凶器や毒薬、あるいは替え玉、偽造文書といった数々の小道具によって構成される、人を震撼させるような犯罪行為おのれの欲望と快楽を満足させるためには、いかなる手段もいとわない、知略と行動力にたけ、妖艶な姿態、性的魅力に恵まれた女。<毒婦>ということばから人がイメージするのは、およそこういったところだろうか。
実際には、私たちの多くが彼女と交渉をもったことがあるわけではない。それにもかかわらず、そのイメージが妙に具体的で鮮明なのは、私たちが自らの好奇心や恐怖心によって生み出したおびただしい<毒婦の物語>に取り囲まれているからだ。数々の男を惑わし破滅させるのはいかなる女なのか。彼女の物語が、その悪行だけでなく、魅力さえも語ってしまうのは、怖いものみたさに通じるアンビヴァレントな欲望というものだろう。
富や力あるいは異性などなど、男の欲望を掻き立てるものは女にとっても同じである。異なるのは、欲望の追求がときに英雄的行為として賞賛される男に対して、欲望をあらわにした女には懲罰が待っているというところだろう。人は一方で、そうした女に対する恐怖や嫌悪を感じるとともに、他方では彼女に誘惑されてみたい、あるいはそのような魅力を分かち持ってみたいというひそかな欲望や憧憬を抱いている。自らが隠し持つ欲望に対する社会的、道徳的な嫌疑を欲望の対象になすり付け、欲望を抱いた自己の代わりに処罰する。つまるところ、<毒婦の物語>とは、<処罰の物語>なのであった。
文学史にいわゆる「毒婦物」というジャンルが成立したのは明治初期のことであるが、これはたんに文学という浮世の外の閉じられた世界における出来事ではない。小新聞と呼ばれる大衆紙には、創刊まもない時期から三面記事的事件を潤色し数日にわたって報道する記事が登場していた。明治一〇年代になるとそれは「つづき物」と呼ばれる長期の連載記事となり、ほとんど同時に草双紙として出版され、さらには演劇や歌謡などの世界へも広がっていった。「毒婦物」とは、これらのうち女性によって現実に引き起こされた事件を核にして、虚実の境界線上を行き来しながら、「実」を燃料に「虚」へと向かって推進する物語をいう。
もちろん、近代以前に<毒婦>の物語が存在しなかったわけでも、また現実の事件に取材した物語が語られなかったわけでもない。土手のお六や妲妃のお百、鬼神のお松といった女をヒロインとする歌舞伎の「悪婆物」は「毒婦物」の前身というべきものである。それはまた、心中、仇討ちなど数々の事件がかわら版から始まって、講談や浄瑠璃あるいは写本によって人々の間に広まってもいる時代であった。しかし、「近代」におけるジャーナリズムは、印刷技術や識字の向上とあいまって、圧倒的な量や速度で事件の流通を拡大させた。そしてその成熟が、物語に対して<事実>と<虚構>との間のいっそう複雑な緊張関係を強いることになったのである。
金貸し小林金平の妾原田絹が、俳優の嵐璃鶴と密通のうえ旦那を毒殺し、小塚原で斬首されたのが明治五年。新聞報道や新聞錦絵で処刑が報じられたのち六年の時間を隔てて、この事件が<毒婦の物語>として展開する背景には、明治一一年一月に刊行された久保田彦作『鳥追阿松海上新話』の好調な売れ行きがある。初め『かなよみ』紙上に掲載された「鳥追ひお松の伝」が、二ヶ月という、つづき物としては異様な長期連載のあげくに中絶して草双紙へ移行したことは、すでにこの時期に新聞紙が事実報道へと体勢をシフトさせはじめていたことを示唆する。それは他面において、「事実性」の掣肘から物語を解き放ち、虚構として増殖する道筋をつけることでもあった。
原田絹が「夜嵐お絹」という連続殺人犯に仕立て上げられた翌明治一二年、古着屋後藤吉蔵殺しの罪で高橋お伝が斬首されている。処刑という事実は、逮捕直後から紙面を賑わした事件報道に区切りをつけるどころか、新聞紙から草双紙へと飛び出した物語における虚構の度合いをさらにエスカレートさせた。仮名垣魯文『高橋阿伝夜刃譚』では、たびたび「記者曰く」としてニュース・ソースを示しつつ、それが「架空無根」の「小説作り物語」ではないことが言明される。しかし、ただ一件の殺人を確認しうるお伝の犯罪は、ここでは、窃盗、詐欺、密売春から数件の殺人および殺人未遂事件にまで膨れ上がっている。こうしたお伝の凶悪化は、起泉の『東京奇聞』においても同様であった。
つづき物、草双紙、歌舞伎と、「毒婦お伝」を語る数々の物語は、極刑の執行という結末において共通するだけで、処罰とその事由たる吉蔵殺し以外に物語を「事実」に繋留するものは存在しない。最後にそこへ着地しさえすれば、それ以前にどのような虚空へ浮上するのも自在であるかのように物語は飛翔していった。
しかしながら、このような事実報道の虚構化は、裁判制度や出版条例などの法整備によって、歯止めがかけられることになる。お伝の死から八年後、待合茶屋酔月の女将花井梅が雇い人八杉峯吉を出刃包丁で刺殺して無期徒刑の判決を受けるという出来事が起きた。この時もお伝と同じように、さまざまなメディアが事件を報道し、つづき物が連載され、黙阿弥が事件を脚色した。しかし、判決確定以前の事件報道や上演を禁ずる法令によってつづき物は中絶し、歌舞伎は初日のめどが立たないまま、演目の差し替えが噂された。それは、「純然たる小説を別欄に登載する」ことを宣言した『読売新聞』が新聞小説の連載に踏み切った翌年のことであった。新聞紙面に虚と実との境界線が引かれる時代が到来していたのである。
お梅の芝居がようやく上演可能になったちょうどその頃、『東京絵入新聞』には「裏見富士女西行」が連載されていた。しかし、この「毒婦お吉」に物語の起点となる事件報道はない。新聞附録の「口上」で、「作者」はこの物語を静養先の大磯で耳にした「奇談」として、お吉の臨終の場所にかの地の西行庵まで引き合いに出しているが、おそらく読者にとっては、物語が事実か虚構かはどうでもよいことだったに違いない。作者の四世中村福助(のち五世歌右衛門)は、このとき絶大な人気を誇る若手女形で、『歌舞伎新報』の雑録には、しばしばその動向が報じられていた。その人気たるや、大磯で療養中、海水浴に茜染めの肌着を用いたところ、逗留客がことごとくその真似をして、たちまち布地が売り切れたという逸話が残るほどであった(伊原敏郎『明治演劇史』)。
読者の興味が物語それじたいというよりは、作者のほうへと向けられていることは、新聞付録の錦絵、つづき物の挿絵、はたまた単行本の表紙を見れば一目瞭然だろう。新聞つづき物としての<毒婦の物語>が終焉を迎えたのちに現れたこの物語では、<ニュース>はもはや「毒婦」の事件ではなく彼の人気であり、読者が欲しているのは「毒婦」を語る物語ではなく、福助が語る物語なのであった。
それでは、いまや<毒婦の物語>は死滅したのだろうか。いやそうではあるまい。お伝とお梅の物語はなおも再生産され続けている。毒物殺傷事件の容疑者とされる女性が「平成の毒婦」と呼ばれる例を目にしたのはついさき頃のことではなかっただろうか。<毒婦の物語>が誕生してから百数十年、二十世紀も終ろうとしている今、私たちは<毒婦>の事件にどのような物語を欲望しているのだろうか。