事件だ! 大変だ!
ここで紹介する事件は、地震・火事・噴火といった災害でもないし、また異国船の来航や政変といった国家的一大事でもない。どちらかというと市井の出来事なのだが、敵討ち・心中・継子殺しといった、無関係の人間には何等利害関係はないものの、対岸の火事的な興味をそそるものばかりである。それぞれの事件に共通していることは、平生自分達の尺度で計れない所の出来事であるということであろう。
これらのことは、日常茶飯事ではないにせよ、当時大騒ぎするほどの出来事でもない。とはいうものの報道的メディアが少なかったが物見高い江戸庶民にとって、これらの出来事は常に興味の対象であったのだろう。敵討ちには、自分達にはない武士社会の慣わしや、ある種の勧善懲悪に溜飲をさげるなどが求められたのではなかろうか。また心中には、適わぬ恋に涙し、男女関係の下世話な興味に話の花を咲かせたのだろう。
読売心中ばなし
弘化四年(一八四七)
弘化四年五月に神田の八百屋の娘おひさ(十七才)・魚屋の娘おちか(十九才)・酒屋の娘おてつ(十八才)の同じ常磐津の習い事をする娘達が、三人揃って大川に身投げをした。これは、小間物屋徳兵衛という男と三人の娘が仲よくなり、芝居見物や料理茶屋で夜遅くなったので、それぞれの家に徳兵衛に送ってもらい家人に対する弁解を頼むが、断られ、やるせなさがつのり同性三人の心中となった。通常男女の心中事件が多い中、同性でしかも三人という珍らしい事と話題となるが、実は事件に巻き込まれ殺されたのが事実であるようだ。
図28
読売心中ばなし
夫人として忠孝なきハ
人にあらず信義五常道
かんようなりといへども
恋しこそ忠孝をう
しなへ其身を亡しつつ
しむべき第一也ここに弘化四未年
五月六日神田かじ町八百屋
娘ニておひさ十七才二相成
いつミ町酒娘おてつ十八才
相成右三人とも平常共中能
常盤津けいこほう輩ニて同
けいこ参り小間物屋徳兵衛とゆふ
者八や娘おひさとハひたしき
中なりといへどもたかへにゑん慮そしたり
ける処右おてつ其中立いたし弐人とも
わりなき中とハなりにけり段々と積
恋しの其中に誠以いつとなく三人とも
徳兵衛とゑんりやうもはしもうち捨て
水ももらさぬ中となり五月御節句事
なれハ稽古の御師匠様へ礼に行
三人ともあいうちとけて積はなしの
其中に徳兵衛参りおやと顔ハ
かほと顔たがいに見やハせ嬉
しなミたの其中にあすハ女の
節句なりかんをん様かい帳
へ明六日うちよりひまをもらひ
芝居こそ行ニけり徳兵衛も
同道ニて芝居参りかへりに
馬道辺の料理茶屋上りうち明てはなし咄しの嬉
しなき三人ニてハとうてそハれぬ悪ゑんとあきらめ
てみてもあきらめすたかいにたかいに時をそうつしけり
時刻もおくれうち江帰りかおそなり三人ともとうそ
徳兵衛さんうちへ行のがおそるるなりわひ事して
内へ入ておくれとたのミけり徳兵衛ハわたしにハ参り
にくく外人を御たのミ被成とそ申けるもことハりなり夫
より其茶屋出徳兵衛ハわかれとうそ御三人御うち御帰り
と申てそわかれけり三人は徳兵衛にハわかれけり只うつ
らうつらとうちへ帰るけしきもなく只ないて斗りそ
あるきけり夫より吾妻橋うち渡三人ともにいいつつハはし
さへも吾妻有ハそばにハわたしあ[欠損]向うハ
めうと石有はしやいしさへも夫婦有のに此三人
ハ夫のもたれぬいんかなる前世約束かと只目を
はらしなきむせぶ斗なり夫より大川橋うちあるき三
人ともいきてかいなき此身なりしあんをきめて
いたりけり三人のもの宿ニてハ其夜のそう
とう大かたならす鐘や大いこてさかし
けり親類または長屋の者手わけ
してそわかり兼其親々のあんしハ
いか計や不孝とハいいなから恋じ
の道のやるせなく三人とも手ニ手ヲ
取てもろともニみたの浄土はすの
うてなの旅立は宮戸川のつゆと
そなりにけり夫に付テも男女八才に
して同席ヲせす申事也何様の事も
有らハ其親々の苦労いか計や不孝
の第一也つつしむへし猶幼章の教訓
ニも相成んと貴君へ高覧ニ備んのミ江戸浅草 御蔵前女仇討 嘉永六年(一八五三)
弘化四年(一八四七)常陸国阿内の名主与右衛門が、同じく名主の幸七を殺める。幸七の妹たかは、仇討を願い、神田千葉道場に奉公し、その合間に剣道の修行をする。嘉永六年(一八五三)に浅草にて無事本懐を遂げる。女性の仇討は特に好まれたのか、再々かわら版の話題となる。悪の報い恐るべし。
図29 江戸浅草 御蔵前女仇討
天王町
鳥越橋際
夫忠孝義信ハ男女
のへだてなく人の道ニして
めづらしからず然れども
忠孝ハ明君のいへニありて
あらわれがたし故ニ積善の
家ニハよけいありせき悪の
いへニハよわう■ありむへなる哉
頃ハ嘉永六丑ノ十一月二十八日女仇うち
の次第を尋に茲ニ常陸のくに
阿内こうり上弥もと村ハ三千石
の大村なり名主に与右衛門と
言ねいしんあり同村名主幸
七と日頃なかよからず与右衛門ふと
あくしんおこりほうケいもつて名主
幸七をなきものにせんとたくらミケる
あるひよろこび事ありてこれをさいわいに同名主幸七をまねきいろいろニきやうおうなしいん
きんにもてなしケる幸七ハこれを少もしらすはきやうにもとくやくを用ひケれついに三十三才ニて
我か宅へかへりてしすあハれむべしそのこ家をあさむきおいはひときニ弘化四年のことなり
妹たか兄幸七しかうのしをなせし事与右衛門のしハさなり先祖より村おさをつとめいたる
にあまつさへこきやうニいる事ならすとて深くもなけきかなしミケり扨もたかハむなしく月日を
おくりしが兄の仇すておきかたしとむねんのはがミくいしはり尤与右衛門ハ武ケいハよしといへ共
一人命をすつるときハ万夫もてきする事あたわずとか然れともしそんしたれハ一大事なりとやういしつめ先
ハ江戸表ニゆかりありケれハ古郷をはなれはくろう丁二丁メ田中や八右衛門をたよりなニとなく奉公
をのそむ八右衛門ふひんニもおもひ神田おたまかいけ千葉先生ニ奉公いだし兄の仇を打たくや思ひ
ケん暑寒をいとハす奉公の合ま合まにけんしつを学ひ又は一心ニ神ぶつをいのりちうやを
わかたつはげミケる天は心さしをあハれミてか仇与右衛門あさくさふくい丁代地松本や万々
いるよしきき出したる天のこたへとよろこひ四五日付ねらひ天命のかれを与右衛門御年ぐ上
のうのかへり天王丁ニて行会たりたかすぐになのりかけ与右衛門おどろきにけんせしを助たち
鉄せんニても面てい打付両かハてハやくかた先切込たり与右衛門後ニたおれケるすくにちか下四五寸切付ル
誠ニ隠あくのむくひおそるへし終本望とけしてめてたしめてたし姉弟神田の敵討ち(仮) 天保六年(一八三五)
天保六年(一八三五)神田において、三年前の父の仇を兄弟が討ち、本懐を遂げるという、典型的な敵討ちのかわら版。
図30 姉弟神田の敵討ち(仮)
ここに天保六未年七月十三日夜半頃神田橋
外二番原辺ニて父之仇を打たるらんちやう
たつぬるに去ル三ケ年以前のころ播志う辺之
浪人山田なにがしといへる人同所小者亀蔵
たる者同御家中名前をいつわり金子入用
之にせ手紙差出しひらきみるところあや
しきゆへ是よりへんじせんと申され事なら
さるゆへうしろより無言ニて切かけかたうで切下シ
心えたるとて山田もかたなを抜合せしが又
みけんより切つけ直さまちくでんせり
其伝ニて姉弟かけつけ是を見るに早
事切なげくといゑともせんすへき様も
なかりケり父の仇うたんがため君へ御願上
かたき打ニほそくせり仇は勢州之産
ゆへ弟は上方へたつね行姉は当国たつ
ねケりしかるに当十三日夜両国へん之茶
店ニこし打かけおちたる者を夕けしき打な
かめいたりケり其処仇亀蔵かしこを通
かかりケるニ天道之たすけたもうニはかれか
悪きやくをにくみ夜中なれ共人相しかぢか
とみゑニケり其れより両人跡をしたい行みるニ段々
鎌倉かし辺来りけるニかれも両人ニて跡より参り候へ共
心付しやゑニかけ出し跡より両人をいかけよをよを
原ニてとらいかれニ父たる仇を名乗しニ我等左様
ものニはあらづといつわりにケんとせしが悪
きやくのかれかたりついニあらわれ娘たる
者多年のかたき本毛とげたりケりあま
りめつらし事故あらましを一紙つつり諸君
高らんニ備のミ{絵の説明}
助力おじ九郎右エ門
山本三右衛門
弟卯兵衛
打たる姉りよ二十四
かたき亀蔵二十三敵討ち(仮)(『拾帖』第一冊)
東京大学総合図書館蔵
図31
敵討ち(仮)
常州新御郡
すわむら
近藤内膳様
家来当時浪人
太田六助
寅二十九才
水野出羽守様
対持
家来
山田金平
寅五十二才ころわ嘉永七年とら月き二六日夜五ツ時
すみよし町ニておやのかたきうちのしだい
やまだ幸四郎ト申もの六助のちち天保五年午三月二六日にうつてたちのき
ぬまづの家中山田金平方へ十ケ年
いぜんようしニまいり候所二十一ケ年いぜん
より六助ちちのかたきをうちたく
ぞんじ候らへ共幸四郎いくへしれずニ候
このせつぬまづのかミやしきへまいるよし
ききつたへしゆへ当十九日夜より江戸
ばしニてひにんと身おやつし付ねらい
候所天なるかな当二六日のよに江
戸ばしニて出あいすミよし丁まで
付ゆきしびよくちちのあだうちし
候だんあくじわせじよニおそる
べしおそるべし
小金井村おかんの継子殺し(仮)
嘉永七年(一八五四)
嘉永七年(一八五四)武州小金井で起こった、凄惨な継子殺しのかわら版。百姓庄右衛門の後妻おかんは、七歳になる継子を邪険にし、毒入りの弁当を持たせるなど殺そうとするが、手習いの師匠がそれを食べさせなかった。ついに、大釜に湯を沸かし、娘を釜茹でにして殺してしまう。手習いの師匠が不審に思ったことから露見する。
図32 小金井村おかんの継子殺し(仮)
頃ハ嘉永七年四月
上旬武州小金井
在百姓庄右衛門
後妻おくわん
いふもの常々にまま
むすめ七才になり
ケるをしやケんにいたし
手ならいにつかハし跡より
どく弁当を持行あ
たゑんとせしがししやう
これをあたへすとくと
せんさくし立もどらせんと
右むすめをかへさず留おきしが心なき小児事ゆへ
いつの間にやら立ちもとりしが大がまにゆをわかし
いたりしがむすめをとりおさへむざんやゆの中へ
うちこミしらぬ躰にいたしケるが手ならいし
しやう跡よりきたり取しらべたたならぬやうすな
れ此よし庄屋へとどけいろいろせんさくいたし
ケるところとうとうな([ママ])まこをかまゆでに
いたしケるよしつふさに相わかりけるとかや
よつて一紙にのべ高らんに備るなり