今日では両者あわせて600を超える墓が発掘され、埋葬された人物がミイラとなったもののほか、壁画を含む絵画類、染織品、文書類、陶(木)製明器、儀仗兵を含む人物、動物を表わす塑造俑や木俑など多様な副葬品の存在が知られている。またアスターナから出土した文書類や百点を超える墓誌の研究を通じて、西晋泰始9年(273年)に始まり唐建中三年(782年)にいたる文書の存在が確認されている。この期間は、晋から十六国にいたる第1期(3〜5世紀)、麹氏高昌国の第2期(6〜7世紀中頃)および唐の西州に属していた第3期(7世紀中〜8世紀)に分けられる。大谷探検隊の将来品にはアスターナ出土のものとカラ・ホージャ出土のものの両方が含まれている(「旅順博物館所蔵品展——幻の西域コレクション」図録、1992年12月12日〜1993年1月10日、京都文化博物館、図版39〜43参照)。
一般に木芯塑造像の場合、木片の一端に胸から上の部分に粘土(干割れを防ぐために、草を切ったものや綿、獣毛などを混ぜ合わせる)を巻き付けて頭部を整形し、下地の上から彩色し俑の頭部を仕上げ、細い棒2本で下肢をあらわす(スタイン、Innermost Asia, Ast. iii.2.010など参照)が馬の鞍などに差し込んだ(同書、Ast. iii.2.012など参照)と思われる。両肩から鉄の棒が出るか穴があいていることがあり、これらを利用して紙ないし布製の着物を着せていたと思われる。木造彩色俑の場合、きわめて軽い木で人物像を整形し、ついで下地の上から彩色を加え、墨線を用いて目や髪の生え際などを表現している。