辺調査。曽野、佐藤、先発のため空路、バグダードヘ。増田ら、タル・イ・バクーンの遺跡発掘開始。深井ら、ペルセポリスの遺跡調査開始。
26日 高井らクムヘ。江上らテヘラン帰着。
27日 高井らテヘラン帰着。山田大使主催の東大遺跡調査団歓迎会に江上ら5名出席。
28日 江上ら山田大使招待昼食会に出席。堀内ら、シャー・クーヘ。
29日 江上、空路バグダードヘ。堀内、阪口テヘラン帰着。
30日 池田、三枝、テル・サラサート発掘のため、ペルセポリスを出発。
10月
1日 堀内、阪口、尾崎らジープでテヘラン出発。タル・イ・バクーンA丘の発掘終る。
2日 池田、三枝空路バグダードヘ。高井らホラム・ダレヘ。堀内らハマダンヘ。
3日 高井らタブリーズヘ。
4日 高井らマラガ着。堀内らケルマンシャー着。
5日 高井らマラガ近郊カラジ・アバッドで新生代哺乳動物化石を発掘。堀内ら日映班とともにカスル・イ・シーリーン到着。
6日 高井らマラガ天文台址訪問。
8日 高井らレザイア到着。深井、サルヴィスターン見学。
9日 高井らレザイアで拝火教遺跡見学。深井、フィールーザーバード見学。タル・イ・バクーンB丘発掘終了。
10日 高井らアララット山遠望す。深井、再びフィールーザーバード見学。
12日 高井らアストラ周辺の農村調査。深井、シャープル調査。
13日 深井シャープル調査。
14日 高井ら、ラムサールで米作調査。
16日 増田、深井、タル・イ・バクーン出土遺物をテヘランヘ発送の後、ペルセポリス発カーゼルーンヘ。小堀、シャー・テペ調査(高井、病気のため休養) 。
17日 小堀、ゴンバディカブス調査。増田、深井サラーブ・バフラーム見学。
18日 高井らパーラビデノジにてトルコメンの調査。
19日 高井らベルト洞窟を調査後、テヘラン帰着。増田、深井、スーサ見学。
20日 増田、深井テヘラン帰着。
22日 高井らクムに向う。増田らタル・イ・バクーン出土遺物の内地輸送の準備開始。
23日 高井らクムに向う。
24日 高井らクム東南にて化石採集。
25日 高井らテペ・シアルク調査。日映班.バビロン撮影。
26日 増田らサヴェ、アンジェラヴァンドの窯址調査。
29日 テヘラン国立博物館でタル・イ・バクーン出土遺物の検閲終了後、直ちに内地発送依頼。
30日 増田、深井、テヘラン発、バグダードヘ。
31日 高井らペルセポリスからイスパハーンヘ。増田らテペ・サンゲラン、ハマダン見学。
11月
1日 増田らテペ・ギャーン調査。
2日 高井らアバダーン見学。増田、深井ビストゥーン石器時代遺跡、摩崖碑を調査。
3日 高井らテヘラン帰着、増田らターク・イ・ブスターン調査。
4日 増田らバグダード到着。
5日 高井テヘラン近郊ビピシャルバーヌ山で化石採集。
8日 高井シャークー山で化石採集。
10日 隊員会議で、発掘を明後年も続行と決議。
14日 高井ら、テヘラン発、ジープでバグダードに向う。

1957年
5月
12日 江上、池田バグダード発、帰国の途につく。
13日 江上、テヘラン国立博物館長モスタハビ氏訪問、東京で開催予定のペルシア美術展につき懇談。
18日 江上らテヘラン発。
6月
27日 深井、堀内、増田、三枝、陸路テヘランへ。
30日 深井ら、ターク・イ・ブスターン調査。
7月
1日 深井、堀内、テヘラン着。
2日 増田、三枝、テヘラン着。
4日 堀内、ペルセポリスへ調査のため、増田、グルガン地方へ調査のためテヘラン発。
9日 三枝、テヘラン発帰国の途につく。
12日 深井、テヘラン発、帰国の途へ。
13日 曽野、テヘラン着。
18日 曽野、イラン東南部セイスタン地方の調査に出発。
22日 新、バグダード発、テヘランへ。
25日 増田、羽田着。新、テヘラン発帰国の途につく。
8月
9日 曽野、イラン高原の調査を終え、テヘランに帰着。
13日 曽野テヘラン発、帰国の途につく。
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