46 元久印「雪景山水図扇面」
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紙本墨画
日本
室町時代(16世紀)
縦20.9cm、横53.8cm
大徳寺真珠庵、入江波光氏、ハリー・パッカード氏、メトロポリタン東洋美術研究センター旧蔵。
文学部美術史研究室
47 元久印「柳に鵯図扇面」
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紙本墨画
日本
室町時代(16世紀)
縦21.0cm、横52.8cm
大徳寺真珠庵、入江波光氏、ハリー・パッカード氏、メトロポリタン東洋美術研究センター旧蔵。
文学部美術史研究室
このうち、大阪大学所蔵の二面については、すでに武田恒夫氏によって、大阪大学美学科の研究紀要『フィロカリア』誌上に紹介されている。ただし、ここで武田氏は、この二面は旧入江家本とは別本とされているが、これは誤りであることを指摘しておく。大阪大学の二面も、ここに展観する本学の二面(この当時はメトロポリタン東洋美術研究センターの所蔵であり、武田氏はこの二面についても言及する)も、紛れもなく入江家旧蔵の六十面の一部であり、近年屏風より剥がされたものであることは疑い得ない。田中氏の掲載した戦前の写真と現状との比較は容易ではなく、おそらく戦後になってからの補修、補筆が加えられていることが考えられるが、画面の損傷の位置までも一致することから、この事実は明らかである。また、この六十面のうちのかなりの数が京都某家の所蔵するところとなり、平成元年、和泉市久保惣記念美術館で開催された「扇絵」展にはそのうち6面が展示されている(同館学芸員河田昌之氏のご教示による)。また、平成5年に刊行された宮島新一氏の『扇面画(中世編)』(至文堂『日本の美術』320号)には、このうちの一面、秋草に兎図が掲載されている。さらに、この入江家旧蔵本の他に、「元久」印を捺す作例として、永青文庫所蔵の扇面貼交屏風六曲一双が知られる(宮島氏の著作に一隻のみ掲載されている)。金砂子を撒いた屏風一双に各隻15面ずつ貼付したもので、このうち一面には元信印、二面には印文不詳の印がある他、二面にはいずれも元久印が捺される。筆者は未だ実見の機会をもちえないが、写真で判断するかぎり、印影は共通し、様式からも同一筆者の作とすることに問題はないと思われる。
本図の印章(挿図3)にその名を留める「元久」なる画家については、その伝記史料は一切伝わっていない。また、江戸時代の画史画伝類においても、元久の存在について触れるのはわずかに幕末の『古画備考』のみである。その記述もきわめて簡略なもので、印章を掲げた後に「画鯉魚図」とするのみである。『古画備考』が明治において増訂された際の記述である(補)の部分には「扇面墨画人物、元信ニ似タリ」という注記があるが、これとて伝世した画幅のみから判断したコメントに過ぎまい。この画家に関する情報は、17世紀以降ほとんど忘れ去られ、その存在を示すのはわずかな扇面画の遺作のみなのである。
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さて、この元久なる画家は、様式から判断して16世紀の狩野派の画家であることは間違いない。かつて田中喜作氏によって考証された通りである。その図様、筆法は、ほとんどが他の狩野派の扇面に類例を見いだすことができる。狩野派工房が扇面画の制作に精力的に取り組んだことは明らかである。元信が天文8年(1539年)、扇座の利権の確保を幕府に申し出ているのをはじめとして(『古画備考』「狩野譜」参照)、狩野派の扇面画制作に関する史料はかなりある。現存作品も、南禅寺蔵扇面貼交屏風、笹間家旧蔵扇面画帖(現文化庁蔵)をはじめとして、かなりの数にのぼる。未だ紹介されることなく埋もれている作品に出会う機会も多い。16世紀前半、元信の時代にはおそらく数十人の弟子を抱えていたのではないかと思われ、扇面画制作は狩野派を支える大きな柱の1つになっていたと考えられる。障壁画の制作が、一門の総力を結集して取り組む最も大規模なプロジェクトだったとすれば、扇面画の制作は、流派の屋台骨を支える地道な営業活動だったとも言えよう。
元久は狩野派工房の中にあっていかなる存在だったのだろうか。田中氏は、旧入江家本に対して、「元信の一体を追ふて織豊期にまで盛行した画体、少くとも是れを一珍蹟と見ることはできよう」というやや消極的な評価をする。辻惟雄氏は、初期狩野派の優れた作例である四季山水図屏風(個人蔵)の解説(『美術研究』の249号)の中で、元久をこの屏風の筆者として想定する可能性を示唆され、この画家に対して積極的な評価を与える。筆者は、この画家は元信様式をかなり保守的に遵守しつつ、永徳の時代まで生き延びた古参の画家で、狩野派工房の末端に位置していた人物ではないかと考えている。永青文庫本に元信印を捺すものがあり、旧入江家本に永徳の使用印である州信印を捺すものがあること、また、17世紀以降の画史画伝類にまったく記述がないことから考えて狩野派の中枢を占める画家とは考えにくいことなどがこの推測の根拠となる。辻氏の紹介した屏風は、むしろ狩野派中枢の本格的な画技を身につけた画家の手になる優作というべきで、元久にアトリビュートできる可能性は低い。狩野派工房の中にあっては、さまざまな階層の画家がいたであろうことが推測され、この屏風の筆者としては、より重要なポジションを占めた画家を想定すべきだろう。
ところで、この旧入江家本には、州信印の捺される一面を除いて、摺畳線がまったくない。すなわち、南禅寺本、旧笹間家本のように、実際に骨付きの扇として使用されたものを後に改装したものではなく、当初から何らかの画面に貼付することを想定したものと考えられる。実は、16世紀の扇面にはこのような例がかなりあって、筆者は、一種の見本、すなわち、パターン・ブックとしての機能を有していたものではないかと推定している。旧入江家本の他にも、たとえば久松家旧蔵式部輝忠筆扇面貼交屏風(現在は諸家に分蔵、『国華』1084号所収拙稿「式部輝忠の研究」参照)のように、六十面一具で山水・人物・花鳥と、意識的にヴァラエティに富んだ画題を組み合わせた例がある。このような扇面貼交屏風の機能は、16世紀における画家と注文主の関係を考える時に、重要な示唆を与えるものと思われる。
この二面自体は16世紀の狩野派の扇面画の作例として標準的かつ類型的なものであるが、その伝来の経緯、当初の様態を考える時、中世絵画史にとって少なからず重要な問題を示唆することが理解されよう。
(山下裕二)