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[ニュースという物語]


鳥羽伏見の戦い(仮)

慶応四年(一八六八)一月三日
慶応三年一〇月一三日徳川慶喜は大政奉還した。しかし、辞官、納地の処置をめぐり、討幕派と公武合体派にわかれ、朝議が紛糾した。公武合体派に傾きかけた体制を武力討幕へ導くべく、江戸の薩摩藩邸では謀議が凝らされ、挑発された幕府側が、一二月二五日薩摩藩邸に焼き討ちをかけた。これが決定的となり、武力対決への口火が切られた。このかわら版は、鳥羽伏見の闘いを、関が原の合戦になぞらえて伝えるもの。以下の四点はこの政変をすべて鳥羽、伏見、大坂の大火としてのみ伝える。

鳥羽伏見の戦い(仮)

{画面は上下二段に分割。さらに上段は三分割、下段は四分割}
{上段右はしんさいはし(心斎橋)からえひすはしすし(戎橋筋)の図。
見せ物小屋がある}{枠内左下方}
正月七日夜八ツ時
大坂なん
ばよりなんばしんちやける
家かす凡二百五十焼失
鳥羽伏見の戦い(仮)
図192
{上段中}
さかい大火
むかし神明ノ丁ノ
大火トいへとも
此度ノ大火ハ
さかいはしまつてノ
大火也
辰正月七日
夜ハ八ツ時よしさノ丁より
出火あやノ丁大道
西は中はままで
東ハのうにん丁まで
やけぬける
{上段左}
大阪御城
正月九日
卯ノ刻御城
筋がね御門ノ内
火ノ手上ル次ニ京ばし御門内
夫より玉造御門外小家
夫より火ノ手三ツニナル
追手門の内
火ノ手二ツニナル
十日辰こく
ゑんしようくら
ヤケル
けか人凡六百人
{下段右}
此度諸々の出火ニおどろき住処りさんの人々
其のこんさついわんかたなし夫故遠近の
ゑん者又ハ人々の心をしづめ安心のために
此画図ヲ出していささかたよりともならんかト見覧ニ備ル
{下段左から2つ目}
正月三日夜七ツ時大坂
とさほり
薩州様御くらやしき辺
同十日夜五ツ時出火
てんま与力丁出火
伏見大火次第
辰正月三日夜四ツ時いたよしより出火
薩州様やしき辺夫よりひこ様やしき辺
京ばし北つめはま通り西壱丁ばかり
みどうまへ東新丁迄御奉行所夫よりふんご
ばし迄やける▲家かす凡六百八十ヨ
      ▲けが人凡七百人ヨ
鳥羽かい道
同五日辰ノ刻とばおせきもちやより南ふたくちや
より南二丁計りよこおぢより淀迄淀城下
やける小ばし切落未ノ刻火鎮申候
▲家かず凡三百八十軒けが人二百ヨ
{下段左}(伏見の町の図) 

鳥羽伏見の戦い(仮)

鳥羽伏見の戦い(仮)
図193
人皇百九代後水尾院の御宇
慶長四年辰春惟任将軍光秀
小田春永父子賊逆の罪に依て
将軍職返上いたし本国へ
帰るべきよし勅定ありしを
幸ひとして御暇参内に事寄十万人
の大軍を操出し都を襲んと謀りしを
羽柴秀吉の加勢の官軍島津兵庫頭
義弘毛利左馬頭輝元山内猪右衛門
一豊浅野弾正長政等俄ニ
手配し中にも先陣島津勢
の加勢としても毛利勢
伏見鳥羽口に今や
おそしと待ちうけたり
然るに
閏正月
三日
未之刻
鳥羽
口の
光秀
の先陣桑山越中守
松山隠岐守等小枝橋まて
押寄島津の小勢なるをあなどり
鉄砲打かけけるを待まふけたる
島津の猛勢鉄砲打かけ煙の
下より切入けれハ一支もなく散々
に逃行ける也下鳥羽の入御陣尤
橋辺に毛利勢埋伏しけれハ敵勢の
横合より鉄砲を散々に打放せハ
何かハもつてたよるべき蜘の子を
散すかことく下鳥羽へ逃入村の
家々に火を放ちて防ぎける
是を戦の初として下鳥羽
横大路にて島津毛利の両勢
烈けしく血戦しけれハ敵の死人
山のことく敵兵さんざんとなつて
横大路の入口に火をかけ
けるが官軍直様うち消追行
けれバ敵ハ富の森村へ火を放ち
防き戦けれとも終に打負納所
に足を留る事を不得して
鉄砲大筒鑓長刀鎧丸薬
等を足の踏場もなく打捨て
散々となつて淀へ落行ける
扨伏見ハ光秀の先鋒相頭
肥後大■高松入道等二万人の
大軍をもって押寄浜側の民屋へ
鉄砲打かけ町々を焼立たり然るに
当年の官軍の先陣嶋津勢賊か
屋敷に火をかけ操出す扨又桃山近所明屋敷有けるに
光秀兼て浮浪の悪党を込め置けるが島津毛利の両勢
前より火を放ち後の方ぶん橋を切落たれハ籠の鳥のごとく
逃るあたわず不残打殺す此いきおひに乗じ嶋津毛利の両勢
血戦しけれハ敵勢伏見を追立られ淀へと落行ける然る所
相頭勢六百人計三栖の葦原に埋伏して薩州勢を遣り
過く両方より挟ミ討にせんと謀りしに薩州勢いさミ
進んて追行所を相頭の伏兵三栖より群れ出既に
後を討んとする時毛利勢かくと見るより相頭の伏兵
目がけて鉄砲打かけ煙の下より切入けれバ忽ちミぢんと
なりて逃行けるをつゞいて島津毛利の両勢
敵を淀へ追込ミ火急に攻立てけれハ淀の町へ火放ち
橋本へ逃行けるを毛利勢狐川の渡しを越て攻立
けれハはしり出焼立楠桑へ逃行けるに楠桑小倉に
「つつき」
埋伏の毛
利勢顕れ
出てさんざんに
攻立けれハ一支も
ささへず枚方さし
て逃行味方を
かぞへるに残りすくな
に相成けれハ迚も叶ず
とて枚方に火を放ち
ちりちりはらはらとなつて
大坂さして落行大坂城にも
たまりゑず同七日主従わづか
の小勢にて泉州堺へ落行
町屋へ火を放ち其ひまに
乗舟して本国さして
逃行ける秀吉方
の官軍勝時き([ママ])を作り勇ミ
進んで注進す
かかる大変なる
御混雑の中にて
伏見を
はじめ
枚方迄の
所々焼失の
窮民
朝廷より御救米
下され候と実に
君の恵ミのいと
ふかきを大海も
ものの数かと
うたひ
よろこびけるとぞ


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