2 銀象嵌銘鉄刀(国宝の復原模造品) 古墳時代江田船山古墳出土
鉄、長九〇・九cm、刀身長八五・三cm、刃幅四cm、棟厚〇・八cm、茎部幅二・八cm、棟厚〇・八cm、重量一九七五g
大阪府立近つ飛鳥博物館蔵 |
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この銀象嵌銘鉄刀の原品は熊本県玉名郡菊水町に所在する江田船山古墳の横口式家形石棺から出土したものである。刀身部は鋭化のため黒ずんだ刀身部とともに象嵌部の銀もまた黒色化していたが、平成三(一九九一)年に保存修理され、現在その部分のみが再び銀色に輝く(1)。
茎部は一部欠損し、現存長九〇・九(内茎部六)センチある。各部は刀身長八五・三、刃幅四、棟厚〇・八、茎部幅二・八、背厚〇・八センチを計る。現重量は一九七五グラムあり、背部には七十五字の象嵌が残る。「治天下獲□□□鹵大王世、奉事典曹人名无□(利カ)弖、八月中、用大鐵釜、井四尺廷刀、八十練、□(九カ)十振、三寸上好□(刊カ)刀、服此刀者、長寿、子孫洋々、得□恩也、不失其所統、作刀者名伊太□(和カ)、書者張安也」。この文字の他に一方の刀身側面刀関近くに馬・九旺文、反対側に魚と鳥が象嵌、描かれる。
銀象嵌大刀の模造
展示品はこれがつくられた当時、すなわち、五世紀後半のものに復原しようとしたものである。茎部の欠損部分は同時に出土した同様な形状で、刀身の長さが相似たものを参考として、全長一〇九センチに復原した。
製作前は白銀色に輝く刀身部と象嵌された銀色の文字との識別が困難であるかと思われたが、製作後は素材の違いで反射の具合が異なり、比較的に判読しやすかった。またそれとは逆に、同時に製作した埼玉県稲荷山古墳出土の金象嵌鉄剣の模造品の方は表面が全体に光り、意外と象嵌文字が認識しにくい。
模造では文字の欠落部分はあえて復原せず、遺存部のみ忠実に写した。また、鏨彫の底部分は鳥形などの銀線の欠落部分を参考として深いV字形にした。その後、銀線を装填したが、そのままでは銀線がはずれる。そこで今様の工夫で、鏨を入れるときの周囲にできた鉄の膨らみを利用し、たたいてそれを包み込んだ。
また特に、江田船山古墳の鉄刀は背部に象嵌されているため、刃部の最終研ぎが後に残るが、それも含め、象嵌部の研ぎに関する注意は研ぎをする人と綿密な打ち合わせが必要であった(原品製作当初は分業されていたかどうか)。この研ぎの時点でおおかたの銀線及び鉄の敲打痕の情報は欠落する。茎部は四天王寺蔵の七星剣などの肌を参考としている。
研ぎだされた銀象嵌はこの後、どのようなメンテナンスを受けたであろう。模造品ではあまり頻繁に琢くと鉄より銀の方が弱く、へこんでしまう可能性があるため、とりあえず、現状ではメンテナンスなしで、銀が何年で黒色化するかの方をとっている。今のところ、二年が経過し部分的に黒色化している。
象嵌文字
さて、最も注目されるところの銘文はかつてそのはじめのところを「蝮□□□鹵大王」と読まれ、反正天皇にあてる説が有力であった。しかし、埼玉県稲荷山古墳の金錯銘鉄剣の銘文の検出により、冒頭で示した釈文の方が妥当で、ワカタケル大王・雄略天皇であると考えられるようになった(2)。また双方の銘文の一致は「「奉事」「利刀」などの漢語を共有する上に、「七月中」に対して「八月中」、「杖刀人」に対して「典曹人」、「百練」に対して「八十練」などよく似た語句が用いられることも、両者の同時代性を推測させる」とする。
両者は正当な漢文体と評価される場合が多いが、この文章に関して大庭脩氏は「稲荷山鉄剣銘に見られるような文章(和語を漢字に書き並べた悪文)を書く程度の人たちと、宋朝でも一応は見るに足りる中文の書ける人とが居た時代だといってもよい。そして江田船山古墳の鉄剣銘に、自ら書者は張安なりと名乗れるだけの人がいたのである。彼らは四世紀末に渡来した渡来人たち又はその子供たちだったのであろう(3)」とする。
津田左右吉以降、『記紀』の記載は史実としては疑問視され、遠く中国の『魏志倭人伝』、『宋書』を客観視する向きもあるが、発掘で得られた日本列島出土の直接的な一次史料としてその価値は減ずることはない。特に、『宋書』に詳しく記述される倭王武と整合性を持つところがらも、雄略朝頃の『記紀』の記載について、ある程度の信憑性を再確認させた史料である。
江田船山古墳からの他の出土品
次に問題となるのは、考古学上の編年との関係である。
銀象嵌鉄刀を出土した江田船山古墳は熊本県玉名郡菊水町に所在する墳丘長四六メートルの前方後円墳。周囲に盾形の周濠が確認されるとともにさらに外堤がとりつく可能性がある。後円部には横口式家形石棺があり、出土遺物はそこから明治六(一八七三)年に掘り出された。それらは東京国立博物館に収蔵されたはじめての一括資料となった。
その一括性は高く、画像鏡、回向式神獣鏡、対置式神獣鏡、半肉彫獣帯鏡、環状乳神獣鏡、獣形鏡といった銅鏡各一。勾玉五、管玉二十四、ガラス製小玉の玉類。金銅製冠帽、二山式金銅製冠、宝珠形立飾付細帯式金銅製冠の冠各一。金銅製髪飾二、金銅製沓一、金製垂飾付耳飾二、金環一の各対。金銅製円形座金具一、銅製飾金具一、金銅製帯金具三の装身具。龍文素環頭大刀一、銀装素環頭大刀一、鉄剣六、鉄刀十二、槍三、鉄地銀張り鞘口金具一、銀製柄縁金具一、鉄地銀装柄口金具一、銀製鞘金具二、長方板鉄板一の刀剣類。横矧板鋲留衝角付冑一、板綴三、横矧板鋲留短甲一、横矧板革綴短甲一、打延革綴式頚甲一、肩甲一の甲冑。金銅製f字鏡板付轡一、環状鏡板付轡一、輪鐙一、辻金具一、三環鈴一の馬具類。その他、鉄鎌三、須恵器抔身三、蓋年三、壷一、提瓶一がある(4)。
昭和六〇(一九八五)年の周溝確認調査によって、石棺開口側のくびれ部で須恵器の高杯三がある他、小形の壼、腺、大小それぞれの甕がある。土師器の壼、抔。鞍金具の覆輪、鉄鍬。円筒埴輪、朝顔形、盾形、蓋形、家形埴輪などが出土する(5)。
江田船山古墳出土の須恵器と埴輪
これらのうち、特に時期の判定で注目されるのは須恵器と埴輪である。これらは鉄刀銘とは対照的に他の古墳や集落でも出土する確率の高いものであるから、相互の集団、時期の関係を知るには重要である。
まず、須恵器は報告ではTK二〇八型式(6)とするが、疑問を感じる。高坏の口縁端部が内傾すること。受部上面が水平ではあるが、下部は体部から一体性が強いこと。脚裾の上端があまり突出せず、断面がくの字形気味に折り返すこと。などの特徴から、遡ってもTK二三型式である。また、甕口縁部についても高坏脚裾部の特徴を持つ。
一方、埴輪については外面二次調整ヨコハケには、ハケ工具を器面からはなさずに止めながら一周するB種が散見される。この出現率は一〇パーセントほどである。
細片が多くB種のさらに細かい種類は分からないが、ハケ動作が波打っていたり、凸帯間を充分に一周のヨコハケで埋め切れていないことからすれば、ハケ工具の幅は狭かったものと判断できる。またタテハケは上半部がナナメになる傾向があるとともに、動作のストロークが長い。体部から口縁部にかけては全体に上に向かって外側に開き気味で、口縁部付近でさらに外湾気味に開く。目縁端部は強く凹線気味にへこむが、上下にはあまり拡張されない。凸帯は低平な断面M字形のもので比較的均質であるが、タテハケが多いということと、ヨコハケ工具との関係においても、凸帯の貼りつけばやや不安定で波打ったものが散見される。基底部は全体に厚く、裾が外側に踏ん張り気味であるが、基底部下半に乾燥状態の粘土帯の輪台を置くことがよく観察できる。焼成は窖窯によるものである。
これらの円筒埴輪の諸要素の特徴から、大阪府古市古墳群の編年を照らし合わせると、仲哀陵古墳(7)の段階に併行する(8)。また、この段の埴輪群の範囲に稲荷山古墳も含まれることになる(9)(挿図1、2参照)。両者とも原体幅の狭い少量のB種ヨコハケと形態も一致する。
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挿図1
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挿図2 |
一方、伝稲荷山古墳出土の須恵器高坏も江田船山古墳の出土のものと類似する。前者の方に下部が体部から一体性と脚裾をくの字形に折り返すといった新しい傾向が強く、やや新しくTK二三ないし、四七型式に含まれる。先のことから、両者ともTK二三、四七型式の範囲の中で型式的には確実におさまり、埴輪の所見からも後者に含まれる。
江田船山古墳出土鉄刀の占める位置
以上こうしてみると、関東、近畿、九州と分かれたこの三古墳の築造が共通した時期に位置づけることができるといえよう。
このことはワカタケルと象嵌された鉄刀、剣を出した二古墳がそれほど長期間の保有を経ないで、共通した世代で副葬されたことを考えさせる。そして、当該期は須恵器の大きな変化の直前にあるとともに、埴輪の方もまたほとんどのものがB種ヨコハケを欠落させ、次の段階にはいる直前である。さらに、古墳の内部主体も次の段階で多くが竪穴系のものから横穴式石室に変化し、多くの古墳の墳丘規模が縮小する。これは総じて、中期末から後期古墳への大きな波である。
こうした変化は、五世紀の間続いた倭の五王の中国への交渉の断絶と、次の新たなる古墳の変化と無関係であるとは考えられない。
倭王武になってみられる巧みな宋への上表文と、これら鉄刀、剣にみられる文字との関係もとても無関係とは思えない。
視覚的な物量の威圧、軍事的色彩の強かった五世紀の支配方式の中にあって、文字による同方式の転換、萠芽を江田船山古墳出土の鉄刀はより如実に示しているのだろう。
(一瀬和夫)
【註】
(1)東京国立博物館『保存修理報告書江田船山古墳出土国宝銀象嵌銘大刀』、吉川弘文館、一九九三年[本文へ戻る]
(2)岸俊男、田中稔、狩野久他『埼玉稲荷山古墳辛亥銘鉄剣修理報告書』、埼玉県教育委員会、一九八二年 [本文へ戻る]
(3)大庭脩「五世紀の東アジアと国際情勢」『仁徳陵古墳−築造の時代』、大阪府立近つ飛鳥博物館、一九九六年 [本文へ戻る]
(4)本村豪章「古墳時代の基礎研究稿−資料篇(二)」『東京国立博物館紀要』第二六号、一九九一年 [本文へ戻る]
(5)熊本県教育委員会『江田船山古墳』(熊本県文化財調査報告第八三集)、一九八六年[本文へ戻る]
(6)田辺昭三編年による型式名。『須恵器大成』、角川書店、一九八一年。田辺氏はこの著作の中で江田船山古墳出土の東京国立博物館蔵のものについて蓋坏は日本の須恵器の系列からすれば特異な形態のもので、朝鮮陶質土器にしばしば類例を見るとする。また、壼についても同種のグループに扱い、それらは五世紀末から六世紀前半に属するとする。[本文へ戻る]
(7)笠野毅「仲哀天皇陵外構棚設置区域の事前調査」『書陵部紀要』第二五号、一九七四年[本文へ戻る]
(8)一瀬和夫「古市古墳群における埴輪群の変遷−大型古墳を中心として」『究班』(埋蔵文化財研究会十五周年記念論文集)、一九九二年[本文へ戻る]
(9)今泉泰之他『埼玉稲荷山古墳』、埼玉県教育委員会、一九八〇年[本文へ戻る]
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