日本
栃木県宇都宮市雀宮町菖蒲塚(通称綾女塚)
古墳時代
高さ59.8cm
資料館人類・先史部門(AW. A864)
この人物埴輪は、1895年(明治28年)3月頃、栃木県宇都宮市雀宮町(旧下野国河内郡雀宮村)菖蒲塚の辺りから出土した、と報告されている(註1)。現在のJR東日本、東北本線雀宮駅において停車場の工事をしていた時のことであった。本館には、ほかに「栃木県宇都宮市雀宮町大人(ウシ)塚」から出土した埴輪円筒部が1点収蔵されている(登録番号A859)。菖蒲塚は一般的には綾女塚と記されており、台地上に築造された前方後円墳であったが、工事で削平されたために墳丘規模は不明である(註2)。
本資料は、1958年(昭和33年)2月8日に重要文化財の指定を受けた。その指定書「考第179号」によれば、「栃木県宇都宮市雀宮町小字十里木牛塚」から出土した「長い丈の衣を放り着た女子像」で、高さは「一尺九寸七分五厘(=約59.8センチ)」、「円筒部欠失」となっている。1959年(昭和34年)頃、本資料は不幸にして盗難に遭い、おそらく美術的価値を高めるために欠損部分に手が加えられたため、いくつかの点で出土時の様子とは異なっている。幸いにして、手が加えられる以前の写真が公表されていた(註3)ため、その旧状を知ることができる(写真1)。これによれば、主として、頭髪表現の大半、耳および頸部の装飾表現、着衣の結び紐表現および裾部に手が加えられ、円筒部分は後からまったく付け足されたものであることがわかる。また、『東京人類学会雑誌』第112号に添付された「着色埴輪土偶ノ図」(井上喜久次氏紀念図版)(挿図2)によれば、赤色塗料で彩色された部分が存在したはずであるが、現状ではそのごく一部がかろうじて認められるだけである。
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後頭部には、頭髪表現として、撥の先端部に類似する板状品が上方および下方に円弧を描くように取り付けられている。このような頭髪表現は発掘調査で出土した人物埴輪にも認められる。前髪や鬢(左右側面の髪)を張り出して髷の中ほどを元結で締めるいわゆる「島田髷」に似た髪の結い方を表現していると考えられている。額の部分には一条の突帯が巡らされており、八木奘三郎氏はこれを髪結いと一連のものとして捉え、「髪抑え」と呼んでいる。
両耳の下半には環状の耳環が、また、頸部には直径1センチ程度の小円盤を連ねて頸飾が表現されており、これも類例は少なくない。しかし、これらは周辺の器表面とは明らかに違和感がある。八木氏の報文によれば、いずれも痕跡が認められただけで、これは参考写真からも確認することができる。したがって、盗難による紛失時につけ加えられたものと考えて良いであろう。なお、両眼の周辺から両頬にかけて施されていた長楕円形状の彩色は、八木氏の観察時にはかなり鮮明であったため、類例に目を向けるきっかけになったようである。
胸部には、粘土塊を貼り付けて直径3センチほどの乳房が表現されており、本資料が女子像であることを決定づけている。着衣の丈は長く、本来の円筒部は現状に近い形で裾端内側に直接取り付けられていたと考えられる。胸部と腹部の2カ所で結び紐が表現されているが、やはり八木報告と参考写真によれば、もともと剥落欠損していたものが痕跡を手がかりにしてこのように復元されたようである。頸飾下から裾部の向かって右方まで1本の沈線が刻され、これと3センチほどの間隔をあけて段差が作り出されている。その間には、右下がり、左下がりの斜沈線が交互に連続的にひかれ、結果的に連続三角紋が帯状に表現されている。先の「着色埴輪土偶ノ図」によれば、赤色塗料でも同様の表現がなされていたらしい。2カ所の結び紐は、向かって右側の段差が作り出すラインにほぼ沿うように取り付けられていたことは間違いなく、いわゆる「左衽(ひだりまえ)」であったことがわかる。 ここで取り上げた埴輪女子像は、かなり早い段階に、思いがけず考古学の世界に飛び込んできた。したがって、同じような経緯をたどった多くの考古資料と同様に、これを取りまいていた様々な「関係」から切り離されて存在する。一方で、造作の丁寧さもさることながら、おそらく女子像が希少であったが故に珍品としての取り扱いを受け、結果として盗難に遭い、再び本学に収蔵されるという数奇な運命をたどった。その経緯に関しては、当時理学部人類学教室の主任教授で、現在は東京大学名誉教授である鈴木尚先生から直接うかがうことができた。重要文化財の指定を受けた翌年の春頃、出品依頼を受けた折に盗難に遭っていることが判明し、海外に流出する可能性も念頭におかれて写真付きの手配書がすみやかに作成され、国内およびアメリカ合衆国で配布されたらしい。その効もあってか、事件発覚から1年も経たずに都内世田谷区の古物商から該当品が持ち込まれた、との申し出がなされた。無事に回収されたために示談となり、以後は厳重な文化財管理がなされるに至っている。当時の伝聞によれば、欠損部分に手を加えたのは窃盗した当人で、その際には粘土や石膏ではなくどうやら餅が使われたらしい。細部にわたって細やかな手当がなされたさまを目の当たりにすると、十分に納得させられる話である。
現在では、人物埴輪全体は言うに及ばず、女子(巫女を含む)像に限っても資料の蓄積は著しい。したがって、これらとの比較検討を通して、また、地域的な検討が推し進められていくことにより、この埴輪の考古資料としての側面は間違いなく再生されると思われる。
(倉林眞砂斗)
註1 八木奘三郎、1895、「各地発見ノ埴輪類」『東京人類学会雑誌』第112号