第三部

活版の世界



活字の制作道具他

活字の印行には様々な専門職人が携わるが、なかでもっとも確保の難しいのは種字の彫師であった。印刷の事業者は、なによりもまず優れた種字彫師を、少なくも一人自社内に抱え、必要に応じて種字を供給できるようにしていなくてはならなかった。整版本、木版画、印章の印行や制作が日常的に見られた明治前半期には彫師の確保もそう難しくなかったが、昭和期に入ると名匠と謳われる彫師の数が極端に少なくなる。画数の多い特殊文字や、ルビに使われる細字の木製種字を、手製の刀とルーペのごく簡単な道具でもって彫り出す彫師の技術は、事実上死滅してしまい、今日ではもはや復元不能である。





65a 彫劾刀他の道具一揃い
築地活版の彫師安藤末松の遺品より
昭和初期
個人蔵

65b 木製種字
築地活版の彫師安藤末松の遺品より
昭和初期
個人蔵

65c 鋳型
築地活版の彫師安藤末松の遺品より
昭和初期
個人蔵

安藤末松は東京築地活版製造所の最後の種字彫師である。竹口庄太郎、鈴木彦次郎らが師匠。築地時代に細九ポイント明朝体を完成させた。昭和一三(一九三八)年に築地活版が閉鎖されてからは、独立し、各社の活字を彫るようになった。昭和四七(一九七二)年五月没、享年六十二歳。
66a[不掲載]ルーペ三種
博文館の彫師君塚樹石の遺品より
昭和初期
個人蔵

66b 見本用米国製活字セット他
博文館の彫師君塚樹石の遺品より
昭和初期
個人蔵

君塚樹石は明治三三(一九〇〇)年東京生まれ、本名は興一。大正三(一九一四)年博文館印刷所に入社、種字彫師石渡栄太郎に師事した。君塚の名が知られるようになったのは、精興社の活字を彫ってからである。漢字については他社製活字との差異も明白でないが、平仮名の線の張り、端正な意匠、漢字に対する字面の大きさとフトコロの設定などに特長がある。君塚は原寸彫刻から拡大原字作図までをこなした数少ない職人のひとりである。昭和四五(一九七〇)年八月没、享年六十九歳。

67a 初号年賀文字各種
明治中期以降の母型より新鋳
個人蔵

年賀文字とは企業の年賀広告用に製造された変書体。初号から一号、二号を中心にして多くの種類が存在する。初製は東京築地活版製造所の初号蔓型(明治二〇年代後半)と思われる。

67b 初号長宋体仮名一式
昭和初期の母型より新鋳
津田三省堂製
個人蔵M

宋朝体活字は上海の中華書局書体に基づいて、昭和初年、津田三省堂によって初めて国産化された。津田三省堂の製品には、縦に細長い長宋体とそれほど細長くない方宋体の二種類があり、後に森川龍文堂から龍宋体活字も発表された。本品は津田三省堂の宋朝体活字のうちでもっとも珍しい初号活字の仮名一式。

  一九世紀ヨーロッパ・中国での明朝体金属活字の開発と日本への伝播
小宮山博史


  美華書館ウィリアム・ガンブルの来日
  近代活版印刷術が日本にはじめてもたらされたことを記す信頼できる資料は、同治七年七月(一八六八年九月)アメリカメソジスト監督教会宣教師林楽知(Young John Allen)が上海で創刊した『教會新報』第二巻に収録されている二編の詩と二つの記事であろう。

  中國東洋信息大畧「美國姜先生於外國十一月到東洋長崎因東洋有一官請去也在長崎住四月設立印書舘滯去中國鉛字外國鉛字及東洋字一切器具教東洋人排字印書及電氣鑄銅版諸法東洋人輕財重學己彷照外國設立新報又遠請姜先生教以諸法專心學之無患無成東洋又己設同文館多所延師教之又東洋人亦成字典一書去年東洋人至上海在美先生處請刷印蓋價廉而字工云」(第五二号、一八六九年九月一一日)

  送美國姜先生回國詩序 己巳桂秋望日宋書卿甫稿「憶自丙寅歳蒙 美國恵志道先生薦至美華書舘内就校對之職始獲與 先生爲賓主焉屈指迄今巳閲四年矣曾目観 先生創鑄小字銅塑子一架又大字曁項小字銅塑子各一架刻復新鑄銅版書數册較 初至時而館中之景象換然一新廻非昔比也足見心思靈敏長留鴻範於中華而鍛練精工等蟲雕離之技此時旋返 貴邦揚帆西去冀日重臨敝國駛艇東來欲賀登程愧之行之禮爰俚句聊舒餞別之懷率成七律ニ首以博一云爾 
姜闢理先生哂政秋風江上鴈成羣唱出驪歌日正名播東洋欣彼聞東洋人請 先生去教習鑄字排版等法緑此先倒東洋後回自國送行南浦悵辭君爐中版千行字謂鑄銅版書海外帆飛一片雲聞道先生歸去也共將別酒早排陳館中諸嬬友數十設席餘人共相握別餞行申江芳躅駐多年一旦言旋各黯然鉛字編成殊不紊架上鉛字悉照康煕字典部位銅文鎔就洵堪傳謂鑄各等字銅塑子博來駿譽馳中外印到鴻泥相後先予來滬有年矣興先生戻申時差分先後何日東南仍盡美西樓望月好重圓」(第五五号、一〇月二日)

  美國姜先生由日本回上海「美國姜先生前往日本因日本有一官請其用電鑄銅版及排鉛字活版印書姜先生在日本四月已事竣凡造字模三副一巾國字一日本字大小字咸備先試排印之書乃西國字東洋字合譯之字典日本各處皆欲彷行茲事成而回上海」(第八二号、一八七〇年四月一六日)

  送美國闢理姜(ママ)君詩 教友許維惨「客歳麥秋得膽風度仲夏乃承恵君薦至館中歴観機器深羨巧妙秋季駕赴日本訓授門生裁成而回滬已是今春之末茲値錦旋逐占五律畧述長才藉舒衷曲順送台旌  米利堅中一俊人胸羅錦妙通池奔紫電銅成版紙掃青泥墨轉製器工無勞力苦嗜書士易飽嘗新我朝徳盛宏柔遠博得來賓巧奪倫  聲傳西海復東洋爭道先生技嚢長心美富牛窮物理法誇但石精良抱才未忍私郷國有則惟欣其大方游遍山川勤不憚立功播得姓名香  十年帳設滬城東半載甄陶日本蒙桃李成陰懸化雨菱荷正馥趁歸風此時人有還樂惜別情聯闔館衷共道今朝旌旆仍希冉至領謙沖  爰轂及轅憶昨秋厨遂把歩兵留樽開數月權分手水漲千江復聚遊後會再知爲孰日快歌一曲對長流臨肢亦天涯客歸願君充上帝  萬里長風萬里川空爽色空煙火輪飛向金山去雲樹翹鋪碧海邊驀見漁家皆原本一次不改」(第九八号、八月一八日)

  以上が全文であるが、この『教會新報』の記事についてはすでに矢作勝美氏が『図書』誌第四三一号(一九八五年七月一日、岩波書店刊)に紹介しているが、抄訳であって原文は示されていない。また「美國姜先生由日本回上海」一編を落としている。

  『教會新報』の詩および記事に紹介されている「姜闢理」とは、日本の近代活版史や印刷史に活字製造・組版・印刷技術を伝えた人物として記されるウィリアム・ガンブル(William Gamble)のことである。ウィリアム・ガンブルは在中国アメリカ長老会印刷所(American Presbyterian Missiong Press)の印刷技術の五代目責任者として一八五八年一〇月着任した。

  長老会印刷所は一八四四年二月マカオに設立され中国進出の足がかりを作った。この時の中国名は「華英校書房」。一八四五年七月寧波に転じ「華花聖経書房」と改称、一八六〇年一二月上海に移転し「美華書館」と再度改称、以後一九三一年前後に清算・閉鎖するまでこの中国名を自館印刷の中国語聖書やトラクトの扉に明記している。墨海書館閉鎖後上海における唯一のミッションプレスである美華書館の初期の場所は残念ながらはっきりしない。中国での記録では最初は小東十六舗フランス租界警察署の北、小東門派出所の近くに開設したとあり、また美華書館のギルバート・マッキントッシュ(Gilbert Mcintosh)が書いたきThe Mission Press in China(一八九五年刊)ではミッションハウスに隣接する小さな建物を購入し、そこで開館したとなっている。この、ミッションハウスが小東門にあったのか、あるいは別の場所であったのか現在のところ私にはわからない。ただ一時期上海県城の小東門近辺にあったことは間違いなく、ヘボンの『和英語林集成』(挿図1)は杉山栄著『先駆者岸田吟香』(一九五二年、岸田吟香顯彰刊行会刊)によれば「小東門外の美華書館と称する印刷出版所」で印刷されたとある(同書七七頁)。また同様に出典は明記されていないが川田久長が執筆した「邦文活字小史」(『季刊プリント』第一号所載。一九六二年、印刷出版研究所刊)には「最初はホンキュウ地区の中国風の家屋を転用してこれに宛てたが、やがて小東門(Little East Gate)外の焼跡地にミッション・プレスと礼拝堂が新築された」と書かれている。ホンキュウ、漢字で書けば「虹口」だがこれは蘇州河以北であり、一八六三年以降の共同租界を指す。川田の文章に従えば、美華書館は寧波から上海の蘇州河以北のいずれかに移り、やがてフランス租界の小東門に転じたことになり、中国の記録とは異なってくる。

挿図1 『和英語林集成』J.C. Hepburn American Presbytterian Mission Press,Shanghai,1867

  美華書館の住所ではっきりしているのは「北京路十八号」で、これは前記The Mission Press in Chinaによれば一八七五年に購入された敷地で、同書の扉の対向頁にミッションプレスの三階建の写真が掲げられている(挿図2)。この北京路十八号は現在の上海友誼商店の場所であり、その建物は現在の友誼商店に建替えられる以前のものであり、上海印刷技術研究所の兪志恵所長によれば一九七〇年には確かにこの建物があったという。

挿図2 上海北京路十八号の美華書館(一八九五年頃)

  美華書館は十代目責任者フィッチ(G.F.Fitch)の時代に規模の拡大をはかり、一九〇二年または三年に北四川路一三五号に印刷工場を新築し(挿図3)、北京路の建物を編集発行所、倉庫として使うことになるのである。

挿図3 上海北四川路一三五号に新築された美華書館の印刷工場(The Awakening of China,W.A.P Martin,1907より複写)

  日本でのガンブルの講習とわが国の初期活字製作
  『教會新報』によれば、美華書館の印刷責任者ウィリアム・ガンブルは日本の一官吏の招請に応じて、一一月から四カ月長崎に滞在し日本人に印刷所を設立するために必要な活字組版・印刷・電胎母型製造の技術を教えることになった。ガンブルが持参するものは、漢字活字.欧文活字・仮名活字を含む一切の関連機材である(「中国東洋信息大畧」)。この日本での講習は当初の予定より大幅に延び、母型三組(漢字一組、欧文一組、日本字大小一組)を完成させ、それを使った和英(あるいは英和)辞書の試し刷りを終えたのが四月で、ここに半年におよぶ長崎での講習を終わりガンブルは上海に戻っていった(「美國姜先生由日本回上海」)。

  ウィリアム・ガンブルを長崎に招いた一官吏というのは長崎製鉄所頭取を務めた本木昌造である。本木昌造はすでに安政六(一八五九)年に『和英商賈対話集』(挿図4)を塩田幸八名義で、翌万延元年には増永文治名義で『蕃語小引』(挿図5)を金属活字を使って印刷刊行しているが、その出来に満足していない。本木昌造伝と活字製造の基本文献としてのちのちまで影響を与えることになる「本木昌君ノ省像ニ行」(『印刷雑誌』第一号〜第三号所載。明治二四年二月〜四月、印刷雑誌社刊。第二号、三号の表題は「本木昌造君ノ行状」となり「省像」がはずれる)には最初に作った活字について次のように書かれている(第二号所載)。

挿図4 『和英商賈対話集』安政六(一八五九)年(名雲書店提供) 挿図5 『蕃語小引』万延元(一八六〇)年(名雲書店提供)

  「或ル時洋書ヲ繙閲スルニ當リテ其印刷術ノ甚タ精巧ナルニ只管感歎セラレ我カ國ノ印書法モ早晩之ニ傚ヒテ一新セズハアルベカラズト愛ニ一念ヲ起サレヌ、サレド其術固ヨリ未ダ我が國ニ傳ハラサレハ其製造ノ如何ナル手段ニ出ルカハ更ニ知ルコト能ハス只當惑セラル、ノミナリシカド或ハ之ヲ洋書ノ巾に索メ或ハ親シク洋人二質シナドセラレテ纔ニ其術ノ一端ヲ知ルコトヲ得テ尚ホ種々ニ思ヲ焦サレ數年ノ後ニ稍會得セラル、所アリケレハ嘉永四五年ノ頃ニ至リテ遂ニ始メテ流シ込ミ活字ト云フモノヲ造りテ自著ノ蘭和通辮ノ事ヲ記セシ一書ヲ印刷シ之ヲ和蘭二送ラレシニ蘭人之ヲ見テ大ニ其技ヲ賞讃シタリトナリ是ヲ我カ國ニテ鉛製活字ヲ造リシ初トス

  この文章の中で重要な記述は、(一)嘉永四、五年に流し込み活字を作り、(二)蘭和通辮の事を記した本を印刷し、(三)オランダに送ってその技術を賞められた。(四)これがわが国最初の鉛活字である、という四項であろう。嘉永四、五年は西暦で言えば一八五一、五二年であり、『和英商賈対話集』や『蕃語小引』を刊行する八年ほど前になる。嘉永四、五年にどのよう活字を作り、どのような本を印刷したのか。

  東京国立博物館には本木昌造が安政四、五(一八五七、五八)年に作ったとされる父型四本と母型二個が、明治三四年一一月二八日野村宗十郎によって寄贈され、収蔵されている。野村の執筆と思われる説明は次の通りである。

  「此鋼鐵製及真鍮製ノ原版ハ安政四五年ノ交ニ本木永久 ノ工夫ニ係リ之ヲ銅ニ打チ込ミ テ母型ヲ作り鉛ト伊豫白目(アンチモニー)トノ合金ヲ流シ込ミテ活字ヲ作リタルナリ」(原文五行)

  永久は本木昌造の諱、野村は本木が興した新街私塾活字製造所の後身である東京築地活版製造所の社長を務めた人で、明治三四年当時は支配人であった。

  東京国立博物館収蔵目録の記述は以下の通りである。収蔵品の書体はいづれも明朝体である。

列品番号一七九四 鋼鉄製活字原版 二個
本木永久製
  (一)秩字方約〇・九長二・二一
  (二)太字方約一・五一長三・三三 安政四、五年頃 野村宗十郎寄贈
列品番号一七九五 真鍮製活字原版 二個
本木永久製
  (一)版字方〇・七五長二・七五
  (二)銀字方〇・六長二・八一 安政四、五年頃野村宗十郎寄贈
列品番号一七九六銅製活字母型二個
本木永久製
  (一)譜字三・三三×〇・九六×〇・六〇
  (二)仁字四・二四×一・八×〇・八五 安政四、五年頃 野村宗十郎寄贈
寸法の単位はセンチメートルである。目録中の「活字原版」とはいわゆるパンチ用父型のことで、これを母型(活字鋳型)材料に打ち込んで凹型の鋳型を作る。そこに活字金属を流し込むと凸型の活字ができる。

  列品番号一七九五の「活字原版」と記された「版」「銀」は、尻(文字表面と反対側)を見る限り父型ではなく活字のように思われる。しかし活字材に銅と亜鉛の合金である真鍮を使った理由を現在のところ説明できない。この「版」「銀」のサイズとスタイルは、前記本木昌造が増永文治名義で一八六〇年に印刷刊行した『蕃語小引』に使われている漢字活字と同じものであろう。ただし『蕃語小引』には「版」「銀」は使われていない(挿図6、7)。

挿図6 東京国立博物館蔵「真鍮製活字原版」(武蔵野美術大学平成五年度共同研究報告書「活字書体の変遷と書体系譜の研究(その一)」より) 挿図7 「真鍮製活字原版」レターフェイス復元

  列品番号一七九四の父型「太」は、これが安政四、五年頃の製作とするならばこの当時の中国等で使われていた明朝体とくらべて遜色はなく、むしろそれらより優れたスタイルと言ってもよい。しかし「秩」は復元印影で見るとおり横線が極端に右上りで、旁の「失」の構成・線質が特に悪く、明朝体としての質は落ちる(挿図8、9)。

挿図8 東京国立博物館蔵「鋼鉄製活字原版」(武蔵野美術大学共同研究報告書より) 挿図9 「鋼鉄製活字原版」レターフェイス復元

  この二列品は収蔵目録が記すように安政四、五年頃の製作としても、それを否定する明確な理由は見つからない。しかし列品番号一七九六については収蔵目録が記載する安政四、五年の製作に大いに疑問である。この母型二個は間違いなく「電胎母型」である(挿図10)。電胎母型は元になる種字(たねじ)を使って銅鍍金法によって凹型の鋳型を作り、それを金属の母型材にはめ込んだもので、本木昌造がこの方法を知ったのは本稿の冒頭に引用した『教會新報』の記事に見るように、一八六九年つまり明治二年の二月以降のはずであり、それを教授したのが上海美華書館のウィリアム・ガンブルであった。収蔵目録が記載する安政四、五年頃にはたしてこの方法を本木昌造が知っていたのかどうか。本木はオランダ通詞であったから、活字製造に関するオランダの技術書を見ている可能性は考えられる。

挿図10 東京国立博物館蔵「銅製活字母型」
(武蔵野美術大学共同研究報告書より)

  再び「本木昌造君ノ行状」より抜く(『印刷雑誌』第二号所載)。

  「安政五年先生牢舎ヲ出テ、謹慎ノ身トナラレシ頃専ラ心ヲ工藝ノ事ニ用ヒ中ニモ曩ニ製造セシ活字ノ未タ十分ナラヌヲ成就セントテ或ハ文字ヲ水牛ノ角に彫リテ之テ鉛ニ打込ミ或ハ鋼ニ鐫リテ銅ニ打込ミナドシテ種々ニ鋳造を試ミラレシカド或ハ高低ニ不同ヲ生シ或ハ分角正シカラスシテ満足ナル結果ヲ得ス只苦心セラル、ノミナリキ此事抑モ亦故アルナリ從來我カ國ニテ用フル鉛ハ其純粋ナラスシテ使用二適セザル所アルノミナラス之ニ混合スベキ伊豫白目(アンチモニイ)モ甚タ粗製ニテ多く硫黄其他種々ノ物質ヲ含有スルカ故ニ字面粗ニテ印刷ノ用ニ堪ヘス(アンチモニイ精製ノ術ハ今日ニ至リテモ未ダ成功セス皆舶来ノ物ノミヲ用フ)又鋼鐵彫刻ノ術ハ此頃傳ハラザルニアラズト雖モ未ダ精良ナル器械アラザリシカ故ニ彫刻スルニ當リテ文字ノ筆勢、畫等ヲ損セザラシメンハ極メテ難事ナリ」

  ここからは悪戦苦闘する本木の姿が浮かび上る。しかしここに記された活字母型の作り方はパンチ方式で、種字を母型材に打ち込んで何とか母型−活字の鋳型を作ろうとするがいずれも満足なものはできなかったということだけで、銅鍍金法による画期的な母型製法は一言も触れられていない。

  日本において電胎法を最初に紹介した文献は、安政六(一八五九)年薩摩藩精錬所教授川本幸民が訳した『遠西奇器述第二輯』の中に収められた「電氣模像機ガルハノプラスチーキ」が最初であるらしい(昭和一三年刊『近世印刷文化史考』所載、川田久長執筆「日本に於ける洋式活版・鉛活字竝に電胎法に関する最初の文献」)。また活字金属に関しては安政五年杉田成郷著『萬費玉手箱』の第三〇項目に「西洋活字の料剤」があり、次のような配合を紹介している。

  「活字ハ大小に随て鋳料に美別あり。
其小字料ハ 安質蒙(アンチモオン) 二十五分 鉛 七十五分
其大字料ハ 安質蒙(アンチモオン) 十五分 鉛 八十五分」

  日本で最初に電胎法を使って活字を作ったのは三代目木村嘉平(文政六年〜明治一九年)であることは、現存する活字および諸道具類一式、資料などから見て間違いのないところである。現在鹿児島の尚古集成館には三代目木村嘉平の活字と諸道具が収蔵されており、鹿児島県指定有形文化財に指定されている。これは五代目木村嘉平(三代目息)が明治四〇年四月に島津家三十代忠重に献上したもので、五代目嘉平が書いた「昔時本邦創製の和文欧文活字製作畧傳」(『薩藩の文化』所載、一九三五年鹿児島市刊)によれば、島津齊彬の委嘱によるもので、安政元(一八五四)年から開発をはじめ元治元(一八六四)年に完成したものであるという。はじめは鋼鉄に種字を凸刻しそれを銅の母型材に打ち込むパンチ方式を採用したが、打ち込み時に種字の破損も多く再刻に時間がかかり完成までになお多くの年月が必要となることから、このパンチ方式を断念し、他の方法を探ることになった。「畧傳」は次のように述べている。

  「専心苦慮すること久しく一日薩摩家に伺候し、偶ヾ蘭人の出入するに會し理化學の講義を聞知し。齊彬公様の御許可を得て從事後敷月間蘭人に就きて電氣学の一部を研究し、漸くにして金属の酸溶液に封ずる電解力を解し得、是より蝋石面に種字を凸形に彫刻し、高度に溶解せる蜜蝋中に彫刻面を浸漬し引き上げて直に刷毛を以て餘液を除去し、尚微末の銅銀の混合粉を軟性刷毛にて刷き掛け鍍銅の良導體たらしめ、次に木製箱を造り其の一隅に下部に底ある圓筒形の氣孔性なる素焼の土器を納め、尚ほ圓筒形には圓形にせる亜鉛版を直立挿入して亜鉛の上端には銅製線を付着したる一種の電槽兼備の器を造り、夫より梅酢を暖めて銅屑を投入し煮て溶解に至らしめたる鹽化酢酸化銅の復鹽を製造し、冷却して前の木箱と土器の問に注入し土器内には濃厚鹽液を注入して圓筒亜鉛を浸漬し、亜鉛に附随する銅線の一端には兼て用意せる蝋石製凸形種字を結び付け土器と木箱との間の復鹽銅液中に懸垂して厚く鍍銅し、種字と引剥がして鋼鐵彫刻時代に使用せる鋳造機に嵌入し溶鉛を鋳込みて滋に全く速成完全なる活字を製造して恰も元治元年に至れり」

  蝋石種字による電胎母型で鋳造された木村嘉平活字を組んで印刷した版本は現存せず、それらは「畧傳」によれば明治一二年と一四年の神田大火で焼失したという。木村嘉平製作の種字と活字の印影は、尚古集成館の田村省三氏がまとめられた『木村嘉平の活字及び諸道具類一式』(尚古集成館紀要第二号所載、一九八八年)に原寸で掲げられている。書体は楷書体である(挿図11)。

挿図11 木村嘉平活字印影(田村省三『木村嘉平の活字及び諸道具類一式』より)

  このように見てくると、東京国立博物館に収蔵されている列品番号一七九六の野村宗十郎寄贈による本木昌造製の母型についてはその製作年に大いなる疑問を抱かざるを得ない。前記「本木昌造君の行状」にある嘉永四、五年(一八五一、五二年)にはじめて鉛活字を作り、それで蘭和通辮の事を記した本を印刷したという記述も事実であろうか。

  オランダ人が見てその技術を賞めるほどの活字と印刷であるならば、それより六年後の前記「行状」安政五年の条「難事ナリ」に続いて、

「シカノミナラズ之ヲ印刷スル機械又ハ活版いんき等モ未タ海外ヨリ輸入セザレハ從來の印肉又ハ種々ノ墨汁ニテ試ミ又ハばれんニテ摺りナドセシコトニテ思ハヌ故障ニ妨ゲラレ十分ナル成功ヲ見ルコト能ハス殆ント手段ニ盡キタル有様ナリキ」

と書くのは矛盾であろう。それともオランダ人の称賛は、はるか極東の技術力に劣る国の人間が見よう見真似でそれらしいものを作ったことへのとおり一遍の世辞であろうか。

  『蘭和通辮』はほんとうに刊行されたのか。「行状」と同様にその後の活字史に良くも悪くも影響を与え続けた『本木省三平野富二詳傳』(発行兼編集人三谷幸吉、一九三三年詳伝頒布刊行会刊一に『蘭和通辮』についての三谷幸吉の調査結果が記載されている(同書一五〜一七頁)。なお、『詳傳』は『印刷雑誌』に掲載された前記「本木昌造君ノ肖像并ニ行状」と、やはり同誌第一巻第四号〜第六号に掲載された「平野富二君ノ履歴」を収録し、それに三谷幸吉が註および補遺を加えたものである。ただし本文は『行状』そのままではなく、追加削除が見られ、また読点を補い句点を付している。原文は漢字カタカナ混じり文であるが、『詳傳』は漢字ひらがな混じり文に直してある。

  三谷幸吉の『蘭和通辮』についての対面調査は昭和七年九月におこなわれ、『詳傳』には五名の証言が掲載されているが、共通している内容は(一)黒表紙であること、(二)美濃四ツ折判で、(三)英語の活字とカタカナ活字で印刷した、(四)百頁ぐらいの本でかつて売ったことがある(三名)ということである。しかし昭和七年以降今日に到るまで、誰もこの『蘭和通辮』を実見したものがいないのである。少部数ゆえに早く煙滅したと考えることもできるが、昭和七年の証言によればこの四、五年で五冊が流通しているのである。そのような本が一冊も残らず湮滅するであろうか。ここでは『蘭和通辮』なる本はもともと存在しなかったと仮定してみたい。

  「本木昌造君ノ行状」連載二回目に「自著ノ蘭和通解ノ事ヲ記セシ一書ヲ印刷シ」とあることは前に記した。この文章は『蘭和通辮』という書名の本を印刷したと書いているのではなく、「蘭和通辮ノ事」を記した本を印刷したと述べているだけである。この文章をすなおに読めば、日本人のためのオランダ語会話読本ということであろう。三谷幸吉はどのような意図で「ノ事」を取って『蘭和通解』という書名の本が実際に刊行されたとしたのだろうか。

  また「行状」にしても、なぜ日本最初の鉛活字によった印刷物を「ノ事」などと明確さに欠ける言葉で表現しなければならなかったのか。皮肉な目で見れば、これらすべてば本木昌造への過剰すぎる敬慕から活字制作に関して意図的な業績操作や年代操作をおこなった結果ではないのか。本木昌造は教育者であり事業開発者であって、活字制作だけに遭進したのではない。しかし活字制作での業績のみが肥大して伝えられ、その結果本木の真実とは相反するような像が形成されてしまったように思えてならない。



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