錦絵新聞とは、明治七年から十年頃まで多数発行された木版の多色刷り版画で、「新聞」すなわち、新しく聞き知った出来事=ニュースを伝える文章と、「錦絵」と呼ばれた浮世絵版画が合体した出版物である。その最初は、明治五年に創刊された日刊紙『東京日日新聞』の記事をもとにした錦絵のシリーズである。本紙の題号をそのまま掲げた落合芳幾の絵による錦絵版『東京日々新聞』が明治七年八月頃に発刊されると、これにならうように月岡芳年が描く錦絵版『郵便報知新聞』、小林永濯が絵筆をとった『各種新聞図解』などが現れ、あいついで約四十種類の錦絵新聞が東京、大阪、京都などの都市で発行された。
これら錦絵新聞における様式上の特徴は、画面全体を囲む赤または紫の枠と題号を捧げ持つ天使像である。赤と紫は、開港により使用が増加した安価な輸入染料による明治錦絵に特徴的な色であり (1)、錦絵新聞では油絵の額縁やガラス窓の窓枠を思わせる囲み枠に用いられ、天使像とともに西洋を感じさせる新しいスタイルを鮮やかに強調している。その枠の中に、強盗、殺人、心中、奇談など市井のさまざまな事件が描かれる。そこには役者や芸者、相撲取りなど錦絵でおなじみの人気者も登場するが、大半は大工や人力車夫、鮨屋、織り子、女中、薬屋などの商人や職人、農夫や漁師などの市井の庶民が主人公である。開化期らしく外国人や巡査の姿も現れるが、高位高官の人物はほとんどいない。これら事件の中心人物である男女二三名が全身像で、あたかも芝居の一場面のように描かれている。こうした人物本位の絵の背景や、あるいは絵とは別の囲みの中に、二百から六百字程度の文章が添えられ、漢字にはふりがながついているのが錦絵新聞の基本的な画面構成である。
現在、現物を確認できる錦絵新聞は八百点ほどあり、そのほとんどが東京と大阪で発行されたものである。小野秀雄が指摘したように (2)、東京と大阪の錦絵新聞はいくつかの点で異なっている。まず、版の大きさがふつう東京ではB4大の大判であるのに対し、大阪ではその半分の中版である。価格も東京では一銭六厘から二銭であるのに対し、大阪では六厘である。これは東京と大阪における錦絵の生産基盤のちがいに基づくものであろう。しかし最も重要なちがいは、題と号数の付けかたで、東京では記事の引用元になっている新聞紙名とその出典号数が掲げられているシリーズが多いのに対し、大阪では錦絵新聞独自の題名とその連番が号数として記入されている連作がほとんどである。
この背景には、新しいメディアとして出現した新聞をめぐる当時の状況がある。欧米から輸入された文明の利器として「ニュース・ペーパー」を移植するにあたり、幕末から明治初期の知識人たちは「ニュース」という新たな概念を「新しく聞き知った出来事」=「新聞」と翻訳し、その物的形態を「新聞紙」と呼び分けた。例えば、慶応年間に出された『中外新聞』などの木版刷り和本形態の諸新聞は、ニュース=「新聞」を扱っていたが、近代的な形態の「新聞紙」ではなかった。活版印刷と洋紙を用いた初の日刊紙『横浜毎日新聞』が創刊されたのは明治三年で、東京では明治五年に『東京日日新聞』が創刊され、以後『郵便報知新聞』『日新真事誌』などの新聞が誕生した。だがこれらは、漢文漢語の読める知識人向けの文章で書かれており、読者も数千ほどに限られていた。つまり、かな文字が読める程度の庶民には、「新聞」も「新聞紙」もよくわからない遠い存在であった (3)。
むしろ絵草紙屋の店頭を彩る錦絵のほうが当時の庶民にはなじみのメディアであった。その主力は芝居の役者絵や武者絵であったが、風俗の流行をいち早く取り入れてきた錦絵の新たな際物として、新聞記事をもとにした絵のシリーズは試みられた。おそらく『東京日日新聞』の創刊メンバーである絵師・落合芳幾、戯作者・条野伝平、西田伝助などが、新聞とは何かを庶民に浸透させる一種の宣伝として企画したのではないだろうか。こうして東京では『東京日々新聞』のシリーズをはじめ、新聞社が発行した日刊紙の記事に依拠して、絵草紙屋から錦絵新聞が出版された。その際、新聞記事はたいてい戯作者や講談師などの手を経て読み聞かせてもわかりやすい文章に仕立て直された。
錦絵新聞が東京で評判になると大阪でも『大阪錦画新聞』『大阪日々新聞』『新聞図会』『勧善懲悪錦画新聞』などの錦絵新聞が明治八年二月頃から発行された。当時大阪には地元発行の日刊紙がなく、「新聞」と名の付く発行物は錦絵新聞のシリーズだけであった。これらは、東京発行の新聞記事をもとにするか、または独自の取材による記事で作成された。前者の方法は全体の約三割で、残り七割の投書を含めた独自取材では大阪や関西圏の話題がほとんどである。これらの文章は発行者や絵師が書いた。当時大阪を代表する絵師、二代目長谷川貞信と笹木芳瀧の二人は、錦絵新聞の絵と共に文章も多くしたためている。後の回想によれば、彼らは何か事件が起きると、錦絵新聞の絵にするために出かけたというから、今日でいえば、レポーター兼カメラマンのような活動をしていたといえよう。
こうした大阪の錦絵新聞は、一般の新聞のような情報媒体としての役割を独自に果たしていたと考えられる。たとえば、『錦画百事新聞』は隔日ないし日刊で発行され、希望者には戸別配達もおこなわれていた。また『勧善懲悪錦画新聞』には火事を伝える紙片が添付された号があり、少なくとも週刊から日刊に近い定期性と速報性を持っていたと考えられる。このような報道的性格は、東京の錦絵新聞にもあったと思われる。『東京日々新聞』および『郵便報知新聞』のシリーズでは、明治七年十一月から翌八年四月までの間は、本紙が三号から五号分発行される間に錦絵新聞が一点刊行されるという定期性が認められる (4)。つまり錦絵新聞は、ニュースとは何かもわからず漢字漢語の読めない非知識人をも引きつける、目で見る定期的ニュース媒体としてつくられていたのである。人々は絵に引かれた後、文章を読み、あるいは読み聞かせてもらって内容を知り、その行為の中で「新聞」=「ニュース」とは何かというのをおぼろげに理解したのかもしれない。
ただし錦絵新聞のニュースは、事実に基づくとはいえ、勧善懲悪という旗印の下に「官許」の正当性を得ていたのを忘れてはならない。いち早く英文で錦絵新聞を紹介した『The Far East』の記事が、倫理道徳をひろめるのが出版者のねらいであると記したように (5)、錦絵新聞に取り上げられた話題は、庶民に身近な市井の事件であり、その文章にはしばしば教訓めいたことばが添えられた。たとえば、色恋の事件を報じては「嗚呼おろかなるかな」と嘆き、あるいは「つつしむべし」と締めくくり、褒美の金をもらった孝行息子の話や軽犯罪でとがめられた娘の話で規範を示し、また奇事を伝えては「たわけきはなし」とか、「恐るべし」と結ぶといった具合である。もっとも読者は、そうした教訓はさておき、醜聞のおもしろさや絵の残酷さやあでやかさに見入ったのであろう。しかし、勧善懲悪の枠組みをはみ出た場合には、『大阪日々新聞』の例のように検閲の手が入ったようだ (6)。
このように錦絵新聞は、もとは絵草紙という一つの名称のもとから流れ出た絵本、錦絵、読売瓦版という、近世の視覚メディアを再統合した印刷物であるといえよう。視覚的な事件報道という点で先行メディアである読売瓦版が、不定期発行で、ほとんど単色の粗末な非合法に近い出版物であったのに対し、錦絵新聞はその報道的性格を吸収し乗り越えた、迅速で定期的なニュース媒体であった。また、錦絵新聞は絵本の持つ物語性や教訓の枠組みを引き継ぎ、その中に新しい明治の世相を展開して見せた。そして錦絵新聞は浮世絵版画の継承的発展であり、錦絵の技術を徳川政権下では禁じられていた時事報道の領域へ解き放ち、色彩豊かでわかりやすい、文字の読めない者をも引きつける魅力を持った視覚的情報媒体となった。錦絵新聞は錦絵に潜在していた視覚的報道の機能を最大限に引き出した形態であり、また錦絵が新聞という新たなメディアと競った最初で最後の舞台であった。錦絵新聞が展開した後の明治十年代後半以降、錦絵は視覚的報道の主役からすべりおち、「田舎向きの安物」と質の低下が嘆かれるほどに衰退してゆくのである (7)。
一方で、錦絵新聞は近代以降のポピュラー・ジャーナリズムの出発点でもあった。庶民を話題の中心に据えた実名報道とその視覚化は、後の漫画、紙芝居、グラフィック雑誌、テレビ等の視覚メディアにつながる表現形式を開拓したといえよう。しかし、明治九年後半から西南戦争の頃に錦絵新聞は最盛期を過ぎ、ニュース・メディアの役割を実質的に終えた。その大きな原因は、明治七年十一月に創刊された『読売新聞』をはじめとする総ふりがな付きの小新聞(こしんぶん)が東京と大阪で普及し、それらに錦絵新聞の読者層が移行吸収されていったためだと思われる。なぜなら小新聞は、錦絵新聞と同じく漢字漢語の読めない「児童婦女子」を読者対象とし、戯作者たちが書く記事の話題と表現も共通しており、しかも情報量と速報性では錦絵新聞にまさり、相対的に安価であったからである。また、明治八年四月に創刊された『平仮名絵入新聞』が先駆けて実践したように、有名な浮世絵師たちが小新聞に記事の挿し絵を描くようになったのも影響したであろう。やがて忘れ去られた錦絵新聞が再び見いだされるのは、大正時代になってからである。
註(1) 岩切信一郎「明治期木版文化の盛衰」(『近代日本版画の諸相』中央公論美術出版、一九九八年)一〇一-一〇二頁参照。
(2) 小野秀雄「我国初期の新聞と其文献について」(『明治文化全集 第四巻新聞篇』日本評論社、一九二八年)十三頁。
(3) よく引かれる例として、明治五年にJ・R・ブラックが東京の商店に新聞購読の勧誘に出かけた時、商店の主人には新聞が毎日、新しい出来事を印刷したものであるとの知識がなかったというエピソードがある。蛯原八郎『日本欧字新聞雑誌史』(一九三四年、復刻版一九八〇年)五四-五七頁(J.R. Black, Young Japan, 1883からの抄訳)参照。
(4) 原秀成「新聞錦絵と錦絵新聞—その出版状況と構造の変化—」(『年報・近代日本研究12 近代日本と情報』山川出版社、一九九〇年)六八-九二頁、および拙稿「ニュース・メディアとしての錦絵新聞」(『マス・コミュニケーション研究』四六号、一九九五年)一四二-一五六頁、参照。また『東京日々新聞』のシリーズの発行が「繁悩ヲ極メ」たという絵草紙屋の回想も、そうした錦絵新聞の発行の忙しさを裏付ける証言であろう。永田生慈『資料による近代浮世絵事情』(三彩社、一九九二年)三五頁参照。
(5) J・R・ブラックが発行していた『The Far East』一九七四年九月三〇日の記事「Art in Japan」には、『東京日々新聞』錦絵五一二号(沼野氏と娘倉子が兇賊相手に奮戦)が付録として添えられ、錦絵の販売状況とともに説明されている。ロン・スチュワート氏の教示による。
(6) 拙著『大阪の錦絵新聞』(三元社、一九九五年)一二六-一二八頁参照。
(7) 岩切信一郎、前掲論文、一〇二-一〇六頁。