トラキア人と魂の不滅

古代トラキアにおける墓、儀式、信仰

ディアーナ・ゲルゴーヴァ


 ポンポニウス・メッラは、「ヨーロッパの最大勢力であるトラキア人を注意深く観察する者は、この蛮族がおそらく自然信仰のためであろうが、死を恐れないということに容易に気付くであろう」と物語っている。トラキア人はみな自らの意志で死ぬことに敬意を払い、中には、死者の魂が滅することなく生存中よりも一層祝福されると信じるものもいた。

 ヘロドトスによればインド人についで人口の最も多いトラキア人の、このような生と死というきわめて興味深い問題に対する価値観は、彼らの文化のいたるところに顕在することになる。彼らの建てた建造物の構造にはその思想が、死後の世界への魂の移行という概念と相まって特徴的に表れるのである。トラキア人の残した最も印象深い建造物が、トゥムルス(墳丘)で覆われた葬祭建造物であるということは決して偶然のことではない。

 前2千年紀の後半にトラキア人は、社会構造、宗教、葬祭儀礼において新たなる段階に突入した。この時期というのは民族の大移動が見られ、鉄の冶金術が開始された時期である。トゥムルスはトラキア全土に広がり、そしてそれらは小高い丘の上に造られた。ということは、出来るだけ多くの人々の目につき、目立つような場所が意図的に選択されていた、ということである。また礼拝所は、泉の近くや戦略的な交差路のような、要所あるいは風光明媚な場所に建てられており、多くの場合、トゥムルスとともに広大な宗教的葬祭集合体を形成していた。また鉄器時代全体を通じて、それらは政治的中心地としての役割も果たしていた。岩を到りぬいて造った墓やニッチ(壁嘉)、また洞窟や岩の祭壇もそれらの広大な葬祭集合体(ネクロポリス)の一部を成しており、前1千年紀の後半ともなるとその周辺にトラキア最初の都市が登場するようになった。

 この時期から火葬、土葬、部分埋葬、再埋葬などが、単独の、または対になった、あるいはグループのさまざまな種類の墓で行われるようになる。普通は男女が埋葬された中央のトゥムルスがネクロポリスの中心をなした。女性の墓は装身具や呪術具、またときには武具で、男性の墓は武器、武具、馬具などで、賛沢に飾られていた。座った姿勢で安置された女性の遺骸が男性の遺骸で囲まれていることから、これらの女性が社会的または精神的に、共同体の中で特別な地位を占めていたことが覗える。また、動物や鳥類の犠牲を捧げた形跡や、儀式用の設備などが見られることから、トゥムルスがヘローン(英雄崇拝の場所)として機能していたことも分かる。女性の儀礼衣装用の金・銀・青銅の数多くの装身具、馬具、儀式用の器などが、宗教儀式や葬儀の後にトゥムルスの間やその盛り土の下に死者とともに埋められた。時にはトゥムルスの中に最も早期のドルメン(複数の垂直に立つ石の上に平石を乗せたもの)が見られることもあるが、それらは数世紀にわたって使われ続けている。これらのドルメンにはたいてい埋葬はなく、ただ壊れた容器がファサードの前にあるだけのことが多い。これは、さらに後期のトラキアの墓にも関わる葬祭儀礼のとても興味深い問題である。そもそも遺骸を含まぬよう意図されていたのか、あるいは全く空であったのかは判らないが、この壮麗なトラキア式墓所は、単に後代に略奪されたのかもしれないし、そうでなければ本来から神秘的な葬儀が行われる場所としてそのような構造であったのかもしれない。死は秘儀の一部を成していたのである。

 トラキア人は、前1千年紀を通してこれらの宗教的葬儀慣例を保守した。そしてそうしながら一方で、彼らは自分たちの精神生活を潤すべく、当時において最も優れた建築物や芸術作品を創造したり、導入したりした。

 彼らの埋葬習慣に関する最も面白い情報のいくつかはオドュリュッサイ王国の領土、またゲテ人たちの地域に由来する。ちなみにトゥキディテスによれば、前者はイオニア湾と黒海との中間に住むヨーロッパ最大勢力であったし、後者はブルガリア北東部のトラキア人たちの中で最も正義ある部族であるとされていた。

 前6世紀末から前3世紀半ばにかけての、いくつかの王族の墓や数多くのネクロポリスが発掘されているが、それらはトラキアが政治的に最も繁栄、発展した時代の産物であった。

 主にブルガリア南東部から近年発見された墓においても、やはりトラキア人の神秘的な埋葬習慣というものが確認される。カザンラク近くのシプカ=シェヨノボ地区にある、オストゥルッシャのトゥムルスの中には、空の石棺のような墓が、円形と矩形の平面が組み合わされた構造の中に安置されている。この墓室内からは銀メッキの施された一連の馬具が出土しており、また墓の前では焚き火の跡や(建造物の一部片、壊れた容器なども発見された。Pl.61

 多くの墓では片側が固定された扉が付けられており、幾度も開閉を行った形跡が見られる。ストレルチャ近くの墓はその典型的な例である(ちなみにこの墓では人ではなく馬の遺骸が墓前に置かれていた)。

 ブルガリア南東部、ハスコーヴォ近くの3つのトゥムルスは前5世紀から前4世紀のものと見られるが、そのひとつの内部に稀少な鍵穴型の墓がある。西側の円形の部分の下には馬と武具とともに葬られたひとりの男性の火葬の跡が長方形状に残り、また東の台形の部分にあたる盛り土の下には体の別の部分を焼いた灰が穴の中に入れられていた。また中央には矩形の柱が立ち、墓全体は石の層で覆われ、その上にトゥムルスが築かれたのである。火葬した灰が2箇所に分けて収められた実に興味深い墓構造である。

 ブルガリア北西部では前4世紀の半ばにゲテ人が、母なる女神やアルテミスとアポロンを祀る古い聖域の近くに(今はスボルヤノヴォ特別保護区)、これまでで最も高いトゥムルスを建立した。このゲテ人たちの中心地はダウスダヴァであると同定されている。同地はクラウディウス・プトレマイオスの『タブラ・ノーナ』(9番目の文書という意味)によれば「狼の町」と呼ばれていた所であり、また、ゲテ人の王ヘリスの宮殿があった場所であるとも考えられている。宮殿(推定)、聖域、ヘレニズム時代の町を100基以上のトゥムルスがあらゆる方向から囲んでおり、その中心と南北両端の距離はどちらも2000メートルとなっている。そしてこれらのトゥムルスはグループにまとまって存在し、また周りには溝がめぐらされていた。それらはおおいぬ座やこいぬ座、オリオン座、射手座のような星座や天の川のような明るい星の鏡像のごとく表現されていたのである。100年という期間に作られた各グループのトゥムルス群は、さまざまな星座の標識の下に統合されていたのであり、それらは明らかに共通の葬祭儀礼のシステムによって結びつけられていた。

 おおいぬ座に対応していると考えられている東ネクロポリスの北墓群グループからは、発掘によってヴォールトの付いた3基の墓が発見された。ズヴェシュターリの王家の墓はトラキアのすべての墓と同じく南東の方向を向いており、その長軸は前4世紀の12月22日、つまり冬至の太陽の昇る進路直線と平行となっている。その墓には王夫妻の骸骨と、犠牲に捧げられた馬と他の動物の遺骸が入っていた。一度地震があった後にまたひとりの男が埋葬され、最終的に墓は土で覆われた。粘土の祭壇と馬の犠牲も墓ファサードの前から発見されている。

 また対になった少し小さな墓もあり、それには引き戸がついていた。引き戸は小アジアのカリアやリュキア地域にしか見られない特徴であり、ある時期までは木製であった。引き戸には何度も開けられた形跡がある。第13墳丘の中の墓では、人と動物の骨と供物が墓の内外2ヶ所に埋葬されていた。3人の人間の骨の一部、1匹の犬と1羽の雄鶏の骨のそれぞれ半分、金の数珠玉が内部から見つかっている。一方外部からは、金メッキされた壊れた胸当ての破片が、遺骨の残り半分と墓の前の岩盤に穿った穴近くで発見されている。またもう一方の墓は地震によってひどく破壊されており、3組の人間男女と動物の骨の小破片と、いくつかの粘土製の器のかけらが残存するのみであった。人の肋骨が1本、2基の小型墓の敷居部分に置かれていたが、これからはアダムの肋骨に関する聖書の話が想起される。

 これらの3基の墓の周辺のトゥムルスはどれもが以下のような状況であった。壁は赤く塗られ、男性の遺骸を収めた石のキスタが中にあり、火葬された女性の骨が当時の地面と同じ高さに豪華な供物と共に置かれていた。また金の装身具、羊の骨の入った銀の皿、人の骨が周りにまかれた馬の遺骸が中央に置かれていた。しかし、中には全く空のトゥムルスもあった。

 他のグループのトゥムルスの発掘は、さらなる多様性に特色付けられた。つまりは、土葬、骨壷に1組ずつ収められた男女の火葬された遺骸、それぞれピトス(広口大甕)に収められた若い男性の火葬骨、単独に埋葬された人の遺骨、犠牲に捧げられた主に馬と犬といった動物の遺骸−ありとあらゆる形態がそこには覗える。またいくつかのトゥムルスは、粘土の祭壇あるいは壷の破片の上に築かれている。高価な装身具や容器、鏡、陶器、呪術具、ギリシアやアジアのヘレニズム文化圏、あるいはケルト世界のオルフェウス秘教的なシンボルなどもこれらのトゥムルスの中には見られた。

 このようにトゥムルスのグループはそれぞれ星座という印の下に結合されていたが、これは間違いなくグループ内の死者同士の階層関係を反映していたものであろう。最も立派な墓においては、神秘的で複雑な宗教儀礼に従って遺骸が選別され、再埋葬されたり意図的に破壊されたりし、それらに犠牲が捧げられたりもした。

 このネクロポリスの地域からは、ペガサスのプロトーム(頭部)の形をした独特な黄金の器も見つかっている。他に興味深いものとしては、ブルガリア北東部のボロヴォ近くの別の広大なネクロポリスから出土した5つの銀の器がある。ヴェリコ・タルノヴォの町近くのカピノーヴォの葬祭儀礼用トゥムルスもとても面白い。青銅の大釜1点と銀のコップ2点、金の装身具、壊れた粘土製のコップと皿、動物の骨、また石で埋められた儀礼用の穴がトゥムルスでおおわれていたが、そこに人の遺骸はなかった。またそこに宗教的に円状に配置された石のひとつにはSKIASと刻まれていた。これはディオニュソスが休む場所のことを意味しており、その場所がこの酒神の秘儀と結びついていたことを示唆している。

 さて、以上のように変化に富む葬祭儀礼の裏側にある思想とは何なのであろうか。それは、アポロンの息子であり詩人の神であるオルフェウスの教義なのである。伝承によると、オルフェウスはオドゥリュシアとマケドニアをかつて支配しており、金羊毛の探求にも参加した。彼はまた、妻エウリュディケの死後、黄泉の国に彼女を連れ戻しに出かけた。彼は、魂の不死を説き、肉体を魂の牢獄であると考えた。肉体から解放された魂は、天の高みに上り、神聖なものとなるとしたのである。オルフェウスの死後、彼の肉体は秘儀の間でバッサリーデスによって八つ裂きにされ、その後、彼の頭部はヘローンに埋められ、骨は骨壷に入れられて神殿の柱の上に置かれた。それらの骨は太陽光に晒されると神秘的な力を持ったと言う。また、彼の竪琴はゼウスによって天空の星の中に引き上げられて星座となり(琴座)、彼の影は黄泉の国でエウリュディケの影と溶け合いひとつとなった。オルフェウスは「ディオニュソスの死」と呼ばれるやり方(体をバラバラに分離する)で死んだとも言われている。しかし八つ裂きにされながらも、彼は復活した。このような死に方は、太陽神リノスやエトルリアのアエネスと結びついた他の英雄たちについても見られる。

 オルフェウスの歌は、人であり、デーモンであり、後にゲテ人たちの神にもなったザルモキスに霊感を与えたと言う。ヘロドトスによれば、ザルモキスはピタゴラス以前の人物であり、ゲテ人に不死を説いた。そしてそのゲテ人は、トラキアの部族の中で不死に関する祭儀を取り扱う部族のひとつであったのである。この不死の祭儀についてヘロドトスはそれ以上は述べていないが、ゲテ人の神秘性というのは、魂が肉体の牢獄から解放するのを助け、物質というものを打ち壊す、この祭儀とまさに密接に関わっている。

 そして、この不死の秘儀と完全なる調和の世界への魂の移行こそが、理想的に土を盛られた完全なる石の建造物を求めたのである。オルフェウスの伝説が息づいていたトラキアにおいては、墓は秘儀を行う空間であり、秘儀の中でも最も神聖な不死の儀式は最後の埋葬の直前に行われた。ズヴェシュターリの墓の主室には、それぞれ異なる面持ちの10人の母なる女神が彫刻されており、中央の寝台の前には石のナイスコス(祠の形をした建造物)Pl.63Fig.155−後代のキリスト教会の祭壇後部をおおう壁の前身−がある。そしてそのナイスコスは、聖なる復活の祭儀を行う場所を隠すような形になっているが、これは女神を祀った葬祭神殿の最も進化した内装構造であり、そこにおいてこそ魂は神性と融合化することができると考えられてきたのである。

 埋葬のやり方、またそれがどれぐらい完壁に行われたかは、死者の社会的地位によっても、また彼がどれほどの倫理を持ち合わせていたかによっても左右された。死後の世界への旅立ちには、妻たちの中でも最も自分が愛し、尊重していた者の同伴を必要とした。彼女はつまりは、母なる女神の聖なる化身であったというわけである。ヘロドトスは、トラキアの女性たちは夫の墓の前で自ら命を絶つと伝えている。この北ヨーロッパおよぴインドでも見られた風習、あるいはそのような思想自体の形跡は多くのトゥムルスで覗える。人類学者たちは、ズヴェシュターリ近くの王の墓に埋葬された若い女性の頭蓋骨に先の尖った武器で突き刺した跡が見られることから、ヘロドトスの証言は正しいものであったと提唱している。トラキアのトゥムルスに見られる多数の夫婦用の対になった墓もこの慣行があったことを物語っているし、その背後にある聖なる結婚という考えが不死の秘儀のとても重要な部分を占めていたということは確認できよう。そしてこの慣行は、もっと早期のトラキアの埋葬習慣にその源がある。ドナウ流域で、青銅器時代後期の火葬墓から出土する、「玉座に座る母なる女神」、またテーブル、馬車、舟、水鳥などの粘土製の模型は、カザンラクの墓の主要絵画に見られるような「玉座に座る女性像」の原型なのである。

 いくつかのマケドニアの墓では、稀に火葬された女性の遺骸が玉座の上に置かれていることもあった。これは宗教世界および不死の秘儀における女性の重要性を表している。

 人は悪魔にも神にもなり得るのだという思想、また肉体の牢獄から解放されるべき彷徨う魂といった思想が、3段階にわけて墓の上に築かれたトゥムルスの背景にはあるに違いない。その第1段階では墓の前と上に石の層が積み上げられ、第2段階ではその頂上先端部が積み上げられ、さまざまな儀式が行われ、第3段階として、いよいよ墓へ入ることが出来た。トゥムルスの建造中に時には羨道が延長されることもあった。この3つの段階は、浄化、昇華、神格化に相当する。つまりはトゥムルスの建造自体が、不死の秘儀の一部としての聖なる行為であったのである。アレクサンダー大王によって作られたという、ブハラ近くのトゥムルスの石の積み上げがやはりこのマケドニア方式で行われたと記憶されているのは、このためなのかもしれない。

 今まで見てきたように死者はいろいろなものに囲まれていた。親族、戦士、従者、犠牲に捧げられた馬(貴族的な太陽のシンボルであり、冥界へ移る際の交通手段でもあった)、犬、オオカミ(共食いをし、自らの意志で死ぬという、残忍さと自発的な死が支配する軍事的貴族社会において正義のシンボルであり、死者の魂を護るとされた)、さらには、祭壇、燃やした呪術具等である。トラキア人たちは、このような厳格な秘儀に従って自らを不死なものとしたのである。天文学、数学、建築学、美術などの諸芸が、この地上の小宇宙の創生に適用され、これによって人が自然のサイクルの中に溶け込み、魂が星へと昇華されると信じていたのである。

 ギリシア人たちにとって魂の浮遊という考えは自らの伝統にはないものであり、それゆえ彼らはこの思想をほとんどトラキアと結びつけて考えており、またその源泉はエジプトあるいはアジアにあると考えていた。この両文化の対比は神話・歴史の両方に現れている。魂の再生という概念はオルフェウス的思想であり、そのオルフェウス神話は鉄器時代初期である前1千年紀前半を通じて流布していた。オルフェウス的思想は儀礼、秘儀、建造物、美術と一体化して、青銅器時代末から鉄器時代初期にかけてトラキアで次第に支配的になっていった。そしてそれはまた、いくつかの特徴的な建造物やシンボルとともに地中海世界各地にも広まった。「トゥムルスによって覆われたヴォールト天井を持つ墓は、理想的な国家における最も高貴なる者のための最も完壁な墳墓構造である」とプラトンは述べているが、この考え自体も北ギリシアからオルフェウス信仰のあったマケドニアにかけての地域から来たものである。

 日本のイザナギとイザナミの神話においても、オルフェウス的要素というものが見られるが、これは、驚くべきことにオルフェウスとエウリュディケのような神話類型が東アジアにも浸透していったことを物語っている。それはほぼ間違いなく、金属器時代への移行期、おそらく前1千年紀の中ごろか後半ごろに起こったものと考えられる。東南アジアや日本において何世紀も後に、それも特に古墳時代に現れた非常に特徴のある葬祭建造物持ち送り式あるいはヴォールト式の天井があり、壁には夫婦の宴の様子が、そして天井には星座が描かれ、不死の象徴としてとてつもなく大きな鍵穴状のトゥムルスが上部を覆う−は、まさにトラキアと同じ小宇宙の主要な特徴、精神を表わしており、数千年の時を超えた独特かつ普遍的な思想を体現しているのである。    (訳:松田 陽)

(ブルガリア科学アカデミー考古学研究所)
Diana Gergova


前頁へ   |   目次に戻る   |   次頁へ