信ずる者は救われる
社寺神仏に対する信心により不幸から救われたり、不思議なことが起こるような神霊譚も、かわら版にはよく取り上げられた。何かにすがり、何かに光明を求めるのが人間の性であり弱点でもある。信ずることから、奇跡が起こり、神仏の加護が受けられたのであろう。信仰上の美談や神霊譚は、人の心を動かすのに大きな動機となったようだが、穿った見方をすれば、各社寺の広告とも見て取れる。事実、各社寺は、まとまった金銭的工面を、出開帳を行うことでまかなった面があるからである。通常、各地の社寺は、信者や信仰をのため参詣する人の賽銭や奉納を収入の一つとしているが、わざわざ社寺の方から都市に神仏を移動させ、多くの人から金銭を集めるということを行っていた。これらのかわら版からは、単に神霊譚のみを伝えたのではないと考えるのは行きすぎであろうか。また、鰯の頭も信心からの諺があるように、何事も信じることから始まり、人がどう見るかより、自分が信じていることが支えとなるような自己救済的(占い的)な情報も見られる。
下谷治兵衛弁天信心の奇談(仮)
下谷に住む治兵衛は、長患いで、床に伏せっていた。そして、彼は常々、弁才天を信仰していた。ある時、夢で三日にわたり千住の奥郷に白蛇がおり、それを弁才天に納めよというお告げがあった。しかし、自分は体が悪いので、親類に白蛇を探してもらうと、実際にそこにおり、弁才天に納め全快を願ったところ、気分がたちまち良くなったという。この白蛇を一度見れば、開運出世が適うとのこと。
図47 下谷治兵衛弁天信心の奇談(仮)
此度下谷下谷町治兵衛と申者兼々長病にて
取臥居常々弁天を信心いたし居候所是に
不思議なる事三夜ニ及千住在奥郷村と申
中に原あり右之原に白蛇ある事実々なり
弁才天納くれよとの御つげ
あり然(しかる[ママ])る上者私病気之事
故何卒全快仕候へば
可納由ニて臥拝([ママ])み
後日親類之内鉄五郎ト申者
相たのミ彼地へ差遣候所あんに
不違白蛇あり奇成かな左候へば直様弁天
に可納訳なれ共長病に取臥居気分者
宜敷とも未歩行六ケ敷候まま延引におよびて
且ハ白蛇之儀ハ壱度拝せば開運出世と聞
覚依是御信心之御方様へ御目にかけ申候
市川団十郎に不動明王の加護(仮)
亨保二〇年(一七三五)市川団十郎と成田不動尊の結び付きは今なを深く、その信心の始まりが、このかわら版に記された有名な話である。享保二〇年(一七三五)二代目市川団十郎は、病気となり大量の血を吐き、死線をさまよう。萬吉栄次という者が成田山の不動明王に願を掛け祈ったところ、団十郎が蘇生し全快したという。団十郎の屋号「成田屋」はこの両者の関係から付けられている。多くの江戸っ子も団十郎同様に、成田不動を信仰していた。
図48 市川団十郎に不動明王の加護(仮)
其むかし祐天上人ハ
ふどう明王の霊夢に天
くにの宝けんを呑と夢
ミて悪血をはき夫より
才知人にすぐれかかる
上人とハなり玉へし
とかやしかるに当五月
二十三日夕七ツ時すぎ
御ひゐき市川
団十郎俄に悪
血をはきし事
二升あまりにして
気をうしない
一言のこたいもなかりし
かバひとひとハきやう
てんなしさまさまかいほう
いたし中にもおくり萬吉栄次といふもの髪を
おろし御蔵前なる成田ふどう尊へ大願をかけ日
さんをはしめけるがふしぎなるかな其夜
九ツ時ごろやうやうしやう気つきしかバミなミな
よろこびかぎりなく日にまし全快におもむき
近日出きんもなるべきハ全くふどう明王の利やく
によつて蘇生なしたるものならんと人々おそれ
ざらんものハなかりけるおそるべしおそるべしおそるべし
信州善光寺の霊牛(仮)
有名な「牛に引かれて善光寺参り」の説話である。無信心の女性が、ある日布晒をしていると、風に布が飛ばされ、牛の角に引っかかる。牛は歩き始め、女性は布を取り戻そうと後を追う。着いたところが信州の善光寺で、実は牛は善光寺の菩薩の化身であり、その後女性は信心をはじめて目出度い往生を遂げた。この菩薩は、後日布引の観音と呼ばれたというもの。おそらく、これは善光寺やその周辺、もしくは出開帳の際などに売られたものではなかろうか。
図49 信州善光寺の霊牛(仮)
むかしこの信濃国小県
郡に心さかなきをんな
ありある日軒ばに布
をさらしけるにいつこよりか
牛一ツいてきてその角に布を
引かけてゆきけりをんなはら
たちてにくきものかな
布をのすミてなににか
するとておひかけて
ゆくに牛もとく
あゆみてつひに
善光寺に参りけれハ
日ハくれて牛ハかきけすやうにミえす
なりぬされと仏の光明ハひるのことくにて
かの牛のよだりやかて文字のやうにぞ
ミえけるそれをよミみれハ
うしとのミおもひはなちそこの道に
なれをミちびくおのがこころを
となん有けるをんなたちまち
菩提の心をおこして
そのよハ仏のミまへに
ミなとなへつつあか
してかの布のゆ
くへを尋る
心ハなく家に
かへりてその
わたりの観音の堂にも参り
けるにかの布ハゆくりなうその
菩薩のみもとにそありける
かかれハ牛と見しハ観音の化
現にておハしける也けりとて
いよいよ善光寺仏を信して
めてたき往生をとけしと
なんその菩薩ハ今に
布引の観音とておハ
すなり是を世に牛にひか
れて善光寺まゐりとハ
かたりつたへしにこそ西国巡礼第三十三所内 六波羅密寺
空也聖人創建の京都六波羅密寺の縁起が記されたもので、六波羅密寺もしくは出開帳の際に販売されたものと思われる。内容的には聖人手作りの十一面観音を車に乗せ市中を引きまわると、その場所の病人が快復したという霊験があり、その像を本尊としているのが六波羅密寺であるというもの。
西国巡礼第三十三所内六波羅密寺
西国巡礼第三十三所内
図50
十七番山城国落東普院落山
六波羅密寺
天暦五年春の頃京路中ハこと
の外大疫病流行して諸人の屍ね街
にみち萬民の悲ミいわん方なく空也
上人深く之を歎きて自から十一面乃
観音の尊像をおがミて祈念をこ
らし之を車に乗せ市中を曳廻り信
心を進め玉ひしに不思議にや一度曳
まわりし町内ハ直さま病キハ治愈にけ
り是レ偏に大然観世音の御利生
とは知られける遂に此尊像を本尊
として此寺を建立なし玉ふ即チ東
山の六波羅密寺とハ是なり
其後疫病流行せし時此観音に供へ
たる薬物を病人に呑せしかば速に治
せさるとの由やなかりけるを此事時
の帝村上天皇聞し下れて御信仰
あらせられたり海蔵元朝に尊像
に供へたる御薬湯をバ常飯し玉ひ
けれバ今世まで正月に回復を祝ふ
其年の災をはらう吉例の討れる
ハ此帝御信心の故事とハ申なり