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壁画

(ホータン・キジル)


キジル石窟壁画断片

図録番号25、26の壁画断片は、トルファン出土仏教壁画として購入されているが、明らかにドイツの4次にわたる西域北道を中心とする探検隊、特に第3、4次のそれにおいてル・コックによりキジル石窟から採集されたものである。ドイツ隊はグリュンウェデル、ル・コックを中心として各遺跡の壁画を詳細に記録し、大型の図録、Sptantike(註1)全7巻に纏めて刊行した。その偉業は1922年から1933年にわたったが、ドイツ敗戦後の未曽有のインフレに遭遇し、出版刊行費補填のため、一旦はベルリンに齎された収集品のかなり、特に第4次のものの多くの売却を余儀なくされたのである。これら旧ル・コック・コレクションはそのほとんどが壁面から剥ぎ取られた小像や尊像顔面など小品であったが、ドイツ国外、主に欧米に向けて売り出され、日本では井上恒一氏が20点(すべて菩薩、天部、比丘等の頭部)を所蔵、そのうち10点の図版が『国華』632号(註2)に掲載され、さらに熊谷宣夫氏によって各画面の記述と各々の原在窟が紹介されている(註3)。上野アキ氏は欧米各地に散在する7、80点にも上る壁画断片について、所蔵者、画面内容、寸法、裏書(後述)、原所在窟など詳細なデータを一覧表にまとめ、さらにキジル第3区マヤ洞窟壁画説法図中から剥離された断片について、Kultsttten(註4)の詳細な記述に照らしてその原所在箇所を確認した(註5)。しかし同氏も本壁画断片2点の存在については知るところなく、同氏の指導のもとに開催された1988年の大和文華館での展覧会準備の過程で初めて出会ったとのことである。

ところで前述の上野氏の労作である旧ル・コック・コレクション・キジル壁画断片一覧にも記載されているように、各断片のほとんどは、裏打ちの石膏に鉛筆もしくは彫り書きで、第何回探検、キジル石窟、窟寺名(ドイツ隊は各窟に何らかの特徴を見出しその名をつけて呼んだ)、壁面位置、番号などの覚書が施されている。本壁画断片2点も例外ではあるまいと思われるが、堅固な額縁に埋め込まれた上、背面は厚い板がきつくネジ止めされており、今回は敢えて裏板を外して覚書を読むことはしなかった。従って2点の壁画断片の原所在窟や位置、さらには制作年代の判定には、画面そのものの詳細な観察によって、その様式的特徴を把握すること、ドイツ隊が壁画を調査・採集、または撮影した窟についての諸資料・記録との照合作業が解説者に課せられることとなった。前記Sptantikeをはじめ、Alt Kutscha(註6)Kultstttenを博捜する一方、壁画の現状を収めた各種図録にも手がかりを求めたが、徒労に終った。

しかしその結果として、後述するように2点の壁画断片それぞれに、他には見出し得ない表現をわずかではあるが認めることが出来た。むしろ将来、裏の覚書により原所在窟を明らかにした上で、それらの究明に努めるべきかと思われる。

(田口榮一)

註1 Le Coq, A. von, Die Buddhistische Sptantike in Mittelasien, 7 vols, Berlin, 1922-33
註2 「亀茲古代壁画」『国華』632号、昭和18年
註3 熊谷宣夫、1948、「井上コレクションのキジル壁画断片について」『仏教芸術』2、昭和23年
註4 Grnwedel, A., Alt-Buddhistische Kultsttten in Chinesische Turkistan, Berlin, 1912.
註5 上野アキ「キジル第3区マヤ洞壁画説法図(上)——ル・コック収集西域壁画調査(2)」『美術研究』312号、1980年、同上(続)『美術研究』313号、1980年。なお同氏の「—ル・コック収集西域壁画調査(1)—」は「キジル日本人洞の壁画」『美術研究』308号、1978年
註6 Grnwedel, A., Alt-Kutscha, 2 vols, Berlin, 1920.


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