前田侯爵家の西洋館

—天皇を迎える邸—

木下 直之




懐徳館

 東京大学総合研究博物館の玄関に向かって左手奥に、建物を囲むように彎曲した塀が残されている。かつての前田家本郷邸の車寄せに面した塀の一部である。このほかには、本郷邸の痕跡を伝えるものといえば、塀の向こう側に広がる庭園と博物館増築時に発掘された建物の基礎部分(博物館の正面に保存)ぐらいしかない。

 昭和十一年に撮影された航空写真に屋敷の全景が写っており、現存する大学の医学部一号館、理学部二号館と比べると、その規模の大きさがよくわかる。一号館、二号館ともに地上四階建てだが、それらの高さに、前田邸の二階建ての西洋館が匹敵している。写真ではわかりずらいが、西洋館の背後に接して建つ和館も見える(1)(図1)。


図1 旧前田侯爵邸(東京大学大学史史料室所蔵写真、昭和11年撮影)

 西洋館は玄関を西に向け、南の庭園に面しては、一階二階ともに列柱とアーチを擁した広いバルコニーを構える。現存する車寄せの塀が南側のものであることはわかるが、さて、その玄関までのアプローチは、先の医学部一号館と理学部二号館の間を通り抜けねばならず、奇妙なことになる。

 実は、この航空写真が撮られた昭和十一年には、西洋館も和館もすでに前田家の手を離れていた。明治四年に加賀藩上屋敷の大半が文部省用地となり、東京大学の建設が進行する中で、前田家はその南西の一角(敷地約一万二千六百余坪)に屋敷を構えていたのだが、大正十五年になって、大学と前田家との間で土地交換が行われた。大学が代わりに提供した土地は駒場の農学部敷地(約四万坪)と代々木演習林(約一万一千五百坪)であった。この時、本郷敷地内の建物も、公用に供し記念として永遠に保存するという約束の下で、合わせて大学に譲られている。

 昭和四年に、前田家の新しい屋敷(現在の都立近代文学博物館)が駒場に完成した。本郷邸の西洋館がルネサンス風であったのに対し、駒場邸には、武蔵野の面影を残した田園地帯にふさわしいイギリスのカントリーハウス風のデザインが採用されている。翌年には、迎賓館として和館が併設された。西洋館が迎賓館であり、和館で日常生活が営まれた本郷邸と、和洋式の関係が逆転していることが興味深い。おそらく、これは当主前田利為の長い滞欧生活(大正二〜五年、同九〜十二年、昭和二〜五年)と無関係ではない。

 一方、大学は関東大震災からのキャンパス復興計画の中に、前田家から譲られた敷地を取り込んでいた。医学部一号館も理学部二号館も、この新しい敷地内に、それぞれ昭和六年、九年に竣工した。先の航空写真で、西洋館へのアプローチがこれらふたつの建物の間を縫うようになっているのはこのためである。また、この時に、和館が西洋館の北側から東側に移設されている。

 西洋館は、大学が震災復興事業に追われる中で放置されてきた。むろん震災の被害を受けている。昭和八年になって前田家から補修費二万円の寄付があり、これを受けて修復工事が行われ、昭和十年にようやく階下のみの使用が可能になった。同時に、『論語』の「君子懐徳」から採り「懐徳館」と命名された。しかし、惜しくも、昭和二十年三月十日の東京大空襲で灰燼に帰してしまう。

 ちなみに、現在の懐徳館は、大学の迎賓館として、昭和二六年になって新たに建設された木造建築である。外観に往時の和館の面影を反映させ、基礎には西洋館の石材を使用したという。庭園も改変されている(2)


前田侯爵家本郷邸 図2,3,4



図2 本郷前田邸洋館全景(『建築雑誌』263号より転載、明治40年竣工時撮影、図3-4も同様)


図3 本郷前田邸洋館2階婦人客室


図4 本郷前田邸洋館2階広間

 本郷邸の新築は、前田宗家第十五代侯爵利嗣の遺志であった。利嗣はすでに明治三二年にこの件を前田家の家政評議会に諮り、了解を得ていた。三年ほど前から病に冒されていた利嗣は、翌三三年に旧七日市藩前田家第十二代利昭の五男茂を養子に迎えると間もなく世を去った。茂は利為と改名、前田宗家を継承した。まだ十六歳であった(3)

 利為は明治三五年に改めて本郷邸新築を家政評議会に諮り、その年のうちに建設工事が始まった。竣工は明治三八年を予定していたが、日露戦争が勃発したために工事を一時中断し、和館は同三八年末、西洋館は四十年末にそれぞれ竣工した。和館の設計は海軍技師北沢虎造、西洋館が同じく海軍技師渡辺譲が担当している。

 『建築雑誌』第二六三号(明治四一年)に「前田侯爵邸建築工事概要」が載っており、西洋館内部の詳細がよくわかる(4)。それによれば、「総建坪二百一四坪一合〇九才」、地階には喫煙室、転球室、厨房、庖丁詰所、食器洗場、皿置場、食料置場、石炭置場、取次人詰所、倉庫、温水機械室、一階には玄関、広間、脱帽室、応接室、小客室、客室、食堂、配膳室、便所が、二階には広間、夫人室、婦人客室、書斎、図書室、寝室、化粧室、浴室、便所、従者室などを擁していた。

 「建築費約十九万五千円余」であるのに対し、「装飾費は家具費食器費を含有し約十一万円」であったことに注目しておきたい。建物の装飾として、のちに述べるように西洋絵画が大きな役割を演じるからだ。

 ところで、前田家が侯爵位を受けたのは明治十七年公布の華族令による。華族制度そのものは明治二年の版籍奉還と同時に始まった。公卿と諸侯が廃され、一括して華族という名の特権階級が誕生したのだが、華族令はそれを公・侯・伯・子・男の五段階に分けたのである。発足時に四百二十七家(うち公卿百四十二家、諸侯二百八十五家)あった華族が、華族令による叙爵時には五百九家に増えていた(5)。伊藤博文や山県有朋のような国家に勲功ある者もまた、士族から華族に昇格したからだった。華族はすべて東京在住を命じられ、皇室の藩屏たることが求められた。

 このように序列化された華族にとって、西洋館の建設は家格を示す格好の事業となった。青木信夫氏の研究によれば、華族の西洋館建設は、皇族が示した先例(たとえば明治十七年に相次いで竣工した有栖川宮邸と北白川宮邸)に続くかたちで、明治二十年前後から徐々に出現し始める(6)。その大半は和館を伴設し、日常生活はむしろ和館で営まれ、西洋館は迎賓館として用いられた。旧大名家の華族では、次のような作例がある。

 
明治二二年
 
小笠原忠忱伯爵邸 木造二階建
 
カウフマン設計
 
明治二五年
 
鍋島直大侯爵邸 煉瓦造三階建
 
坂本復経設計
 
明治二六年
 
細川護成侯爵邸 木造二階建
 
片山東熊設計

 前田侯爵家の本郷邸新築もまさしくこうした流れの中にあった。華族が皇室の藩屏であるならば、迎賓館たる西洋館に迎えるべきもっとも重要な人物は天皇にほかならない。

 明治四十年末に竣工させたあとも、利為は西洋館を用いなかった。内部装飾も庭園も完成させていない。明治四二年十一月十四日にイギリス陸軍のキッチナー元帥が本郷邸を訪問した時、同行した宮内大臣岩倉具定に前田家家政相談役早川千吉郎は「前田侯爵家ガ西洋館ヲ開カザルハ、行幸ヲ仰ギ奉リタキ内願アルニヨル」と伝えていた。さらに利為は早川を宮内大臣邸に派遣し、正式に願い出た。

 これを受けて、年が開けた一月十一日に、宮内省より行幸の内示があった。時期は四月か五月と伝えられた。この日、利為は日記に次のように書き付けている。「噫!! 何タル光栄ゾ。陸下此ノ二十年間絶エテ臣下ノ居宅ニ臨幸ノ儀ナク、且某華族ノ出願アリシトキモ御許容ナカリシト承ハルニ今前田家ニ対シ此ノ優渥ナル御諚ヲ賜ハル(7)」。

 青木信夫氏は、華族の西洋館建設と行幸とが密接に関係していたことを指摘する。行幸は西洋館建設に正当性を与える重要な契機となったという。

 江戸時代にも行幸御殿はあったし(たとえば後水尾天皇を迎えるために京都二条城二の丸に建設された御殿)、さらに大名にとっては、将軍を迎えるために建設する御成御殿が比較的身近なものとしてあった。これらの延長線上に、行幸御殿としての西洋館があるといえるだろう。

 明治天皇の個人邸への行幸は合計六七回を数える。行き先は皇族か華族の邸に限られた。このうち、旧大名家への行幸は二四回である。

 前田家は、すでに利嗣の時代、明治十二年四月十日に天皇を迎えている。しかし、この日の天皇は王子抄紙工場視察の帰途に本郷邸を休憩所としたのであり、利嗣にしてみれば、天皇をはじめから本郷邸に迎えることが宿願となった。

 明治二十年代には、旧大名家に限っても、明治二十年十月三一日の徳川家達公爵邸、同二四年十一月十六日の池田章政侯爵邸、同二五年七月九日の鍋島直大侯爵邸、同二七年十一月六日の浅野長勲侯爵邸、同二九年十二月十八日の徳川篤敬公爵邸への行幸がある。明治三二年に本郷邸新築を決意したことには行幸を望むという意味があった。

 「陸下此ノ二十年間絶エテ臣下ノ居宅ニ臨幸ノ儀ナク」という利為の日記はいささか筆が滑ったにせよ、確かに行幸は明治二九年以来久しく途絶えていた。前田侯爵家への行幸が実現すれば、実に十四年ぶりということになる。

 準備はまず先の鍋島侯爵家(直大の長女が利嗣に嫁ぎ前田家とは縁戚関係にあった)のほか、井上馨侯爵家(明治二十年四月十六日行幸)と土方久元伯爵家(明治二六年六月二日行幸)から行幸記録を借用し、参考にすることから始まった。そして、一月のうちに次の十五の準備業務が決められた。

 西洋館装飾、日本館装飾、設備(能楽余興場、写真撮影、根岸土木工事、庭園造築)、献上品並びに贈進品、旧領民戦歿者写真帖作製、用度品、献上御食事、庶務、御料馬並びに儀仗兵設備、会計、内外諸賄、蔵品陳列、余興、撮影、臨時要務。

 とりわけ、西洋館の内部装飾と庭園造築が難事だった。四月か五月の行幸となれば、十分な時間があるとはいえない。しかし、これらふたつの仕事は、この時のためにこそ竣工後も手を付けずにきたのである。

 造園は、前田家の庭師を務めてきた二代目伊藤彦右衛門に任せられた。伊藤は、前田家根岸別邸の庭園の材料を主に転用し、四月中に完成させた。滝がつくられ、五月には京都鴨川から取り寄せた河鹿蛙数十匹を池に放った。さらに、六月に入ると蛍二万匹を放っている。

 一方の西洋館の内部装飾ははるかに困難だった。西洋館を設計する日本人建築家がようやく登場してきた時代であり、室内装飾の技術者はまったく不足していた。また、西洋館の装飾に油絵が不可欠だという認識はあったものの、良質の油絵、とりわけ本場西洋の油絵の調達は容易なことではなかった。

 前田家は室内装飾学を学んでフランスから帰国したばかりの野口駿尾に装飾を依頼した。それが一月二九日で、二月八日には早くも、後述するように林忠正旧蔵の西洋絵画コレクションの中から二四点を一括購入することができた。作品選択には、野口のほかに黒田清輝が関与している。さらに、東京美術学校教授の沼田一雅に石膏製の武将像二体の製作を依頼し、これらも五月三十日に完成した。

 あとは行幸を待つだけとなった。


行幸と西洋館装飾

 明治四三年七月八日、明治天皇は午前十一時十二分から午後五時五七分まで前田侯爵家本郷邸に滞在した。

 邸の中で天皇が目にしたものは、この日のために利為が描かせた日本画(川端玉章「花鳥の図」、荒木寛畝「松林山水の図」、竹内栖鳳「瀑布の図」、山元春挙「保津川の図」)、能楽と狂言(桜間伴馬「俊寛」、野口政吉「熊坂」、梅若六郎「土蜘」、山本東次郎「二九十八」、野村万造「鞠座頭」)、前田家伝来の宝物(西洋館二階の各室および和館奥小座敷に文書や太刀などが陳列され帝室博物館総長股野琢が説明役を務めた)、薩摩琵琶の演奏(西幸吉による「小楠公」「金剛石」)などであった(8)

 和館の一室には、画家の荒木寛畝、竹内栖鳳、福井江亭が詰めており、天皇が画題を与え、それに応じてそれぞれが「竹鶏図」、「月兎図」、「犬図」を描くという席画の趣向もあった。そして、仕上がったそれらを天皇は気に入り、先の寛畝、栖鳳の作品と合わせて持ち帰った。

 余興の中心は能楽であり、午後二時から四時までのおよそ二時間が費やされている。そもそも前田家は江戸時代から宝生流の能楽を厚く庇護し、明治維新以降も能楽復興に力を尽くしてきた。復興の拠点となった明治十四年の芝能楽堂建設には、前田家第十三代の斎泰が中心的な役割を果たしている。本郷邸の能舞台もまた、行幸に向けて、百二十余日の時間と二万一千二百円の費用をかけて新たにつくられたものであった。鏡板の松を川端玉章が描いている。

 能楽はいうにおよばず、席画にせよ琵琶演奏にせよ、当日の余興はパフォーマンス性が非常に高い。庭園でさえ、滝を落とし、河鹿蛙や蛍を放つなど、動きのある演出が凝らされている。

 考えてみれば、行幸とは天皇が単にある場所を訪れるというだけのことであるから(何かを行うためにそこを訪れるわけではない)、受け入れる側がさまざまな余興を用意しなければならない。それに加えて、挨拶や食事や贈答(下賜と献上)などの儀礼は、いわば逸脱を許されないパフォーマンスの連続であった。ちなみに、利為が参考にした鍋島直大侯爵邸への行幸時には、撃剣、相撲、手品、講談などの余興が用意されている。

 その一方で、同じくこの日のために用意された西洋絵画については、『明治天皇紀』にも伝記『前田利為』にも一切の言及がないのはどうしたわけだろうか。まるで影が薄い。

 おそらく、ひとつの理由は、それらが西洋館に不可欠ではあるがあくまでも調度品として見なされていたからだろう。いずれも買ったばかりの品であり、前田家伝世品として陳列に値する宝物ではなかった。

 しかし、さらに重要なもうひとつの理由は、西洋絵画を鑑賞するというパフォーマンスが、行幸のような場ではまだ十分に儀礼化されていなかったからに違いない。明治四十年に開設された文部省美術展覧会の開催が回を三度重ねたところである。展覧会場を訪れて油絵を鑑賞するというスタイルがようやく定着を始めたばかりだった。

 利為は、この日の行幸を記録した絵巻『臨幸画巻』の制作を下村観山に委嘱した。それは昭和六年になって完成する。その「鳳」の巻には、玉座にある天皇が右手につかんだ太刀を眺めている姿が描かれているが、これなどはまさしく『明治天皇紀』が、家宝観覧のあと、「就中大伝太の太刀は特に叡意を惹き、便殿に入御の後、後藤祐乘作刀剣小道具優秀品と併せて之れを齎さしめ、更に叡覧あらせらる」と特記する場面を描いたものだろう(資料105)。それはすでに定型化された鑑賞の身振りであり、パフォーマンスである。したがって、それをこのように絵画化することも言語化することも容易であった。逆に、西洋絵画を鑑賞する様子を描いた絵は、まだ登場の段階にはなかったといえるだろう。

 しかし、間違いなく、二四点の林忠正旧蔵の西洋絵画は西洋館の壁を飾り、天皇の目に映ったはずである。西洋絵画購入代金三万円の支出を審議する家政評議会の記録は、いささか緊迫した様子を次のように伝える。

 
「予備財産現金支出ノ議
 
一、金参万円也、油絵二十三枚購入代
右ハ、故林忠正(富山県人)渡欧中蒐集セル得難キ油絵集ニシテ、且西洋館装飾ニ最モ適当ノ品ナルニ付、至急之ヲ購入セント欲ス、若シ此機ヲ失シ一旦散逸スルトキハ、容易ニ収拾スヘカラス、依テ本項金額ニテ之ヲ購入シ、西洋館ノ装飾ニ充テント欲ス、
右評議会ノ審議ニ付ス、
 明治四十三年二月
右異議無之候也」

 (『評議会録』A十五、明治四十三年二月、評第八号(9)

 「油絵二三枚」とあるのは、おそらくルブールの「河景」二点一組を一枚と数えたからで、このほかに、林の遺族からサン・マルセルの「獅子」一枚が前田家に寄贈されている(10)

 『評議会録』にもあるとおり、林忠正は越中国高岡の出身、前田家にすれば郷土の人である(高岡は加賀藩の領地だった)。明治十一年にパリに渡り、起立工商会社、三井物産勤務などを経て美術店を開き、日本の古美術品や浮世絵のディーラーとして活躍した。明治三三年のパリ万国博覧会では、臨時博覧会事務官長に抜擢され、大規模な日本古美術展を成功させている。

 その一方で西洋絵画を蒐集し、日本への紹介にも務めた。明治二二年に明治美術会が結成されると賛助会員となり、帰国中だった翌二三年五月の例会で講演を行い、会員に向かって西洋絵画の技術習得の重要性を説いたことはよく知られている。また、この年の秋に上野公園の華族会館で開催された明治美術会第二回展覧会には、ルソーやミレーなどバルピゾン派の絵画を参考出品している。さらに、明治二六年の第五回春季展覧会でも、コローやシスレーなどの印象派の絵画を公開した(11)

 明治三九年に没するまで、林は西洋絵画コレクションをほとんど手放さなかったといわれる。明治四一年一二月になって、林の甥の長崎周蔵がコレクションから優品を選び、油絵百点、水彩・素描六八点、版画二三点の図版を掲載して『林忠正蒐集西洋絵画図録』(非売品)を刊行し、コレクションの全貌が明らかとなった(12)

 定めし、垂涎のコレクションであったに違いない。それからほぼ一年後に、前田家はそこに掲載された油絵の四分の一を手に入れたことになる。この機を失するわけにはいかないとした家政評議会の判断は当然であった。

 なかでも大作は、図録の冒頭に掲げられたラファエル・コランの「緑野ニ於ケル三美人」(現在は「庭の隅」と呼ばれる)だろう(図5)。いうまでもなくコランは黒田清輝の師であり、購入に関与した黒田が選択から外すはずはなかった。ただ、コランの作品といえば圧倒的に裸体画が多い中で、この絵では衣服を着た三人の若い女性が草むらに横たわっている。着衣であることがコランらしからぬと、パリでの最初の発表時にも話題になったという(13)


図5 ラファエル・コラン「庭の隅」(財団法人前田育徳会蔵)

 もし、彼女らが裸体であったなら、前田家はそれを天皇に見せることを憚ったに違いない。実際に、林忠正コレクションには海辺で十人の裸婦が舞い踊るさらに大作の「海辺裸体美人踊」(現在は「海辺にて」の名で福岡市美術館が所蔵する)があり、こちらを購入するという選択肢もあったからだ。

 ほかならぬ黒田清輝が、かつては西洋絵画を日本社会に根付かせるという目的で、なかば強引に自作の裸体画(たとえば明治二八年の「朝妝」と同三十年の「智感情」、前者はその後住友春翠によって買い取られ、明治三六年に竣工した神戸須磨の西洋館を飾った)を公開した人物であった(14)

 もし、天皇が裸体画を目にする場が実現していたならという空想は、明治時代における西洋絵画の鑑賞スタイルを考える上で興味深いが、問題の範囲は前田家の西洋館をはるかに超えてしまう。それはまた、「西洋館の西洋絵画」とでも題して別の機会に論じることにしよう。

 前田家は行幸記念事業として、先にふれた絵巻製作のほか、対外的には東京帝国大学に対する講座新設基金の寄付(大正元年に国史学第三講座が開設)、本郷区内の小学校に対する文庫新設資金の寄付など、また対内的には、北海道林業事業の拡充整備、行幸写真集の製作、行幸記念碑の建設などを行った。

 「臨幸記」を刻んだ行幸記念碑は、あの日の前田利為の感激を伝えて、今も懐徳館の庭園にひっそりと建っている。




【註】

1 航空写真は東京大学大学史史料室所蔵。展覧会図録『東京大学本郷キャンパスの百年』(東京大学総合研究資料館、一九八八年)参照。[本文へ戻る]
2 藤井恵介「本郷前田侯爵邸と東京大学」、堀内秀樹「総合研究資料館増築に伴う埋蔵文化財発掘調査の概要」(いずれも『東京大学総合研究資料館ニュース』第三二号、一九九四年)。ほかに、パンフレット『懐徳館』東京大学、発行年不明が概要を伝える。[本文へ戻る]
3 前田利為の事績については、『前田利為』前田利為侯伝記編纂委員会、一九八六年、展覧会図録『前田利為と尊経閣文庫』石川県立美術館、一九九八年を参照。[本文へ戻る]
4 「前田侯爵邸建築工事概要」(『建築雑誌』第二六三号、一九〇八年)。[本文へ戻る]
5 浅見雅男『華族誕生』リブロポート、一九九四年。[本文へ戻る]
6 青木信夫『日本近代における皇族・華族邸宅の成立と展開に関する歴史的研究』東京大学大学院工学系研究科建築学専攻提出博士論文、一九九六年。[本文へ戻る]
7 前掲『前田利為』。[本文へ戻る]
8 宮内庁『明治天皇紀』第一二、吉川弘文館、一九七五年。[本文へ戻る]
9 前田育徳会所蔵『評議会留』。[本文へ戻る]
10 前田育徳会所蔵『什器増減目録』に次の記録がある。
 明治四十三年二月二十六日、以下二十四面、林忠正氏遺族薫氏ヨリ金三万円ニテ購入(明治四三・三・一一入手)
 
 
緑野ニ三美人図(ラフハエール、コラン筆) 一面
 
 
黒衣ノ淑女半身(同筆) 一面
 
 
サントベルナール海岸ノ景(ギーユマン筆) 一面
 
 
山林ニ湖水(同筆) 一面
 
 
河岸物揚所(同筆) 一面
 
 
亜刺比亜人ニ馬(ヂエローム筆) 一面
 
 
河景(ルブール筆) 二面
 
 
洗濯婦(ブーダン筆) 一面
 
 
月夜ニ牛(エキストローム筆) 一面
 
 
牧場(ウイオレール、デユック筆) 一面
 
 
ロー子ン港ノ景(同筆) 一面
 
 
セーヌ河朝景色(同筆) 一面
 
 
日ノ出(同筆) 一面
 
 
小河(同筆) 一面
 
 
池(同筆) 一面
 
 
中古市街ノ風俗(デユモン筆) 一面
 
 
水景(ウイオール、デユック筆) 一面
 
 
親子(ウアイガン筆) 一面
 
 
ランプニ子供(黒田清輝筆) 一面
 
 
森ニ猟犬ノ群(ロッス、サノー筆) 一面
 
 
連山ノ景(ロッス、サノー筆) 一面
 
 
牡鶏ニ雛(ムリー筆) 一面
 
 
河岸(筆者不詳) 一面
 
明治四十三年二月、以下一面、林忠正氏遺族ヨリ侯爵様へ進献
 
 
獅子(サン、マルセル筆) 一面[本文へ戻る]
11 展覧会図録『フランス絵画と浮世絵〜東西文化の架け橋林忠正の眼』高岡市美術館ほか、一九九六年で林忠正旧蔵の西洋絵画が紹介されている。[本文へ戻る]
12 長崎周蔵翻訳及編纂『林忠正蒐集西洋絵画図録』、一九〇八年。[本文へ戻る]
13 三谷理華による作品解説「庭の隅」(展覧会図録『ラファエル・コラン』福岡市美術館ほか、一九九九〜二〇〇〇年所収)。[本文へ戻る]
14 田中淳『明治の洋画、黒田清輝と白馬会』至文堂、一九九五年に「須磨の美術園〜近代美術館としての住友家須磨別邸」という論考がある。[本文へ戻る]
 本稿を為すにあたり、前田育徳会菊池紳一氏、東京大学藤井恵介氏、三浦篤氏、東京国立文化財研究所田中淳氏、山梨絵美子氏、福岡市美術館三谷理華氏から御教示を得た。記して感謝の意を表する。




資料105 「臨幸画巻」(鳳)
 下村観山画、財団法人前田育徳会所蔵。明治43(1910)年7月の行幸啓記念事業のひとつとして制作された。麟・鳳・亀・龍の4巻からなる。前美術学校校長岡倉天心を顧問とし、下村観山に執筆を委嘱した。完成したのは昭和6(1931)年。


資料106 前田侯爵邸の西洋館基礎
 1994年2月から4月にかけて、総合研究資料館(現総合研究博物館)の増築に際して、博物館の東側隣接地の発掘調査が実施された。その結果、煉瓦積みの基礎と地階部分が大変に良好な状態で出土した。コンクリートを三段に重ね、さらに煉瓦を乗せて基礎を作る。外壁には基礎上端より90cmまで厚さ2cmほどのタール状の物質が上塗りされていた。
 この重厚な基礎部分をそのまま廃棄するには惜しまれたために、4×6mほどのブロックを切り取って、地上に取り上げ、総合研究資料館のアプローチに置いて保存することになった。これ以外に見事な壁面も発見されて掲示版にでも活用できないかと検討されたが、それは果されず解体破棄された。
 これによって、かつての本郷の近代の前田侯爵邸に関わる痕跡は、博物館前のブロック、現在の懐徳館庭園を除けば、総合研究博物館南側の円弧の塀と懐徳館庭園につうじる門だけとなった。(藤井恵介)

【参考文献】
藤井恵介「本郷前田侯爵邸と東京大学」・堀内秀樹「総合研究資料館増築に伴う埋蔵文化財発掘調査の概要」(『総合研究資料館ニュース』三二号)一九九四、東京大学総合研究資料館



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