空間の覚醒

セルジオ・カラトローニ
東京大学総合研究博物館
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Marrakech[マラケシュ] 砂漠の中の赤い女王。日中は、純粋な色彩の魔術が太陽の下にはじけ、夜は夜で、ラピスラズリ色の空に一握りの銀色の紙玉を散らしたように星が輝く。

Mediterraneo[地中海世界] 地中海世界に生まれた建築家は、大理石の白い光と空の青、海の紺青に執着する。デ・キリコの絵画に見られるような、夏の日中の光として描かれる光と影の清浄感を忘れることができない。素材を割りつくすかの、まるで射ぬくように強い光は、異なる次元の世界に届くかのようにも思われる。地中海世界に生まれた建築家は、柔らかな手先を持っており、優雅に絵を描き、何世紀にも亘って人々の記憶に残るような創造を行うことができる。

Mimmo Paladino[ミンモ・パラディノ] ミンモ・パラディノは、チェーン・スモーカーである。私に、彼にとっては最も美味しいというブランドのコーヒーをご馳走してくれる。縮れた白髪が目立ってきたが、笑顔は今なお、小学校4年の子供のものだ。

Mi ha sempre[常に私に……た] 文学者の仕事と芸術家の仕事に、これまで、常に暗示を受けてきた。90パーセントの建築家達の仕事は重すぎ、しかも、何ら驚かされるところのない、予測可能な内容である。

 素材が作る言葉、光が作る色は、魂にとって豊かな滋養となる。

Muri[城壁] 東京には、城の跡に、大きな石積みの壁が残っている。目をつぶると、古えの輝きが脳裏に浮かんでくる。

Museografia[博物館学] 芸術を包含する芸術。しかし、また心理現象でもある。官能的な実験と定義

することも可能だろう。石膏像の陳列室を訪れた折りに、ある種の性的旋律を覚えた体験を持つ観客の数は、少なくないはずだ。これは、同学の綱領を作るにあたって、疑いなく良い徴候である。

No accontentarsi dei luoghi comuni[皆が一致して納得することに満足しないこと] 往々にして、あまりに明快な意見は、大いなる無知を隠しているものである。また、洗練された言葉は、愚かな高慢さを隠蔽するものであったりもする。

 思考は常に未完成なものである。ふたつの相対する力の間の、動的な均衡の関係である。従って、思考は、常に変化を続けていくものなのである。

 大多数が一致して好む場所、好む話題、好む思想、好む物等は、大変な速度で広まるウイルスの一種である。ここから離れる唯一の方法は、各人が心の底から感ずるものについての責任を全うすることである。溶け合うことの決してない対立を、少なからぬ量、創り上げることである。我々にできることは、良い考えを獲得したなら、それまでの考えを変えることに気づくよう努めることである。これは、受動性についての訓練にとっても、良い機会とな恥る。より良い機会が到来するまで耳を傾け続けること。これが、私の意味する受動的と称する内容である。食虫植物にとっても、かなり困難な訓練のように思われる。

Oggi[今日] 今日、私は見た。何台もの乗用車が停められている墓地を。間違いなく、より醜いものに取って代わられるために壊された木造建築を。東京に来て、我を忘れてしまったかのニジェール人を。

Ordinatore di dati[データを組織する者] 機械の美学が、すでに、マリネッティとその仲間の世代の人々を夢中にさせていたことは、記憶に新しい。

 今日、我々も、新たに、機械に狂乱する情況を生きている。コンピュータなしでは、生きられもしなければ、プロジェクトも立てられないかのように。全てが仮想である。仮想、これも、不運なことに、サバンナにおいてまで大流行の単語となっている。

 コンピュータは多くの人々の手に渡っている。携帯電話も同様である。先端技術が生んだ道具への熱は、いずれ収まるに違いないという観方は強い。

 機械の持つ可能性と美学へ、全員が流れていくというのは、普通ではない。重要なのは人間の方であり、人間の持つ考えの広がりの方である。機械は常に、その後に続く。機械の方が重要であったことは、ただの1度もない。道具に過ぎない。機械は常に新しく改革され、流行遅れになっていくのを待っている。そういう存在である。出発点から、すでに死んでいるものなのである。常に据え替えが可能であり、改訂が可能であり、解体が可能であるような存在である。

 コンピュータは、超機械という英雄像を人々の間に成立させてしまっている。人々の頭の中には、スーパーマンの像が結ばれる。全てを管理し、全てを可能にするような。コンピュータが大多数の人々を輝きつけるのは、ボタンを押すだけで、イメージの世界に入ることが可能だからである。

 私に関心があるのは、人間が行うプロジェクトの方だ。機械の行うプロジェクトではない。道具としての機械は、プロシェクトそのものの重要さ以上のことを可能にすることはできない。本物のプロジェクトに欠けていれば、機械は、唯一の、想像可能な現実となる。創意の終焉である。

Picasso[ピカソ] ピカソは、短パンをはいた動物である。

Perche faccio fotografie[なぜ、私は写真を撮るのか] 何と答えたら良いのだろう。常に説明がある訳ではないから。

Plexiglass[アクリルガラス] あらゆる展覧会で、私はアクリル板を見た。その役割は、展示物の保護にある。透明な箱。塗装された土台の上に据えられた透明な箱が、部屋の中央にばらばらな秩序で並べられる。この冷たい箱の中に、各時代の美術品が陳列されるる。展示物の生きた身体から別れた防御用のまゆ。クリスタルの透明感。

 しかし、この素材は、一般的に考えられている以上のものを、思いがけずも提供してくれもすれば、大いに柔軟な対応を要求もしてくる。

 アクリルガラスは、縁が切り取られて磨かれると、切り口が生命を帯び始める。アクリル板の厚味が光を捕らえ、信じ難いほどの透明感を見せる。エネルギーを蓄えるのである。こうして、空間が変わる。

 マラケシュ、ダマスカス、ローマ、東京、ニューデリーなどで、店の正面に半透明のアクリル板製の箱を吊るした例には、少なくない数、出会っている。内部に蛍光灯を入れた乳白色の箱である。色のハレーションが、アスファルトの上に、ショーウィンドゥに、通行人の横顔に、停められた車の上に、断続的に降りかかる。これらの例においては、箱の中に赤く熱い電球が隠されているのである。

 アクリル板は品の良くない素材とみなされている。変色もすれば、傷もつくと。透明で真っ白なアクリル板は、真っ黒な重油から生まれる。夜が昼に代わるようなものだ。この事実は、一連の、象徴的な関係を想像させる。1960年代のアーティスト達は、その時代にも高価だった、この貴重な素材に惚れ込んだ。

 マロッタは、イタリアにおける、アクリル板の讃美者の代表たる人物である。蛍光色のオレンジのアクリルを使って、花を象った彼の指輪のことは、今もなお、記憶に生きている。それが成功して、彼はポメツィアに会社まで作ってしまった。ポメツィアは、経済ブームが、イタリアの進歩の象徴としての化学工業をもたらした地域である。マロッタは、アクリル板の魔術師であった。彼の後に倉俣史朗が続く。透明感を繰る小説家であり、アクリル板に魂を注いだ、静かな詩人である。忘れ去られていたこの素材を、決定的に身請けした人物である。

 私は、建築とデザインについての関心が、私の場合には光をデザインすることにあることに気づいた時から、この素材を使い始めた。空間から素材感を排除し、継続した動きを空間に与えるという考えに従って、光を、空間を形造る素材に至らしめることを始めた時から。こうして、アクリルガラスは、私のシミュレーターとなった。私にとっては、アクリルガラスは、もうひとつ別の次元の空間を追求できる能力を秘めた道具である。

Qualche volta[時折り] 時として、何かによって興奮して震えることがある。すると、何かが見えてくる。この何かが、頭の中に残る。残って記憶となる。何年間が過ぎても、これは蒸発したりしてしまわない。この何かは、説明が不要なほどに、強い自分を持っている。汎世界的な言葉を話す。

Quando la citta crollavano[都市が壊れた時] 都市が壊れると、そこを離れて新しい町を造った。建築の骨組みが、風に吹かれて残っている。これを、私は叙事的な風景と呼ぶ。

Realtà[現実] 現実とは、大きな言葉である。定義することもむずかしい。強烈な単語である。発生する、あらゆることについての正確な記述とでも言えようか。しかし、私には、例え、正しい時間の順序に、全ての詳細についてを列挙したところで、充分に的を得ているようには思えない。自然界においては、出来事は実にあいまいである。だからであろう、現実主義者であろうとすると、何かが変化してしまう。抽象の領域に横滑りしてしまう、と表す方が正確かもしれない。かなりの量の抽象概念を含んでいるということである。現実主義の芸術。抽象芸術。この両者の境は、大いに漠然としている。

Scrivere[書く] 美しい筆跡で書かれたコーランは、若い建築家のための道標としての良き教材である。

Se deve scegliere[もしも選ばねばならないのであれば] もしも選ばねばならないのであれは、アラブ庭園に留まることを選ぶ。そこは、一生、寝そべって過ごすことのできる、この世の極楽である。例えば、オレンジの実る冬のグラナダなどの庭園に。




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