この剣は、昭和四三年に風土記の丘整備の一環として、埼玉県教育委員会により発掘調査された稲荷山古墳の礫槨から出土した。 稲荷山古墳は、埼玉県の北部、利根川と荒川に挟まれた台地上に立地する埼玉古墳群中にある。埼玉古墳群はすでに消滅した古墳を含めると総数約五十基の古墳群で、中心となる地域には南北一キロ、東西五〇〇メートルの範囲に、全国一の規模を誇る円墳である丸墓山古墳(直径一〇五メートル)のほか、八基の前方後円墳が密集している。 稲荷山古墳の前方部は、昭和一二年の採土工事により消失し、後円部しか残されていないが、全長一二〇メートル、後円部径六二メートル、後円部高一一・七メートル、前方部幅七四メートルの前方後円墳で、後円部頂上から礫槨と粘土槨の二つの埋葬施設が発見された。また、方形に巡る二重の堀の存在が確認されている。 礫槨からの出土遺物は、金錯銘鉄剣・剣・直刀・鉾・刀子・鉄鏃・桂甲等の武具、環状乳画文帯神獣鏡・硬玉製勾玉・銀環・帯金具等の装身具、轡・壷鐙・鞍・鈴杏葉・三環鈴・雲珠・辻金具 等の馬具、鉄鉗・鉄・鉄斧・鑷子・凝灰岩製砥石等の工具がある。粘土槨はすでに盗掘されており、剣・直刀・鉄鏃・桂甲・轡・辻金具・鎌等の破片が僅かに出土している。これら埋葬施設からの出土遺物は昭和五八年六月六日に「武蔵埼玉稲荷山古墳出土品」として国宝に指定されている。他に堀から巫女・武人・人物・弾琴・家形・盾形・馬形・猪形・円筒・朝顔形円筒等の埴輪が出土している(1)。 さきたま資料館では、昭和五三年に稲荷山古墳出土の金属器の保存処理を財団法人元興寺文化財研究所に委託した。研究所員によるクリーニング作業中に金線の露出する部分が発見されたため、X線透過試験を行った結果、百十五の漢字からなる金象嵌が発見された。 文字の遺存状態は、銹による分離や凹凸があるものの良好で、欠落している部分は、表の一文字目(以下表一と略す)の「辛」の八画目の先端部分、裏四の「加」の二画目の先端部分、裏五三の「吾」の三画目の先端部分、裏五七の「原」のがんだれ部分と点だけである。 金象嵌されている銘文は、字数の異なる表(五十七文字)と裏(五十八文字)を文字の大きさを変えたり、字間を調整して割りつけ、切先の丸みの残る部分から関の上一センチの間の五六センチの間に刻まれている。文字の特徴として、例外も見られるが、多くは右上がりで、字の屈曲部分の角を丸くしている。 刀身の金象嵌の製作工程は、次のように作られたものと考えられている(2)。
模型は銘文を表出した状態を可能なかぎり忠実に再現したもので、保存修理後の本物の鉄剣は表面に樹脂膜がかけられており、全体的に光っているが、模型では艶を消し、金象嵌を強調している。 読み下し文には諸説があるが、一般的には次のように考えられている(3)。 釈文
大意は、辛亥の年七月中に記したことを述べ、乎獲居臣の祖先である意富比から乎獲居臣までの八代の系譜を示し、代々大王の親衛隊の長として仕えていたことと、乎獲居臣も獲加多支鹵大王が斯鬼宮にいたとき、天下を治めるのを補佐していことから、その記念として何回も練り直した立派な剣を作り、獲加多支鹵大王に仕えている由来を剣に刻むという内容である。 銘文には解釈の上で問題となる部分がいくつかある。「辛亥年は何年か」、「乎獲居臣は東国に派遣され土着した畿内の有力豪族か、当地の有力豪族で、大王家に服属していた豪族か。また、稲荷山古墳の被葬者か被葬者に生前下賜した人物か」、「意富比は古代豪族の阿部氏・膳氏らの共通の始祖で、古事記や日本書紀にみえる大彦命と同一人物か架空の人物か」、「人名に付けられている臣・足尼・獲居等と古代の身分制度との関係」、「獲加多支鹵大王は大泊瀬幼武(オオハツセワカタケ)とよばれる雄略天皇なのか」、「斯鬼宮とはどこにおかれた宮なのか」などについては多くの説がある。 稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣と同時代の金石文には、吉祥句が含まれていることが多いが、金錯銘鉄剣は吉祥句を含まず具体性に富む内容であり、五世紀代の日本の歴史を書いたものでは最高の資料で、研究史上でも非常に画期的な発見であった。熊本県玉名郡菊水町大字江田所在の江田船山古墳出土の七十五文字を銀象嵌した鉄剣に記される内容と合わせ、五世紀の末に大和政権の勢力が東は関東地方、西は九州地方に及んでいたことが想定できる。 (宮 昌之)
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