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[かわら版の情報社会]


病魔退散

江戸時代を通じ、伝染病は時として猛威を震っていた。疱瘡(天然痘)は断続的に流行を繰り返し、麻疹(はしか)も同様であった。共に病が治っても、あばたやかさなどの病痕が残ることが多く、その人の一生を左右する問題となった。さらに幕末にはコロリ(罹るとコロリと死ぬことから)と呼ばれたコレラの大流行があり、庶民を震撼させている。この関連では、それぞれの病気の対処法、予防、特効薬などが記されたものが多く目に付く。やはり、人の一命に関わることの深刻さなのであろうか。その内容の真偽は別として、求める側は、藁をもすがる心情であったのだろう。また、その反面、面白可笑しくその現状をまとまたものもあり、これらは、身近な人が病で死ぬことが、日常的なことになったことからの開き直りなのだろうか、戯作的処理も裏悲しくも感じられる。まさに、求めた情報で病から逃れれば、願ってもないのもであったろう。

はしか能毒心得草 文久二年(一八六二)

はしかに効く食べ物と食べてはいけないものを上下に分けて記してある。一応京都の典薬頭が、庶民救済のために告げたものを板行したとあり、ある種実用的なものであった。ただし、現在の常識でいえば、ほとんどが眉唾物であることはいうまでもない。大半はまじまい的なものであるが、多少は民間療法でも目にするものがあるが、はたしてはしかまで効いたかどうかは疑問。

はしか能毒心得草

図41 はしか能毒心得草

図41
{上段}食してよろしき物
一大こん、ゆず、やきふ、とくなし
 しよくすべし
一うんとん、すこしハくるしからす
一ふき、すいきを下しはやくかせる
一くろまめ、ぶどう、けんきをおきなひ
 ねつをさまし一あづき、ねつとくを下しうちを
 そんせす一ごぼう、大ひにげんきをましはやく
 する
一たんぽぽ、うど、なかいも、おかねるニ
 よし
一大むぎ、病人つねにもちひて
 よし一しろうり、とうくわすいきを下して
 よし
一にんじん、かんひよう、ちさ かまひなし
一しじみ、ねつをくだしてよし
一なし、くるしからず
一いんけんまめぜんまいしよくしてよし
一くずかたくり大いによし
一ミそしるかうのもの、さつまいも
 よし
一と■ろ、こんぶ、おほろこんぶ
一かうやとうふほしかぶら
一はしか目に入たる時の妙やく
せついんのむしを二ツにわりそのしる
をとりて目の中へさしてよし
一同ないこう大妙やく
せんさんかう かきがら此ニ味ハ火ニてやき
こうくわ せんきう 大わう
かんざう
右六味せんじ用ゆへし
一かゆミをとめるくすり
くろ ちんび 大むぎ かんぞう
しやうが
右せんし用ゆべし  
{下段}しよくしてあしきもの
一あを梅をしよくすれバはしかの
 うちへいり男ハりんびやうをんなハ
 ながちしうちとなる
一竹の子▲もも▲ねつをうごかしはら
 いたみいのちあやふし
一れんこん▲こんにやく▲うちへ入いのち
 あやふし
一きうり▲なんきん▲せり▲みつば
 しよくすれハなおりてのちちうふう
 となり
一ごほうあふトゑりはら下り
 てとまらす
一とうふ▲きしず▲きをとしてづつう
 となるなり
一ねぶか▲ねつをうこかしたんおこる
一くわゐ▲大にげんきおとろへ山あからす
一なすび▲目に入がんびやう又ハてんかん
 となる
一さといも▲ずいき▲しよくすれハかたくなる
一かちぐり▲しゐ▲せうべんつまりはらはり
 ちやうまんのごとくなりいのちあやふし
一こせう▲たうからし▲其外からき物ハろし
一そば▲そうめん▲わろし
一たこ▲しよくすれハはら大ニいたむ
一するめ▲かまかり山あけることおそし
一どぜう▲うなき▲なまつ▲ふな▲このほか
 川うをるいすべてわろし
一はわぐり▲さざへ▲田にし▲かひるいハろし
一いわし▲かづの子▲たら▲うミくさのるい
一そのほかせくろきうをハ大ニわろし
一かまぼこ▲てんぷら▲たまこごくわろし
一す▲さけ▲もち▲三七日いむべし
一なたまめ大どくこれをしよくすれハしす
 ミそつけさとうつけニても一ケ年ハいむべし
 ぼうじだいいちにつゝしむべし
 なをもれたるハいしにたづねてしよく
 すべし

右ハ京都典楽頭より諸人助のため触出されしを聞伝へ
候儘世上ニ告知らしめ災ひを免んかため板行せしむ

 

流行はしか合戦 文久二年(一八六二)

はしかの流行に関するさまざまなことを武将の名前に見立てた軍記物仕立てのもの。おそらく、講釈師然としたものが勇壮に語ってこれを売り歩いたのではなかろうか。後半には、当時薬効が信じられていた薬達も登場する。

図42 流行はしか合戦
図42

流行はしか合戦


体に入てらんをなすとかやここにはしかの判官やミつきト申者あり一ぞくの病
ヲハすやミのねつ蔵あせかき暑中くハくらん太あつかりべうの太郎大ねつせう
かん斉かんの虫蔵せきの出太郎すしほねつり右衛門はらいたん太逆上のぼせの助を
はじめとしてはしかにしたがふ病勢われもわれもとはせあつまり人ゲんかいのそとり
たる五臓六ぷのたいない城にぞせめよせたり先ぢんの大しやうそやみねつ蔵あせ
かきその日のいでたちニハ火いろのよろひねつとうのかぶとをいただき火ゑんのねつ
きを火のくるまのごとくふりまハしたいない一ばんのりとぞよばわつたり人げん
かいにてハ大きにおとろきこはしよきはらひとして定再ふりいだし等にてふせぎ
たたかふといへどもなかなかもつてこうのうすこしもあらバこそそのうち手おくれ
とあいなりしかバよせての大しやうはしかの刻くわんが下ぢとしてりべう太郎
ハこうもんへせめいりすじほねつり右衛門ハ大すいのおやぼねをきりとらんとす
のぼせの介かんちうへせめのぼりせきの出太郎ハのんどよりしよくどうニせ
めかかり兵ろふのミちをさえぎりはらいたん太ハひゐのりやう城をせめとつ
たりいよいよ三日のとふげにさしかゝれバたいないおほひにそんじすでにらく命
にもおよぶべくところいしやの入道ぶくわんこれをきくよるさつそくかけ
つけ人ゲんかいミやくどころにぢんをとり味かたの薬せいをあつむるところに
まぢ一ばんにハうさい角蔵二ばんにハしやうまかつこんとう三ばんにハあまき
かん蔵かつたとうがゆの住人大の一角本町の住人にハたいこふあんねりやく
いづミばしの住人きうめい丸薬をはじめとして大にんじんくまのゐその
ほか薬しゆのめんめんわれもわれもとあいくわわりにんげんかいをすくわんとやま
ひのみちたるたゞなかへせんやくぐわんやくのきらいなくわれおとらしとたて付
たてつけあびせるごとくにせめかけ又かたハらにハかんぴやうのともがらすきま
もなくつめかけゆだんなきかいほうにかちほこつたるはしかぜい薬ぜいニおい
まくられこハかなハじとしどろになつてはつさんすよつてたいないへいゆにおよ
びおひおひかせにいたるといへどもまたまたぶりかへさんもはかりがたく七十五日ハ
どくだてゲんじうにまもりけるとぞ これより後へん
いよいよはしかの一ぞくだんだんとはびこりてひろきせかいにミちたりケれバ
貴賎のなん女そのかず何百万といふをしらず中にハかれがためにいのちを
うしなひとせいにさしつかへなんじうをするものすくなからずこれによつて猶また
はしかの一ぞくをしりぞけんと身かたのせいをぞあつめケるまづ一ばんニハ
ゆやのばんとういりなしとめおけにかなだる大よろひをちやくし小畑
のかぶとをいくびにきなしばんざいとなづけたるこまにうちのりひやかしぎうつ
てのりいだす二ばんニハかみゆひどこのかミひなまりくしのおどしの大よろ
ひにびんだらいのかぶとをきなしまけぼうのさしものかミそうげのこまに
びんつけおいてうちまたがり中どこわか蔵下ずり小蔵太をさやうニしたがへ
平一さん二のりいだす三ばんにハ女郎やのあるじくひこミがその日のいでたち
にハかたびらおどしのよろひにづつうはちまきのかぶとをきなし志あんと
名づけしぶんさんのこまにうちのりとぼとぼとしてのりいだすつきしたがふめんめん
にハおいらん三分太夫つぼよし一分の庄司二朱の太郎にがふしにミせのふんぞり勢
ニハ所々くらがえ四郎なまいきすべ太郎がつとめの四百きをひいておしいだす後ぢんの
大しやうニハ永きやすん太が一ぞく会せきりやうりの介さかなハとくだろふくハ
なしそばの二八郎もりかけおちぬつけめしのかミはらよしうなぎかばやきにう
どうどんぶりさいてんぷら夜ミせ太郎すしや■介ゑんどうはじけの介まめ
なり四もんやにしん太夫さゞいつぼやきミづやしらたま一ぱいやのともがらかげう
のかたきはしかのやつばらいちいちうちとりうつぷんをはらさんとおいおい目
じるしのかんばんをまつさきにおしたてわれをおとらしとのりいだすそれをミるより
はしかのはんぐわんやミつきなんのこしややな人ゲンぜい■せくれぞさいわいもふ
一ト久しぶりかへさせミなごろしにしてくれんとたたかふところにうしろのかたにハいし
や薬しゆの大ぐんせめきたりどくとくすりとぜんとよりせめたてられさしもに
たけきはしかぜいしどろニ成てはいぼくなし広きせかいをおひはらハれ遠き■へぞ退きケる

虎列刺病予防一覧表 明治一九年(一八八六)

明治になって作成されたもので、さまざまなコレラ予防について記されてある。時代的にかわら版の仲間ともいいずらいが、コレラの予防を需要之部(守ること)と禁忌之部(禁ずること)に分け、相撲番付の形を使い構成している。当時の庶民に対しての情報提供は、まだ江戸の形が使われていた(好まれていた)ことを示す資料といえよう。

図43 虎列刺病予防一覧表
図43

虎列刺病予防一覧表

明治十九年六月九日御届
同年同月出板
例言 虎列刺病の猛劇にして怖るべきや世人普く熟知する所なり故に非常の注
意を加へ予め之を防がずんバ其禍踵を旋さず豈恐れて怖れざるべけんや因て
先輩の予防方法の諸説を考へ需用と禁忌の両部に分ち病を
未■ニ防がんと欲し一表を製して以て江湖の閲覧ニ供すと云ふ
丙戌芒種の節  編者識
編輯兼出板人
京都府士族
増山守正
東京府神田区駿河臺
鈴木町十六番地寄■
 
需要之部
第一則 新鮮乃空氣を吸べし
第二則 高燥の地に住むべし
第三則 家室を清潔にすべし
第四則 清潔の衣服を着し怠らず襯衣を洗濯すべし
第五則 牛乳牛肉及び鶏卵鶏肉
等の滋養物を食ふべし
{以下略}
禁忌之部
第一則 稠人輻湊せる炭酸の多き會場等へ入る可からず
第二則 腐敗物を飲食すべからず
第三則 大酒及び大食す可からず
第四則 房事を過すべからず
第五則 精神を妄用すべからず
{以下略}
{枠外}  売捌所 東京本郷区湯嶋六丁目弐拾五番地
波多野常定 定価金六銭

 

流行とびちがひもの

ことばの部分がわずかに異なるだけで、非常に意味が異なるものを列挙して楽しんだもの。例えば、「はしかに あしか」「おてらに どてら」「ほうそうに もうそう」「ほとけに おどけ」などで、当時の流行であるはしかや疱瘡に関したものが目に付く。

図44 流行とびちがひもの
図44
流行とびちがひもの

はしかニ   あしか
おいしやニ  もくしや
おてらニ   どてら
おんぼうニ  ちんぼう
ころりニ   ちろり
くすりニ   いすり
かんびやうニ かんひやう
おミこしニ  ミそこし
天のうニ   けんのん
金ぴらニ   てんぷら
おしよけニ  すぼけ
ともらいニ  ものもらひ
そうれいニ  ゆうれい
小ぞうニ   地ぞう
こしやニ   くわしや
こしかつぎニ きぬかつぎ
金かしニ   ひやかし
やきバニ   そつぱ
ほうそうニ  もうそう
ぼうずニ   てうづ
ほとけニ   おどけ
やまひニ   やとひ
てんきニ   せんき
どくたてニ  はこだて
ひだちニ   ひたち
よこはまニ  弓はま

此せつある物流行尽し 安政五年(一八五八)

欄外に、「安政五年秋狐路狸はやる時」とあり、コレラ流行時のものであろうか。七五調で調子よく「○○ある」と一節ずつ結ぶもので、大半がコレラの関係の世情の様子が記されたある。最後の「おかみのおめぐみじひがある(お上のお恵み 慈悲がある)」あたりは、本当に本心であろうか?

図45 此せつある物流行尽し
図45

此せつある物流行尽し

さてもあるぞへたんとある
ありとあらゆるあらがある
かとぐちこのはが下てある
まじないおふだがはつてある
ほどこしぐすりをたすもある
きつねのうわさが所々にある
山ぶしきとうにほうがある
しんるいきう病さたがある
とむらいつづいてとおりがある
やたらにほとけのふりがある
むゑんのはかばはながある
せつほうだんきにいりがある
こわめしもらいがたんとある
ぶらつくひとだまつれがある
はやおけおきざりせつがある
女ほうのうりすへくちがある
いれものつづらとたるがある
やきばのたのしミこつがある
くわんおけほどこす人がある
たまにハたすかるものもある
きとうおかしがやたらある
おいしやのことバににげがある
おんなのやもめがやたらにある
そろそろはいこむやつがある
くどいてしめこむのづがある
ながれてとられるばかがある
女ハほかにもまぶがある
そのうへちのミのがきがある
ごけにつぎこむこけがある
おすくひくださるさたがある
おかミのおめぐミじひがある
{袖に異筆}安政五年秋狐狢狸はやる時

 

武鑑の戯文(仮)

武家の家系や、各家の情報を記した武鑑の表記の仕方を借り、コレラを武家に見立てて、狐狼狸家(コロリ家)の武鑑としてまとめている。薬の調合などが略歴とされ、屋敷は寺や墓場のある所となっている。

図46 武鑑の戯文(仮)
図46
武鑑の戯文(仮)

{上段}狐狼狸家 本国無闇
神代国常立尊
七代之後胤素
盞雄尊病疫
全快ノ為成卿
末孫芳香散
ノ長男
桂枝—益知—乾姜—細末—調合—
  {中段}
まんぢうの
七ツむめ
安政五年 家督
狐狼狸行之守死安
内室 昼夜泣居卿 娘
御着 八月上旬
御暇 九月下旬
  {指物の説明}
竹の皮なげざや
わりばし十の字
かるはん
押紋
たらい
御嫡
狐狼狸去之進
献上
香典金 ろうそく
五種香 長尺せんかう

   {下段}
御苦労大家世話四郎
長家行司
日雇太儀
穴堀昼夜
夢外太郎
用人
日比野葬送
高井棺弥
川井惣太
御使
しら瀬喜太郎
驚入之進
八宗派 諸院山 大徳寺
高 拾五万余人 道法 江戸ヨリ四方
御治世以前慶雲二年疫レイ流行康平四年
疫レイハヤリ天文三年疫レイ流行安永二年
疫レイハヤリ人参下サル今安政五年八月暴潟
病ハヤリ以後芳香散ヲ以末代迄禁之
上やしき御寺町 中小塚原 下桐ヶ谷


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