古代トラキアにおける大型記念墓・ |
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ユリア・ヴァレーヴァ |
トラキアにおける強力な支配者たちを祀る墓建造物は、同地方でのさまざまの都市国家の成立(オドゥリュッサイが最古のひとつで前6世紀末)によって飛躍的に発展した。墳丘で覆われたこれらの建造物は、人々に永遠に記憶されることを保証し、賛沢な副葬品に満たされ、構築された部屋から成る墓となったのである。Pl.60-61 | |
16 トラキア:種族分布図 Verbreitungskarte der thrakischen Stamme (nach A.Fol-I.Marazov,Thrace & The Thracians,London 1977) |
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17 トラキア時代のブルガリア Karte von Bulgarien unter den Thrakern (nach A.Fol-I.Marazov,Thrace & The Thracians,London 1977) |
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墓建築 墓にはその平面プランによってふたつのタイプがあった。ひとつは矩形の墓室、前室と羨道を持ったものであるが、天井は通例コーベル(腕木)で支えられており、それはトラキアでは古代から見られた技法であった。Fig.152矩形タイプは、土着あるいはかつて外地から導入された形状から発展したもので、その中にはキスタ型(いくつかの石板から成る)や石棺型(一枚岩から成る)の墓(プロヴディヴ地方のドゥヴァンリやダルボキのネクロポリス出土)が見られる。もうひとつのタイプはコーベルで支えられたドーム付の円形の墓室Fig.153を持った墓群で、これにもしばしば前室と羨道が備わっていた。この後者のタイプの墓(トロス式と呼ばれる)や、コーベルで支えられたヴォールトのさまざまな形状の起源に関してはいまだ議論中である。それらの形状がミュケーネ建造物の影響を受けたのだという、ブルガリアの学者ボグダン・フィロヴが1930年代に初めて提唱した仮説は、今日では新しい考古学的証拠によっても支持されている。青銅器時代後期のトラキア文化はミュケーネの文化的コイネー(共同体)に密接に結びついていたと考えられている。その一方で、トラキアの政治的・社会的構造は非常に保守的であり、政治的伝統の主な要素は前1千年紀中頃まで保持され続けたのである。 なぜ、トラキアの支配者たちの中には矩形タイプのものではなくトロス式の墓を好む者がいたのであろうか。構造上の理由は明らかである。コーベルのついたヴォールトを備える円形のプランの方が盛り土の圧力により堅固に耐えうるのである。しかし技術的理由だけでは、大型記念墓のイデオロギー的な背景やプロパガンダ的な意図といったものは十分に説明しえないであろう。つまりこの構造上より安定した形が、幸運なことに、彼らにとって円が帯びる象徴的な意味合いと一致したのである。その意味とは、生と死の循環、大地の象徴としての女性、などといった無限性や完全性を同時に示すものであった。円の持つ、宇宙的で調和のとれた文化的(混沌の対極としての)な意味があったからこそ、彼らは住居のみならずネクロポリスのプランにおいてもその形状を好んで採用したのである。ツィルミソス山のトラキアの聖域に関してマクロビウスは、「円形で屋根に開口部があった」と記している(サトゥルナリアⅠ.18.11)。そしてまたマケドニアの考古遺構も、バルカン地方では円形が神聖な建築物に特に適していると認識されていたことを物語っているのである。 近年シプカ近くで発見された墓は、トラキア地方にしてはとても独特な形状をしており、トラキアと小アジア間の文化的つながりに関する論議を呼び起こした。中央の石棺タイプの形状の墓室Pl.61は、パサルガデ出土のペルシアのキュロス大王(前559−前529年)の墓を思い起こさせる。また他の細部に関してはアナトリア地方の類似物が想起される。例えば屋根の部分の鋸歯状装飾は、リュディア、リュキア、フリュギア、またカリアの葬祭建造物にある例証と比較される。寝台の先端部の形などは、やはりリュディアのいくつかの寝台と同じものである。さらにこれと関連して、エーゲ地方におけるペルシアの存在が現地民族の文化にとってどれぐらいの影響を及ぼしていたかも考慮する必要があるだろう。ギリシア=ペルシア戦争中(前517−前515)はその影響は直接的なものであり、戦争後は、ペルシア人(アレクサンダーの登場以前まで)や小アジアのギリシア植民都市との交易を通じての間接的なものとなった。 ほぼ確実と見られるのは、トラキアの富裕者の墓は普通それらだけでまとまって造られるか、少なくとも彼らの臣下のトゥムルス(墳丘)の寄せ集まったネクロポリス内の中心部に位置した、ことである。Pl.62ズヴェシュターリ近郊には、これらのトゥムルスから成る5つのネクロポリスがある。ネクロポリスを成すようにトゥムルスが配置されている例は、ドゥヴァンリ、ストレルカ、イアンコヴォ、カビレなどでも報告されている。しかしながら、おそらく個人用のものと見られる、孤立して造られている墓については依然として議論の余地がある。 住居と、トゥムルスから成るネクロポリスの間には相関関係があるが(例としてはセウソポリス、ズヴェシュターリ、カビレ、ヴェトゥレン・ピスティロスなど)、それはヘレニズム時代においてのみ当てはまる。オドゥリュッサイ王国にはヘレニズム以前まで定住居群のある首府がなかったという説もある。ペルシアやマケドニアにおけるのと同様、トラキアの王(バシレイス)とその宮廷は国中を動き回り、要塞の置かれたさまざまな地から支配を行った。考古学的調査からもまた、ヘレニズム以前のトラキアの、分散し求心性を持たない定住の状況が明らかである。 |
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コプリンカ,第13墳墓 Koprinka,tumulus no.3 |
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カザンラクの墓 Kazanluk,tomb |
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18 カザンラク:トロス式彩色装飾墓の縦断面図と平面図 Langsschnitt und Grundriss des bemalten Tholosgrabs von Kazanlak (nach R.F.Hoddinott,Bularia in Antiquity,London 1975) |
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19 ズヴェシュターリ(東ネクロポリスの第13墳丘):墓室墓の平面図と縦断面図 Grundriss und Querschnitt des Kammergrabs im Tumulus 13 der Ostnekropole von Sveshtari(nach D.Gergova) |
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葬祭壁画 トラキアに残る最古の壁画は前4世紀のものである。その中には、同世紀前半に制作されたものもあったが、大半のものは初期ヘレニズム時代にあたる同世紀後半のものである。それゆえほとんどすべてのものがギリシアの美的・造形感覚からの強い影響を受けている。Fig.153-154、156 墓に描かれた絵のモチーフのパターンは比較的限られている。とは言え、稀に考古学者の手によってオリジナルのギリシアやヘレニズム絵画が現代の我々の前に明るみに出されると、その度ごとに強い感動をおぼえずにはいられない。それはなぜか。「トラキアの葬祭絵画は様式上、純然たるギリシア絵画の宝物庫の一部を成している」−このように古代の作家は書き記しているにも関わらず、我々はこのことをごく近年までローマのコピー絵画からしか知るすべがなかったからなのである。 一方で、墓に描かれた絵の様式は最高品位のものではないという事実もある。が、やはり強い関心が、どうしても我々をそれらへと,傾倒させてしまうのである。実際、ヴェルギナの「皇女の墓」と呼ばれるマケドニア様式の墓にある「ペルセフォネの掠奪」の絵や、ブルガリアのシプカの町近くの「オストゥルシャの墓」の「アキレウスの戦車」などの素晴らしい絵には、我々の関心はかきたてられずにはいられない。ところで墓内部を最も簡潔に飾るのは一色のみで彩色することであった。スキュティアの墓ではそのような例として赤い装飾壁面が報告されている。が、トラキアでは白に関してのみそのような事例が知られている(ヴェトゥレンの村近くの墓や、シプカのシュシュマネツのトゥムルスの中の墓)。 埋葬における白の象徴的意味合いに関する文献は不足している。とは言え、死後の世界や埋葬儀式に関するギリシアの記述の中には白がいくたびか現われている。例えば『オデュッセウス』の中でヘルメスは、オデュッセウスによって殺されたペネロペの求婚者たちを暗くぬかるんだ道に率いるものとして描かれているが、彼らがオケアノスの潮流に至ったとき、「白い岩」とヘリオスの門と夢の世界が現われる、という描写がある。また、ギリシア詩人ヘシオドス(前8世紀)も、黄泉の国には反響する氷のごとき(つまり冷たく「白い」という意味)広間があったと伝えている。そしてファルサロスのおよそ前350〜前320年のものと思われる墓から出土した金薄板には、「汝はハーデスの館の右側に泉を見て、その横に「白い」糸杉を見るであろう」と書かれている。また、アッティカの墓のレキュトイ(壷の一種)もやはり白いものであったことも’忘れてはならない。 以上のことから、ギリシア人たちにとっては、白という色が死を暗示させたと言えよう。安直な比較がもたらしかねない誤解を恐れずに言えば、トラキアの墓においてやはり白が頻繁に用いられたことから、トラキア人も死後世界の在り処に関して、同じような思想を持っていたのではないかと想定することができるのである。 マグリッシュの墓はこの点でとても興味深い建造物である。それは縦方向に伸びた構造をしており、その長い羨道はまさにハーデスヘと続く暗くぬかるんだ道を思わせ、白色に包まれた前室は反響する氷のごとき広間を想起させる。主室は構築的な層序様式で出来ており、上半分のゾーンには、パン(全)・アテネ祭のアンフォラらしきものとパルメット文の美しいフリーズがある。入口上部には、矢筒といわゆるフリュギア/トラキア式の革兜の絵が描かれている。運動競技の勝利者の褒賞であったパン・アテネ祭のアンフォラは、埋葬儀礼においては、死に勝利する生の象徴と解釈されよう。中央のアンフォラ胴部には勝利の神ニケによって率いられた2頭立戦車が描かれており、やはりこの解釈と同じような意味合いを帯びる。 マグリッシュの墓に見られるギリシアの主題は、トラキアの貴族がギリシアの芸術や思想に深い関心を抱いていたことを物語っている。またその一方で、建造物の構造やトゥムルスの中の墓の様子に見られる典型的なトラキア的な要素からは、この建造物全体に漂う強い地方色が覗える。最近、トラキアの宗教や神話を再現してみようという試みがみられたが、その際に最も留意されたのは死後の世界観である。トラキアのトゥムルスやその中の墓は、天地の平行的かつ垂直的構造を映していると考えられている。平行的構造は大いなる女神の支配する死後の世界を象徴している。この解釈に従うと、羨道は死者を受け入れ、再生を約束する死後の世界へと続く漆黒の道ということになる。 ペルセフォネのような類型の大いなる女神はカザンラクの墓に描写されている。Fig.153この作品は、明確で優れた装飾構成ゆえに特筆すべきものとなっている。最も重要な部分は、葬祭の宴会と行列の情景描写であろう。この情景に関しては解釈がいくつかに分かれる。聖なる結婚式(ヒエロガミア)と叙任の式を表したものであると主張する学者もいるし、日本の学者の江上波夫は、「トラキア支配者の妻が夫の死に即して死後の世界でも連れ添うべく殉死した」というヘロドトスの記述にそった解釈をここに唱えている。またこの情景は、支配者夫婦の葬式の宴とも解釈することができる。これらの解釈の違いは、トラキアの宗教的・神話的観念を表現するのに、ギリシア的描写類型を用いたことによって生じたものである。ギリシアにおける思想がトラキアのものと一致していたのか、あるいはよく知られたギリシアの芸術表現形式によってトラキアの世界観が覆い隠されてしまっているのか、などについては確信が得られない。ところで、このカザンラクの墓の羨道部分に施された絵はもっと読み取りやすく興味深い。それは歴史的な情景を描いたものであり、トラキア軍とマケドニア軍の対峙を表わしている。軍隊の衣装などに地方的な特徴が見て取れる一方、全体としての構成は伝統的なものであり、神話における戦いの場面の描写類型が適用されている。 ブルガリア北東部のズヴェシュターリにおいてもやはり特筆すべき墓が発見された。主室の浮彫り装飾はドーリス様式で表されている。そこには4本のドーリス式半円柱、レグラエ(受け桟)の付いたアーキトレーブ(上の梁部)、メトープ(四角形の区画)とタエニア(帯模様)を冠したトリグリフ(3本の縦の細い柱状の装飾)のフリーズが見られる。コーニス(軒蛇腹)はイオニア式であり、北西の壁面の中央部にはコリント式の柱も見られる。Pl.63Fig.155彫刻装飾の中で最も特徴的なのは土台部の上に見られる、高浮彫りの10体のカリュアティデス(女人像柱)のパネル状フリーズである。像は1.20メートルぐらいの高さで、正面向きの荘厳な姿で表わされ、キトンを纏い、胸の下あたりに細いベルトを締めている。また深いアポプテュグマ(スカートの上に付けた衣)は3枚のアカンサスの葉から成るカリクス(花の薯)の形をしている。カリュアティデスはアーキトレーブ/ヴォールトをそれぞれ手で支え、カラトイ(小さな箱)を頭の上に乗せている。彼女たちの髪、目、衣装そして靴は、赤、青、青紫、黄、こげ茶に着色され、顔は各人異なった様子で悲しげに表現されている。 墓の中にはナイスコス(祠の形をした建造物)があり、主被葬者の寝台はその後ろに隠されていた。ナイスコスのファサードは、3つの石の扉と赤く塗られた破風から成るが、扉の間にはソファ型の柱頭の付いた片蓋柱が配置され、破風の中央部はゴルゴネイオンの頭部レリーフで装飾されている。またナイスコスはヴォールトと壁を区切るコーニスの高さまで伸びている。もともとナイスコスは、寝台と体のカリュアティデスとコリント式の柱を隠すようなかたちとなっており、このようにして、隔離された聖なる空間を形成していたのである。 ナイスコス上部の半円形部分には8人の人物が登場する情景が描かれている。Fig.156これはトラキア貴族の英雄化・神格化を表したものだと考えられる。彼は馬上の騎士として描かれており、今まさに女神から冠を授からんとしている−これによって英雄への階梯へと引き上げられるのであろう。この栄光ある馬上の騎士の主題はおそらく、マケドニア王フィリップⅡ世の発行した4ドラクマ銀貨を通じて、トラキア王の描写類型のひとつとして導入されたものと考えられる。オドゥリュッサイの支配者スパラドコス(前445−前435)の治世下のトラキアコインにも馬上の騎士が登場しているからである。そしてこの騎士の類型は、マケドニア王アレクサンダーⅠ世によって鋳造されたコインの表面(前465ごろ)にも似たような形で登場していることから、初期時代からトラキアとマケドニアの貨幣鋳造に類似性があったことが示唆されるのである。その一方で、野心家のトラキア王コティスⅠ世(前383/382−前359)のコインにはやはり栄光の表現−例えば歓呼に応じるために手を掲げる様子−が描かれているが、このような表現はマケドニア王の発行したコインにも、ペルシアのサトラップ(太守)の発行したコインにも類例が見られない。これらのことから、トラキア、マケドニアのいずれの地においても、フィリップⅡ世のコインに描かれたような栄光ある馬上の騎士という主題が徐々に形成されていったのだということが分かるのである。王の権力や神聖な占卜能力といった感覚をより強調すべく、歴史的主題の描写に神話の英雄像の要素が付け加えられることによってその形が歪められることもあった。トラキア王セウテスⅢ世(前325−前295ごろ)は、やはり自らの像と馬上の騎士の姿(馬はゆっくりと右へ向かっている様子)をコインに鋳造したが、これはすでに初期ヘレニズム時代において支配者の象徴というものがしっかりと確立していたことの証左である。 ズヴェシュターリの絵における重要な細部は、馬上騎士の耳後部に伸びる曲がった角である。前301年のイプソスの戦いの後にリシマコスが発行したコインに、アレクサンダー大王も同じような角(エジプト神アモンの角)を伴って登場している。このことから、ズヴェシュターリの絵の中の人物もやはりアレクサンダー自身なのではないかと推察することができる。トラキアの支配者は、自分自身ではなく神格化されたアレクサンダーの描写を選択することによって、周辺領土内において自分こそがかの偉大なる大王の法的に正統たる後継者であるということを強調したのかもしれない。一方で、この角は「アモンの角」ではなく、デメトゥリウス・ポリオルケテスやセレウコスⅠ世(ニカトール)の頭の上に付けられたポセイドンの牡牛の角のように、権力や神聖な占卜能力の象徴である可能性もある。こちらの場合だと、トラキアの支配者は自分自身を偉大なるディアドコイたち(アレクサンダーの後継者)と同等であるとみなしていたことになる。 ブルガリアにおいて最近話題になった発見は、カザンラクとシプカの町を結ぶ道路近くから出土した、オストゥルシャのトゥムルス(墳丘)の中の彩色装飾墓である。オストゥルシャのトゥムルスはカザンラクの谷にある。この谷は、バラの栽培とトラキア遺跡で有名であり、後者の中ではトロス式の墓(世界遺産)が最も知られている。 墓の部屋はふたつのモノリス(一枚岩)から出来ており、石棺の形をしている。Pl.61Fig.154天井の内側部分には43の彩色された格間を模した区画が彫られている。中心の円形部分の絵は失われているが、周りの三角の区画の表現はシレーヌスとネレイデスがヒッポカンポスに乗ってアキレウスの武器を運ぶ情景であると見て取れる。 それぞれ6つの区画から成る2組の装飾が、中央の装飾をはさむ形となっている。その2組の区画には6つの頭部と6つの植物が交互に来るように描かれている。その中では、ひとつの頭部が完全に保存されている−それは金の首飾りをつけた若い女性の頭部である。これらの頭部の解釈はまだ紛糾しているが、王家の肖像と見るよりは神聖なる者の像とみなすべきであろう。天井部を縁取るさらに大きな区画(18×18cm)には神話の場面が描かれているが、残念ながらそのうちのおよそ半分ぐらいのものは破壊されている。それらの絵はさまざまな世代にわたるギリシアの英雄たちを表しており、例えば有翼のペガサスに乗るベレロフォン、キマイラの殺害場面などは明確に見て取れる。しかし、両側の場面に関しては判読しにくい。ディオニュソス秘儀への参加者たちを表現しているのかもしれない。 北壁との境目の区画にはアキレウスにまつわる話が描かれている。ヘファイストスの鍛冶場にいるテーティス(アキレウスの母)から始まり、アキレウスの描写が続き、時にはアキレウスひとりで、時には他の英雄たちと共に表現されている。欠如部分にも関わらず、天井の装飾は、英雄たちやディオニュソス的な表現類型の組み合わせをもとに再構成が可能である。同時代の他の葬祭美術表現に見られる死後の世界のディオニュソスは、死せしトラキア王族を護る者であったのである。なぜなら死者は、存命中はアキレウスと比してみなされ、死後もアキレウスと同じく祝福された島へ行くものと考えられていたからである。 ギリシア神話や叙事詩の英雄たちの表現は、トラキア貴族がいかに高度にヘレニズム化されていたかを物語る。そしてそれは、特に古典後期の絵の様式において明確に把握される。 よく保存されたカザンラクとズヴェシュターリの墓は、壁の上部をどのように装飾するかという点で、ひとつのアイディアを提供している。カザンラクの墓では、円形墓室の主要フリーズの上に彩色装飾の施されたエンタブラチャーがあり、さらにその上にはまるで、2階に描かれている装飾であるかのように、柱の間に「競走中の2頭立馬車」が描写されているのである。 (訳:松田 陽)
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