8 高台付有蓋銅鋺 | 9 無蓋銅鋺 |
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日本 埼玉県行田市将軍山古墳 古墳時代後期(6〜7世紀) 高さ(全)11.8cm、高さ(本体)7.6cm 直径10.4cm 資料館人類・先史部門(KU. 2089(A906))
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日本 埼玉県行田市将軍山古墳 古墳時代後期(6〜7世紀) 高さ8.6cm、直径16.4cm 資料館人類・先史部門(KU. 2090(A907)) |
高台付鋺は鋳造品で、身部、蓋部ともに一部破損しているが、遺存状態は良好である(挿図1)。身部の口径は10.4センチ、高さは7.6センチで、丸みを帯びた下半部からやや内湾気味に立ち上がる。若干外開きに作られた高台は他例に較べて厚く、ずっしりとした安定感をかもし出している。その内面には、鋭い稜線をもって傾斜変換部分が作り出され、ロクロ挽きによる削り痕が認められる。口唇部直下の外面には、一条の細沈線が巡らされている。頂部に宝珠形のつまみ(鈕)が付けられた蓋は、半球形に広がるなだらかなカーブを描き、下端には「返し」が巡る。鈕座は花弁状を呈しており、形状は不揃いながら8つの花弁が表現された八花形である。鈕および鈕座は半球形の蓋部とは別に作られ、中心から若干ずれて「かしめ留め」されており(註2)、蓋部内面の中央部には直径が4ミリほどのビス状突起が認められる。蓋部外面には、二条一組の沈線が4段にわたって巡らされている。蓋部のみの高さは4.4センチで、これを身部にかぶせた場合は総高は11.8センチである。製作に関わった技術や丁寧な造作から、一般的には大陸製品である可能性が高いと考えられている。ほかに、大陸系の製品としては馬冑や鞍に旗を取り付けるための蛇行状鉄器などがあり、被葬者の性格を考える上で注目される。
8-1 埼玉県将軍山古墳出土の高台付銅鋺 | 8-2 埼玉県将軍山古墳出土の無台鋺 |
本館に収蔵されている無台鋺は、口縁部周辺が1/4程度破損しているが全体的に遺存状態は良好で、口径16.4センチ、高さ8.6センチを測る鋳造品である(挿図2)。器壁は丸底の底部から緩やかなカーブを描いて立ち上がり始め、高さの2/3を越えたあたりから垂直に近くなり、わずかに内湾気味に口縁部に至る。口縁端部の内面は肥厚し、肥厚部下端近くには一条の細沈線が巡らされている。一方、外面の口縁下には、細沈線を用いて作り出された四条の突線が巡る。中位および底部近くにも四条の細沈線が巡らされているが、口縁下のような突線表現には至っていない。さらに二条一組および一条の細沈線が巡らされており、底面からみると、各々直径3.5センチ前後の正円と同1センチの正円を描いている。本館収蔵の無台鋺は、多くの沈線で飾られるタイプの典型例と言える。本資料は、個人蔵である別の無台鋺と較べると高さに比して口径が小さく、丸底の度合いが強いようである。 日本列島における銅鋺資料は、例えば、法隆寺蔵品や正倉院献納御物、祭祀遺跡である沖の島遺跡(福岡県宗像郡大島村)、土器溜り状遺構から2点が出土した高野谷戸遺跡(註3)(埼玉県児玉郡上里町)などの例を除けば、大半は古墳ないし横穴墓の副葬品である。副葬品としての出土例はこれまでに90基113例が知られており(註4)、資料集成の充実とともに分類規準や編年観が次第に確たるものになってきている。毛利光俊彦氏は基本器形として無台鋺・高台付鋺・高脚付鋺を弁別し、各々2類6種、4類13種、2類6種に型式分類し、一緒に出土した須恵器の編年観に基づいて概ね6世紀中頃から8世紀代に及ぶ年代を与えた(註5)。埼玉将軍山古墳から出土した高台付鋺と無台鋺は、蓋部ないし身部が多くの沈線(およびそれらによって作り出された突線)で飾られることから、墓への副葬が本格化する時期(6世紀末〜7世紀前半)に比定される。
埼玉将軍山古墳はちょうど100年前に発掘されたが、先述したように、幸いにも副葬品内容の大半は明らかにされている。それ故に、ここで紹介した銅鋺資料を通して、現在の我々に様々な問題を投げかけている。この古墳は、墳長102メートル、後円部径57メートル、同高さ5メートル、前方部長45メートル、同幅50メートル(推定)、同高さ8.2メートルをはかる前方後円墳で、その築造時期は10期編年の第10期(概ね6世紀後半〜7世紀初頭)、つまり前方後円墳が築造された時代の最終段階に相当する(註6)。朝鮮半島との関係を視野に入れて銅鋺の全土的な集成を行った小田富士雄氏は、集成から読み取れる分布上の問題点を指摘した(註7)。すなわち、畿内では希少であるのと対照的に、長門を含めた北九州地方と、下野・上野・武蔵、上総、駿河など関東および東海地方の一角に集中しており、特に東日本では複数の銅鋺が副葬された古墳が散見されるのである。複数(2〜5点)の銅鋺が副葬された前方後円墳は、埼玉将軍山古墳のほかに、八幡観音塚古墳(群馬県高崎市)、小見真観寺古墳(埼玉県行田市)、殿塚古墳(千葉県山武郡)、金鈴塚古墳(千葉県木更津市)などがあり、いずれも第10期に属する。これらの墳長は90〜110メートル前後で、同時期かつ同規模の前方後円墳が全土的にみて関東地方にきわめて多いことを勘案しても、各地において相応の評価を付与すべき前方後円墳であることは言うまでもない。無台鋺はいずれにも副葬されており、高台付鋺と高脚付鋺、あるいはこれらのいずれかが組み合わさる。一方、東日本における単数出土例の大半は無台鋺であり、小規模な円墳や横穴墓に副葬された場合が少なくない。このことは、銅鋺の有無だけではなく、器種内容が被葬者の社会的地位に相応していた可能性を示唆している。このような較差に関しては、先に述べた分布状況もふまえて、まず「畿内政権」から東日本の政治的中枢地域に銅鋺が類品とともに「威信材」として賜与され、ついで各地首長層によって地域内での「再分配」が行われた、という推定がなされている(註8)。「再分配」という概念は、同型式の製品を媒介にして質的格差が具体的に説明づけられることによって説得力をもつため、銅鋺に限らず、その導入にはいくつかの前提条件が欠かせない。銅鋺の場合は、出土点数に比べて多くの型式が設定される点を考慮すべきであろう。したがって、まず、銅鋺を取りまく諸々の情報内容が比較的豊富な事例、すなわち、確実に銅鋺が副葬された前方後円墳を通して「関係」復元の手がかりを得ていくことが重要である。
整備事業に伴う近年の調査の結果、埼玉将軍山古墳の横穴式石室の石材には、直線距離で約120キロ離れた千葉県富津市金谷付近で採取される凝灰質砂岩が用いられていることが明らかにされた(註9)。石材の遠距離運搬と言えば、西日本では石棺石材の研究を通して、広範かつ継続的な地域間交流の一端が既に明らかにされている。このような長距離輸送には甚大な労働力と多くの情報が不可欠であり、おそらく様々な形での統制がなされた結果、作業に従事した人々は帰属集団の一体性を一層強く意識させられたことであろう。さらには、地域間の協力関係が目的完遂の前提であったはずであり、また、これをますます促進させたことは想像に難くない。埼玉将軍山古墳と同型式の銅鋺が副葬されていた金鈴塚古墳は、運搬に舟が利用されたにせよ、石材採取地からの運送経路の途上に位置する。おそらく、双方に代表される集団の間では、相当に密接な連携が果たされたはずである。
さらに、埼玉将軍山古墳の墳丘形態や規模に関して、従来よりも詳細な検討が可能になった点も重要である。すなわち、前方部の形状は後円部に比して長く、かつ、幅広く復元され、このような特色は、金鈴塚古墳だけではなく、石材採取地の近くに位置する内裏塚古墳群の稲荷山古墳、三条塚古墳、古塚古墳に共通することが指摘されている(註10)。後円部径を8等分した「区」を用いて墳丘形態の特色を表示する方法(註11)によると、埼玉将軍山古墳は前方部の長さが10区分(10区型)で、その前端幅は12ないし13区に復元される可能性がある。一方、内裏塚古墳群の3墳は同様に10区型で、いずれも前方部の前端幅は後円部径(8区)を大きく超える。これに対して、金鈴塚古墳と八幡観音塚古墳は、前方部の前端幅が後円部径を超えるものの、前者は8区型、後者は4区型に復元される。また、八幡観音塚古墳と同じ4区型の殿塚古墳の前方部前端幅は後円部径に等しく、殿塚古墳と後円部径が等しい小見真観寺古墳は不確実ながら7区型に復元される。このように、銅鋺が副葬された前方後円墳の墳丘形態には共通点とともに差異点も認められ、必ずしも単純な状況を呈してはいない。当該時期における墳丘企画の意味付けをふまえながら、様々な「関係」を明らかにしていくことがこれからの課題の1つである。
埼玉将軍山古墳から出土した銅鋺は、最終段階の前方後円墳に副葬された点を重視するか、あるいは長期に及ぶ銅鋺全体の推移を重視するかにより、異なった側面をあらわにするであろう。前者の場合は前方後円墳秩序がいまだ存続している中での評価であり、後者の場合は重要なイデオロギーの変化、すなわち仏教思想の浸透や政治体制の刷新を念頭においた評価と言える。
(倉林眞砂斗)
註1 柴田常惠、1905、「武蔵北埼玉郡埼玉村将軍塚」『東京人類学会雑誌』第231号