珍談・奇談
ここに紹介するような内容のものは、まさに荒唐無稽であり、現在ではそんな馬鹿なの一言で済まされるようなものばかりである。見てきたような嘘がそこには記されてあり、売る方には、買手が面白がれば何でもよいよいった感じすら見られる。ある種、現在の夕刊紙の踊る活字と記事に似ていないこともない。しかし、だからといってこの手のものを笑ってはいけない。当時としては、これが真実として伝えられ、恐れられ、信じられていたのだから。夜には真の闇が存在し、魑魅魍魎の跋扈が伝えられていた。総てが科学で証明され、不可思議なものが否定される現代と、実体はないにせよ、さまざまな出来事に畏敬の念や、恐怖心で接することのできた当時では感覚的に比較のしようがない。そして、これらの情報は、かわら版類の典型的な一面であり、その量の多さは庶民の興味の高さの証左なのであろう。また、人魚などは、それを見ると寿命が延びるという伝承があり、かわら版を買って所持してもその効果があるなど記されたものなど見られる。これなど、かわら版にある種護符的な意味を持たせたものと理解できるし、売るための巧妙な方便と見ることもできる。
三つ子の出生(仮)
現在では、三つ子の誕生ぐらいでは、新聞記事の対象ともならないが、江戸時代では珍しいことであったのであろう。単に三つ子の誕生があったことの記述のみではなく、その父母は、人徳があり、その徳により目出度いことが起こったというまとめかたになっている。
図33 三つ子の出生(仮)
積せんの家にハかならす余けい有とハ古人■■([虫喰])
結むへなるかな今度南品川二町目伊和や
といへる旅籠や有平生徳実成人にて
常々いん徳をほとこし他の人の心にかた
らわす家内繁昌しけるニ日本橋辺の
生ニて妙年よりきへる豆と名付け候
女子有去暮より何か気おもにて
左りの方おつかきとり腹大きく成故
医者おつくせとも何のかいなく
あまりなかき事ゆへ打捨をき
しか当午とし二十五日昼時ころ腹いた
み候故雪隠に参ると立あかりし
ままに玉のよふなる男子を産家内
繁ゑいの記とやあまり珍ら敷事ゆへ
一紙につつり諸向の高覧に備のミ鳥目 五十貫文てうたいいたし
柴井町
■■兵衛■■
閏七月二日
朝六ツ時
男子三人生
銀屋安五郎
妻さと 三十九才神童奇産物語 文政九年(一八二六)
下総の国(現在の千葉県)で起こった事件で、篤実の百姓に慈悲深い妻の間に美人の娘が生まれ、ここの娘が八歳で男子を出産した。土浦の領主はこの娘の出生に対し産着の小袖と金等を与えたというもの。
図34 神童奇産物語
前欠不審あり五才の年にして初て経水を見る事世の常の婦人の如し
二親奇異の思をなしケる内當年申の年八才にして男子を出生す其日九
月三日申の日也年も申の年申の日出生の刻限則
ウの刻なり母子壮かにして玉の如き男子也近郷の人々つどい来
りて其故ヲ問ふに平生何の変る事なく去年来より月水ミる事
なくいかなる事と思ふ内日をおい月を重ね腹の様子大きくなり
専ら妊娠のよふに見へける故いかなる事と色々すかし問ケれども
許より小児の事故何のわずらへる事もなく壮やかに遊びくらしケる
未だ八才の幼児なれば何れの男子と戯れ事致せしなどいふ
事はさらになケれバ両親はじめ村長の者も余りふ審に絶かね
此旨領主御役所へ訴へける色々御評議有之出生の小児男子に
あらば早々訴へ可申よし仰渡されケる処即當三日誠に軽軽と
平産あり出生男子なれば此旨土浦御領主様御役所へ訴へ
申上ケるにより早速久左衛門夫婦被召呼段々
御尋之上御役人方各久左衛門宅へ御越
委細御見分の上御上より産着小袖一
重ね金子等被下尤大切ニ養育可致旨夫
婦の元へ被仰渡ケる出生の小児其折からハ至て小くありしが肥立につれ
常の赤子にまして大きく目ざしさとく啼声壮やかに至て
実性の様子也誠に不思議と云うべし此娘未だ男女の
交りにしらず子を生る事只事にあらず親久左衛門
夫婦平生の廉直天に通し天より陰徳を下し
娘にかかる英児を授け玉ふ物が此児先年
丹波の伊葉の例を引ハ百年に長寿を
保ち行末長く繁昌奇随疑ふ
へからず近郷近在聞伝へ祝物(■■■■し)をたつさへ
此児を見ニくるもの多く久左衛門思わぬ
引物を得て忽ち福公の身となりしよし
此一談ハ天性不■■の物語故近郷の人ハ
見聞もあらんなれと他郷の人ハ聞にもれ
為ん事の本意なく即是を二枚摺の紙に
綴写して遠邦の土産に備るのみ
下浜田御城下旧鼠之一説
安政二年(一八五五)
石州那賀郡に猫のように大きな鼠が漁師の網にかかった。足に水かきがあり、次第にその数を増し、人に害を与えるようになったため、退治が命じられたところ、町屋と城内との合計で五十五万匹の大鼠が殺されたという。安政二年(一八五五)のかわら版で前年のできごととされているので安政元年(一八五四)の事件である。
図35 浜田御城下旧鼠之一説
石州那賀郡
浜田御城下 旧鼠之一説
夫天下泰平国家安穏弓ハ
袋に太刀ハ鞘治る御代は
大君の御威徳奉仰下万民
に至る迄枕を高ふして国も豊
に万歳を唱ふそが中にも少の
小災ハある物也是天の成る所なり
就中去寅年夏冬の地震有
茲に又柳の災あり其故ハ石州
浜田侯の御領分ニ当春頃より鼠
夥しくわき出しかも其大きさ宛も
猫のごとく其来由を尋に沖中白波うづ
たかく鰯の集りたるごとくなりケれハ漁師
網を入磯部へ引あげ見れバ魚にあらず大き
なる鼠ニて四足とも水かきあり夫より追々弥増
終に其数幾万といふかぎりなし少々田地等
もあらし又ハ白昼ニ往還へ出てややもすれ
バ往来の人に喰つかんとすありさまさ
もおそろしくかるがゆえに国守より御下知
有て家別ニ人そくをいだし右鼠かりを
被仰付候所凡廿四万九千疋余うち
ころし候へ共一向へらすそれゆへ
又国守より御家中へ命じて退治の
義被仰付ニて又三十万余都合ニて
五十五万余疋打ころしたりといへども
中々絶る事なくやはり以ぜんの
如くなるよしあまりめづらしき
事ゆへ聞書の通り板行ニ著
候ものなり
安政二卯八月大新板達磨石(仮)(『拾帖』第三冊)
東京大学総合図書館蔵
田中芳男の収集したものをまとめた「拾帳」にあるかわら版で、達磨の形をした石が家に落下してくる奇談が記されたもの。おそらく、この石は隕石ではないかと考えられる。
図36 達磨石
頃ハ嘉永七寅とし九月二十五日の夜
谷中瑞林寺よこ丁宝ぞう院において
夜うしみつのころ
いつれともなく
土蔵の屋根うち
くだきおびたたしき
ものおとにをどろき
よふす見分いたし
候処石のだるま
これありまこにぎ
よふてんいたし右ただ
ならすゆゑ供もつ
そなへ近へんの人々くん
しゆなし参詣の人々
誠にきいのおもいおなしここん
ふしぎなる次第なり
人魚(仮)(『拾帖』第一冊)
東京大学総合図書館蔵
田中芳男の収集したものをまとめた「拾帳」にあるかわら版で、人魚のについて記されている。人魚はそれを食すと不老不死、見ただけでも長生きができるといわれている。さらに、このかわら版を持つ(見る)だけでもはやり病から逃れることができると記されてある。
図37 人魚(仮)
奥州の海辺竹駒大明神之神主ニ娘有
七ケ年已前行衛しれず相成候ゆへ出シ日を
命日として法会いとなみケり当年御年回に
当り候上近寺の僧をあつめ施俄
鬼供養致シ候得は右の娘海上ニ
浮キ出言舌さわやかに語て曰われハ
七ケ年以前入水するといへ共不死
の其大海神ニ仕へ一方の守護神と
なれり今年ハ至てあやしきやまい
流行いたし当たりたる人は
一人も助る事なし依て是を
三コロリといへり我姿を
能々見置絵ニうつし
諸人ニ知らしめよ
我姿画一度見る人ハ
はやり病のうれひを
のがれ無病息才
なりと言終て
海中江しすみ
けれ
絵の下部
むねニ三ツの玉有
光かかやき
身の丈ケ十間余り