第三部

活版の世界



活版プロセス

東京大学史料編纂所が刊行を続けてきた『大日本史料』と『大日本古記録』は、国内における最大級の活版印刷叢書であり、これらの印刷には膨大な数の活字が使用されている。全国各地に分蔵された一次史料を直に筆写して持ち帰り、内容を校合したのちに浄書し、活字を文選し、植字する。もちろん、この問には、すでに使用されなくなった古い漢字を新たに作成するという作業も含まれる。こうした膨大な仕事の果てに、ようやく一冊の書物が実現する。熟練した職人技術を必要とする活版印刷は、時代の流れに押されて今や風前の灯火。しかし、この印刷システムのなかに蓄えられた文字数は、いまだデジタル・フォントの到底及ばぬところである。フォントが無くては本を印刷することができないという事実に、あらためて思いを致してみる必要がありそうだ。



79a[不掲載]『大日本史料』第九編(二十冊)
洋装本、縦二一・五cm、横一五・九cm
史料編纂所蔵
79b『大日本史料』第九編之十五の印刷用校正原稿
和紙に墨書、縦三四・〇cm、横二四・八cm
史料編纂所蔵

79c『大日本史料』の稿本収納箱
木製、縦六二・九cm、横五一・三cm、奥三九・九cm
史料編纂所蔵

79d[不掲載]『大日本古記録』の活字ゲラ四十七点一揃い
鉛合金、木、凧糸、縦三四・〇cm、横二五・八cm、重一四〇〇〇g
株式会社精興社寄贈、総合研究博物館蔵
79e[不掲載]『大日本古記録』の清刷二枚
紙に印刷、縦四〇・〇cm、横二七・六cm
株式会社精興社寄贈、総合研究博物館蔵
80[不掲載]活版印刷技術を示す見本一揃い(文字デザイン)
亜鉛凸版、母型
史料編纂所蔵

  歴史書の編纂
  『天皇記国記臣連伴造国造百八十部并公民等本記』という歴史(書)があったという。聖徳太子が蘇我馬子とはかって推古天皇二八(六二〇)年に作ったと『日本書紀』に伝えられるものである。社会状況が安定期に入ると、誰もが来し方を振り返り、歴史の編纂(へんさん)を始めたくなるものらしい。歴史の編纂は人類の文化と共に古いものである。『古事記』は稗田阿礼(ひえだのあれ)の覚ていた帝紀(ていき)(天皇の系図のようなもの)や旧辞(きゅうじ)(天皇の事績、地名の起源、歌謡の由来など)を太安麻呂(おおのやすまろ)が筆録したとは有名な話である。歴史書の編纂とは、このように、かつて起こった事ども(史実)を一定の基準で配列し、事の推移をわかりやすくしたものである。

  中国唐代の史官劉知気(りゅうちき)が著した『史通』という史学概論書によると、古今の史書の体裁には編年と紀伝の二体があるという。編年体は歴史事実を事が起きた時間の順序で並べるやり方であり、紀伝体は、本紀(皇帝の事績)、列伝(家臣の伝記)、志(天文・地理・礼楽などの事項別記事)、表(年表・系譜の類)、という四部に分けて整理するやり方である。『古事記』は、正確には紀伝体とは言いがたいが、どちらかといえば紀伝体に近いスタイル、その後に編纂される『日本書紀』は、時間の順序に事件が記されるという意味で編年体の史書、徳川光圀の『大日本史』は日本における紀伝体の代表的な史書であるということが出来よう。

  史実と史料
  ところで過去に起きた出来事とはいっても、これを「史実」と言うためには過去の人間の生活とはっきり結び付けられなければならない。同じ現場に居て、同じ事件を見た人が、違った報告、違った感想を述べるのは、われわれの日常的に経験することである。いわんや過去の、それも数百年の昔の出来事などそう簡単に確定できるわけがない。歴史の研究にとって、どうやって史実を確定するか、どうやれば乏しい証拠で史実であることを相手に納得させられるかが常に大問題となるのはこのような理由による。

  史実を求めて歴史研究者は過去の人間の生活の痕跡を探し回る。生活の痕跡とは、ある場合は人間が使用した道具や住居の跡のような物であり、またある時には精神活動の遺物とも言うべき風俗や宗教であったり、文字で記録された思想などのことである。これらを一括して歴史の素材という意味で「史料」と称する。現在では、研究の素材として主として扱う史料の種類によって、遺跡や遺物によって研究するものならば考古学、風俗や習慣によるものならば民俗学とか文化人類学と呼び、文献を主体に研究を進めるものを歴史学と呼び慣わしている。


  編纂という作業
  例えば今大学受験を控えている高校生に「日本古代の六つの歴史書をあげなさい」と問うたら、たちどころに『日本書紀』『続目本紀』以下のいわゆる六国史を挙げるであろう。ではもう一問、六国史(りっこくし)は年次の順序に史実を記した編年体の史書ですね、主題ごとにまとめた史書はないですか。高校生の知識の範囲内かどうかは知らないが、それが『類聚国史(るいじゅうこくし)』と呼ばれる史書である。シーズンには多くの受験生が参詣する天満宮の祭神菅原道真が編纂したものである。もと二百巻あったうち、現存するのは六十二巻というのは惜しまれるが、諸書の中から主題によって関連項目を寄せ集める中国の類書(るいしょ)の形式によって、神祇、帝王、後宮、人、歳時などと主題に分けて六国史の記事を類聚している。現存する『日本書紀』などと比べてみれば記事は細大漏らさず収められており、現在は散逸して伝わらない部分の多い『日本後紀』の本文を残す部分もあって、古くから六国史を直接使うよりも便利な書物として重宝されてきた物であった。

  六国史を材料に『類聚国史』を編纂する現場を想像してみると、おそらく、まずその本文を写し、それを主題に従って切り取り、糊で貼り付ける、という作業が繰り広げられていたことであろう。コンピュータならおなじみの切り取りと貼り付けが、文字通り糊と鋏で行われていたものと想像される。「切り貼り」と呼ばれる糊と鋏のこのような作業は、ひとり『類聚国史』の場合だけでなく、その後に作られる鎌倉幕府の史書『吾妻鏡(あづまかがみ)』でも、徳川幕府が作った室町幕府の歴史『後鑑(のちかがみ)』や、徳川幕府の歴史を記した『徳川実紀(とくがわじっき)』の編纂作業の場合でも同じように行われていたと考えられる。

  『吾妻鏡』は鎌倉幕府の歴史を日記のように日を追って記した史書である。あたかも毎日記したように見えるところがら日録と考えられたこともあったが、現在では幕府の記録、諸社寺や御家人の家に残された文書、京都の公家の日記、物語や歌書など、様々な材料によって「編纂」された史書であるとされている。『吾妻鏡』の文献としての性質を研究した八代国治は、その著『吾妻鏡の研究』の中で、「吾妻鏡の誤謬」の項を立てて「切張の誤」ということを言っている。切り貼りの際の誤りにより記事を違う年次のところに置いたり、あるいは死んだ人を生きたように、生きている人を死んだようにしている個所があるとの指摘である。『吾妻鏡』の編纂現場を見てきた訳ではなかろうが、説得力のある推測ではある。

  『後鑑』はもっと直接的で、事件の概要を記した後にその典拠となる文献を原形のまま掲げる。こうなると作業の仕方としては切り貼り以外の方法は思い浮かばない。『徳川実紀』の場合は、典拠史料の全部を挙げきれないと見たのか、本文の後には史料名のみを掲げている。江戸時代中期の公家柳原紀光が編纂した史書『続史愚抄(ぞくしぐしょう)』も『徳川実紀』と同じスタイルをとっているところを見ると、江戸時代には歴史が史料に基づかなければならないという認識に達していたことが窺われる。


  『大日本史料』
  現在史料編纂所で編纂している『大日本史料』は、スタイルとしては『徳川実紀』と同じく、まず事件の概要を示す「綱文(こうぶん)」を掲げ、ついでその典拠になった史料(文献)を挙げる史料集である。採用する史料の範囲は『徳川実紀』とは比較にならないほど広いし、校訂も厳密にはなっているけれども、基本的には江戸時代に編み出された手法を踏襲している。それというのも、史料編纂所の事業そのものが江戸時代の史書編纂の伝統を継承するからに他ならない。

  史料編纂所の発端は、明治二(一八六九)年、表六番町(現千代田区六番町)にあった和学講談所の跡地に史料編輯国史校正局が置かれたことに始まる。和学講談所は塙保己一(はなわほきいち)が始めた現代風にいえば歴史研究所で、学問といえば漢籍が第一に挙げられる当時にあって、日本の文献を集め、研究する機関であった。塙保己一は、視覚障害のハンディキャップを物ともせず、諸所に秘蔵されて大変手に入れにくかった文献を蒐集し、校訂した上で『群書類従』の名で出版するという大事業を行った。また「史料」と称する史料集の編纂を企てた。この「史料」(紛らわしいので「塙史料」と通称される)は、まさに『大日本史料』の原形とも言いうるスタイルを持っている。史料編纂所(の前身)は、はじめは六国史の後を継ぐ官撰の「編年史」を編纂することを目指していたが、明治二六(一八九三)年にこの事業を中止し、お雇い外国人教師の助言を参考にして、歴史研究の基礎となる、信頼するに足る史料集の編纂を行うことになる。この方針転換に際し範としたのが「塙史料」であったのである。

  『大日本史料』編纂事業は、六国史の終わった後を承けて、仁和三(八八七)年の宇多天皇践祚から慶応三(一八六七)年までを政治史の画期で十六に分け、第一編から第十六編として、同時スタートで仕事を始めるというものであった。史料集の編纂にはその前提に史料を蒐集しなければならない。明治一八(一八八五)年からは全国的な史料調査と、史書編纂の材料になる古文書や記録など史料の複本作成の作業が始まっていた。それらを材料にして最初の出版物である『大日本史料第六編之一』『大日本史料第十二編之一』が出版されたのは二〇世紀の幕開け明治三四(一九〇一)年であった。現在「史料稿本」と呼んでいる『大日本史料』の最初の形(史料を写し、切り貼りしたもの)がほぼできあがるのは明治末年であったというから、相当急ピッチの作業であったことが分かる。


  『大日本史料』の編纂
  現在でこそコンピュータの利用や、原稿用紙でもカードのように史料毎に別紙を利用する方法が多くなったが、一昔前までは糊と鋏の作業が『大日本史料』編纂の現場で幅をきかせていた。

  作業は編纂用の史料の書写から始まる。その頃は、勿論コピー機はないし、「写字生」と呼ばれる人々が枡目の入った切り貼り用の原稿用紙に史料を写す。写字生とはいってもいわゆる崩し字を堅い字(楷書体)にするのであるから、古い時代の史料が読めなければならない。そう簡単な仕事ではない。写す史料の範囲は日記・文書などその時期の主要史料でかなり広い範囲のものである。編纂の担当者(編纂官補)は、その中から「綱文」に従って関連する記事を切り取り、反古紙を裏返した台紙に貼り付ける。『大日本史料』は編年体の史料集ではあるけれども、綱文によっては年次で整理できない家譜・系図のたぐい、地誌や物語なども採らなければならない。こういった史料は全部を書写しておくわけにはいかないので、その都度関係する部分を写す。

  こうやって一応の体裁が出来ると、次には史料解読に必要な註記を付ける。本文の脇に小さい文字で付けられる註記ではあるが、原史料では通称で記される人名を考証したり、地名の所在地を確認したりと、編纂者にとっては学識と経験が問われる難しい作業である。一字、二字の註記のために何日も駆け回ることも珍しくない。史料集の宿命でこの考証作業の過程は本文には残らないが、出来上がった物を見れば編纂者の力量は自ずから現れるので編纂担当者は息を抜くことが出来ない。綱文との関連で史料の配列順序を変えたり、見落としていた史料を補ったり、という作業もこの問に行われる。

  こうやって形が出来ると、再び写字生の手で清書が行われ、出来上がった清書原稿は編纂官へ廻される。編纂官は、原稿の仕上がり具合を点検をすると共に、のっぺらぼうの史料に読点を打ち、「標出(ひょうしゅつ)」と呼ばれる本文上部に付ける見出しを考える。読点の打ち方一つで史料の意味がすっかり変わることさえあるからおろそかには出来ない。句読点は、現在では文字一字分をとって付けられることが多いが、当時は四分空きと称して文字と文字の間を一字の四分の一ずつ間隔を空けて組んであったので、そこへ読点を入れるので、字数は意識しないで付けられた。標出を付ける作業は、綱文を意識しながら掲げた史料の要約をしなければならない。そうかと言って史料から読みとれる以上の説明的な言葉は入れない約束なので、その兼ね合いが難しい。標出の善し悪しで出来の善し悪しが決まるともいえる。とにかくこれで印刷原稿の出来上がりである。


  史料集の印刷
  ここに紹介している時代(およそ第二次大戦以前の時期)では、『大日本史料』は原稿を作成する部署と印刷を担当する部署が違っていた。原稿作成は「編纂部」、印刷は「校正部」と呼び慣わされていた。その校正部の仕事を紹介しよう。

  校正部は一般出版社の仕事を行う部署である。まず受け取った原稿を点検し、印刷所向けの指示事項を書き込む。普通に「原稿の割付」という。文字の大きさや位置、改行などを赤色の符号で書き込む。複数の編纂部から回される原稿をどの冊も同じ体裁に仕上げるには、使う文字、表記方法の統一が必要である。文字を当時の通用字体(今で言えば正字)に統一するとか、たとえば文書の日付の位置、署名の位置をどこにするか、といった細かい約束ごとがあった。もっとも体裁統一の裏面には、時代の特徴である異体文字が通用字体に統一されたり、史料の表記で是非残したいような部分が消えてしまうようなマイナスの部分もあった。

  活字で組むことの出来ない図版や写真などは別に発注しなければならない。図版は凸版(とっぱん)と呼ばれる方法で処理される。凸版は、まずその元となる版下(はんした)の原稿を作り、これを写真の技法を利用して亜鉛の板に焼き付ける。その上で薬品処理をし、必要の部分のハンコを作る。写真は、凸版ではあるが製版の際に細かい網を掛けて印刷の仕上がり具合をよくする網版とか、凹版印刷であるコロタイプ印刷とか、場合によって使い分ける。本の背文字などは勿論別に処理しなければならない。

  印刷所では、活字を拾う文選(ぶんせん)、拾った活字を指示に従って一ページに組み上げる植字(しょくじ)などが分担作業で行われる。活字が組み上がるといわゆるゲラ刷り(校正刷り)を作り、注文者に廻す。ここからが狭い意味の校正作業である。文字の誤りや位置を直し、体裁を整える。もし印刷所に指定された文字の活字がない場合は、活字をひっくり返して仮に位置だけを示した状態で帰ってくる。それがちょうど下駄の跡のように見えるところがら「ゲタ」と称し、そこには正しい文字を入れさせなければならない。こうやってゲラは数度注文者と印刷所の間を往復する。これを初校、再校、三校などと称する。校正の作業が完了すると校了と称し、印刷の最終工程にはいるわけである。

  活字印刷が一部の分野を除けばほとんど行われなくなった現在でも、文字の形に対するこだわりは依然として強い。出版社によっては文字を見ただけでアアあの、と識別出来るものさえある。もし違ったタイプの文字が混じれば、たとえ一字でも浮き立って見えて違和感を覚えるものである。これは活字時代でも同じであった。各印刷所はそれぞれ自分のところが最善と思う文字を作り上げ、それを売り物にした。何千、何万の文字が一色に見えるのは、たとえば縦の線、横の線の太さの割合、線の曲がる角度などが統一されているからだという。そう説明されてもなかなか分かりにくいが、同じ基準でデザインされた文字できれいに仕上げるのが印刷所のプライドであった。

  もし原稿に自社にない文字があったら、たとえ一字にどれだけの費用がかかろうと、新しい活字を作って対応した。新しい活字の製作は、まずデザイナーに文字のデザインをさせる。活字の大きさによって縦、横の線のバランスを変えないと、大きい活字が弱々しく見えたり、小さい活字がぼてぼてしたりするものだそうである。出来上がった文字を凸版の要領で亜鉛板に焼き付け、亜鉛版を元に母型(ぼけい)という活字合金を流し込む真鍮で出来た活字の元を彫刻させる。それを活字鋳造機にかけて活字を製造するのである。

  日本の文献を印刷する際にどれくらいの文字種があればよいかはしばしば問題にされるが、誰もなかなか正確には答えられない。一流の印刷所では五万字は持っていると言うが、ワープロを使った経験で言えば、JISの第一、第二水準で九九・五。パーセントはカバーできると考えている。まずは一万字あれば実用には不便がないというべきであろう。そうはいっても、同じ文字でも活字の大きさごとに母型を作らなければならないのだから印刷所は大変である。しかもそれを並べ、必要に応じてたちどころに使える状態にしなければならない。活字印刷が一つの文化であるというのは決して言い過ぎではないであろう。


  むすび
  印刷された史料集の出来るまでを史料の蒐集の段階から数えて見れば、実に多くの人手がかかっている。しかもそれぞれの段階で、表には現れないものの、仕事へのこだわりがあり、試行錯誤や多くの工夫があった。時代の流れで活字印刷のように他の技法に置き換わりつつあるものもあるが、たとえコンピュータが発達しても容易に機械作業には置き換えられない分野もある。非能率だ、古くさいと決めつけずに、そこに込められた先人の知恵を学び取り、これからの生活に役立てたいものである。

(桑山浩然)


参考図:『宮澤賢治全集六』
81[不掲載]『宮澤賢治全集六』(十字屋版、昭和一八年)の頁見本
活字ゲラ
紙型
鉛版
清刷
刷り上がり(巻末参照)
ヨシダ印刷株式会社製作、総合研究博物館蔵
82a[不掲載]エドワード・モース著『ジャパン・デイ・バイ・デイ』の印刷用鉛版(二箱)
大正六(一九一七)年
鉛に銅メッキ、木箱縦横二一・〇cm、高一六・五cm、鉛版縦一七・五cm、横一二・五cm
附属図書館蔵
82b エドワード・モース著『ジャパン・デイ・バイ・デイ』
Edward S. Morse, Japan Day by Day, 2 vols., Boston & New York, Houghton Mifflin Company, The University Press Cambridge, 1917
大正六(一九一七)年
縦二二・八cm、横一六・五cm
理学部人類学教室蔵

大森貝塚の発見者である米国人エドワード・モースの遺品のなかに、彼の国内での生活を綴った『ジャパン・デイ・バイ・デイ』の印刷に使われた鉛版が含まれている。鉛版の一揃いは二十八個の木箱に収められ、釘打ちされていた。開封されていたのは一箱のみで、残りは未開封のまま残されていた。今回あらたに一箱が開封された。日本で初めて紙型から鉛版が取られたのは明治九(一八七六)年のこととされているが、当時の紙型や鉛版はほとんど残されていない。文字部分にのみ銅メッキが施されており、軽量化するためだろうが、鉛の削られた痕が残されている。




活版印刷

活版印刷を行うには印刷機から活字の一本に至るまで実に膨大な用具が必要となる。しかも、それらを一つひとつ組み立て、印刷を進行して行くには、百分の一ミリ単位の精度が要求される。その意味で活版印刷は、文字通り職人の手業に依存した「文字の小宇宙」と言える。万単位の鉛活字を自在に操る文選工、複雑な字組を瞬時にして割り出す植字工、ミクロン単位の起伏を肌で感じ取る鉛版工や印刷工、そして彼らの仕事の流れを総括する進行係り。これらのどれ一つを欠いても活版印刷は成り立たない。総合研究博物館は、ヨシダ印刷株式会社の御厚意により、活版印刷のプロセスに必要なすべての資材を学術資料として永久保存することになった。




参考図:大日本法令印刷株式会社の植字台(右上・右下)、母型群(左下)

83[不掲載]活版印刷資材一式
母型 八ポイント九千百本(木製タンス入り)
母型 九ポイント七千三百本(木製タンス入り)
母型 一〇ポイント五千百本(木製タンス入り)
植字台(付必要道具一式)
活字馬(大)
活字馬(小)
活字取置棚(二台)
活字ケース用タンス(和)(二台)
活字ケース用タンス(欧)
活字ケース 九ポイント 一式約八万本(約八十ケース×一千本)
漢字・約物約八十万本(約八百ケース×一千本)
欧文・約物約四十万本(約四百ケース×一千本)
込物約二十万本(約二百ケース×一千本)
活版組版二十二版
インテル一式
飾罫一式
ヨシダ印刷株式会社寄贈、総合研究博物館蔵
84[不掲載]「活版印刷工場」 二一インチ・デジタル・ディスプレイによるデジタル動画像
文学部視聴覚センター作製




石版印刷

慶応三(一入六七)年のパリ万博のさいフランスから平仮名活字を持ち帰った瑞穂屋清水卯三郎はまた、石版印刷技術を習得した最初の日本人でもあった。彼は帰国にさいし石版印刷機を持ち帰っている。幕府の開成所から沼津の兵学校を経て陸軍兵学寮に一台の石版印刷機が受け継がれていたことは確かであり、また瑞穂屋の印刷機が明治二(一八六九)年に稼働していたこともいくつかの記録からわかる。翌年からは二代玄々堂緑山、下岡蓮杖らが、東京、横浜、函館などで石版を試み始めた。しかし、彫師や摺師の技術水準の高かった日本では、石版印刷の特性が理解されるのに時間がかかった。明治一〇年代になると、石版特有の砂目効果や生産効率が注目されるようになり、印刷技術として一挙に普及する。




85a 荷札各種
明治末〜大正初期
紙に多色石版
川口印刷工業株式会社蔵
85b[不掲載]デジタル・アーカイヴ「荷札見本帖」
タッチ・パネル式
総合研究博物館製作

86 「川口荷札」の広告用立体文字
昭和一〇(一九三五)年
銅板、縦一五・八cm、横一五・八cm
川口印刷工業株式会社蔵
87[不掲載]「川口荷札」の看板
昭和初期
鋼鉄板にホーロー引き、縦三〇・〇cm、横一〇・〇cm、厚一二・〇cm
川口印刷興業株式会社寄贈、総合研究博物館蔵

「東洋一」を誇った盛岡の川口荷札(明治三七年創業)では、大正期に年間四億八千万枚の荷札が輸入石版印刷機で刷られていた。日産十三万枚の荷札が生産され、鉄道便などを介して木炭や炭俵とともに全国へ運ばれていったのである。荷札はまた「エフ」とも呼ばれていた。電報で「エ」と略称される「駅」と、駅名を記した絵札の「札」の「フ」を語源とするようで、江戸時代武家階級の荷物にくくりつけられた「絵符」と音韻を同じくする。荷札は文字流通の最大のメディアであり、ここには「記号として消費される文字」が見られる。


参考図:川口荷札で使用されたドイツ製荷札製造輪転機(大正期)

参考図:川口荷札の活版印刷室(大正期)




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