西秋良宏
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メソポタミアは古代文明発祥の地として知られている。西アジア中央部を流れる二つの大河、ティグリス、ユーフラテス川の間の土地である。シリア・アラビア砂漠の北を円弧のように取り囲む、いわゆる肥沃な三日月地帯の東半に相当する。今のイラクがその大部分を占めるが、北は東北シリアや南東トルコ、南はイランの一部も含まれる。 見渡す限りの大平原がひろがるこの土地で日本人が本格的な考古学的調査を開始したのは、1956年のことである。そのいきさつや目的については、調査団をひきいた江上波夫教授が東京大學學生新聞のインタビューに答えた記事がわかりやすい(「七千年の過去求めて —歴史の源・オリエント」昭和31年5月14・21日、第259・60号)。以後10ケ月にもおよぶフィールドワークへと旅立つ3ケ月前の記事である。大戦の反省から文明のあり方への関心が深まっていた世界的な趨勢もあってか、文明研究がテーマであることが述べられている。しかし、江上が目をつけたのはメソポタミアで花開いた輝かしい古代文明の都市遺跡ではなく、それ以前の「原始農村」であった。考古学の編年でいえば新石器時代から銅石器時代前半の遺跡である。文明への出発点はその時代におこった穀物栽培や家畜飼育という生産経済の開始にあるのであって、それが「何時、どういう契機で行われたか」を調べることこそが文明の本質を理解することにつながるという。 狩猟採集から食料生産への移行は世界にさきがけて西アジアで起こった。その人類史的意義を早くから強調していたのは英国の考古学者、ゴードン・チャイルドである。チャイルドが提唱した農耕革命というコピーは、1950年代には既によく知られたものになっていた。しかし、19世紀以来、欧米各国がこぞって発掘を進めている西アジアといえども、古代都市遺跡に比べてそれをさかのぼる原始農村遺跡の実地調査は進んでいない。そこで、縄文遺跡の経験をとおして同時代の遺跡研究に実績のある日本考古学の手法をもって、その国際的課題の研究に日本人も参画するのだ、と江上は述べた。加えて、今般の西アジア調査は日本初のものであるのだから、現地であたうかぎりの標本、知見を入手し、それをもって日本にオリエント学の基礎をきづきたいとの揚々たる希望をも述べている。 江上が発掘地としたのは北イラクの都市、モースルの西50キロほどのところに位置するテル・サラサートという遺丘であった。アラビア語でテルと呼ばれる丘状の遺跡の一つで、イラク政府が用意したいくつかの候補から選んだものである。ティグリス川東岸には当時世界最古の農耕遺跡として喧伝されていたジャルモ遺跡があった。そこで、調査の空白地帯でもあったその西岸で「もっと原始的な、もっと初期の集落」を見つけようとしてテル・サラサートが選定されたのである。1956年10月8日、三笠宮殿下の鍬入れ式から始まった発掘は、雨季の中断をはさんで翌年4月末まで続いた。その結果、ジャルモのような土器のない時代の堆積には出会わなかったものの、北メソポタミア平原部では当時最古級となる土器をもった村落を見つけることに成功している。また、現地政府の格別の好意を得て、木箱数百箱にものぼる発掘、採集品、総数5万枚ともいわれる記録写真など大量の学術標本の招来をも実現することとなった。 それから半世紀、今も日本の研究者は、西アジアの原始農村をめぐる現地調査を続けている。現在では東京大学だけでなく他大学、研究機関からも調査隊が派遣されるようになり、年間10を超えるチームが各地で広範なフィールドワークに取り組むようになった。調査に学生はもちろん外国人が参加することも恒常化し、都市遺跡の発掘が加わるなど研究課題の広がりも顕著である。また、総合研究博物館に保管されている江上が集めた巨大コレクションは研究や教育に利用が途絶えることもない。テル・サラサートの調査は日本のオリエント学の基礎を確かに築いたのであろう。その発掘50周年を機に、今も続く東京大学の野外調査、収集標本の分析成果を中心として、当初の目的であったメソポタミア原始農村研究の現状を素描してみようと考えた。それが、今回の展示である。 西アジアにおける農耕牧畜の起源、発展をめぐる国際的な研究情勢そのものも、半世紀前とは様変わりしている。なかなか政情が安定しないイラク、あるいは1970年代の革命以降外国人の立ち入りが難しくなったイランに代わって、お隣のシリアやトルコ、イスラエルなどが各国調査隊の集うフィールドとなっていることはともかく、調査の数においても質においても変貌すさまじい。とりわけ、ユーフラテス川上流に立て続けに建設されたダムの水没遺跡調査にともない、北シリアや南東トルコの情報増加が著しい。農耕起源地もそのあたりに求められるようになってきている。また、各種の理化学的分析技術の守備範囲や精度が格段に増してもいるし、理論考古学の発達は多様な考古学的証拠をつむいで当時の社会の変化を説明することを可能にもしている。 せいぜい7,000-8,000年前に現れたと考えられていた農耕集落の出現は、現在では1万年以上前とされる。また、農耕牧畜生活が陣容を整えるには、そこから優に3,000-4,000年、農耕革命と呼ぶには長すぎる時間のかかったことが判明している。おそらく当人たちは全く気がつかないほど世代をかさねながら、食料生産経済の進展は進行したのに違いない。さらに明らかになっているのは、この変革が環境や社会、工芸の質、世界観の変化と一体になってすすんだことである。更新世末の環境変化が変革を引き起こしたとする自然主導の見方も、社会や技術、世界観の変化が主因であったとする人間主導の見方のいずれもが、この長期にわたって進行した現象を説明しきるには不十分にみえる。最古の農民たちは、環境、植物、動物、モノ、超自然界など周囲の世界と密にふれあいながら、お互いを変化させつつ社会を発展させたものらしい。
■凡例
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