ナウマンやブラウンスの記載したゾウ化石標本


清水正明 東京大学総合研究博物館



1 はじめに


 ナウマンゾウとしてよく知られているゾウ化石(Palaeoloxodon naumanni Makiyama)は、ナウマンが明治15(1882)年に記載したElephas namadicus Falconer & Cautleyを槇山次郎が大正13(1924)年に命名したものである。ナウマンゾウは第四紀更新世中期から後期にかけて生息した、肩高2—3メートルの長鼻類で、現在までに国内各地約200ヵ所からその化石が発見されている。属名については、犬塚則久はPalaeoloxodonを使用することを再提唱したが[犬塚1977]、一般には、Elephas属の亜種として扱われることも多い。なお、アオモリゾウ等多くの近縁種や亜種が提唱されたが、それらは高橋啓一により、ナウマンゾウと同一であるとされている[高橋1991]。

 本稿では、東京大学総合研究博物館地史古生物部門に保管されているナウマンやブラウンスの記載したゾウ化石3点について報告する。標本類や文献に関し、ご教示下さった市川健雄氏、犬塚則久氏に深く感謝いたします。


2 ナウマンとブラウンスについて


 ナウマン(Heinrich Edmucd Naumann 1854—1927)は明治8(1875)年から12年まで、ブラウンス(David Brauns ?—1894)は明治12年から14年まで、東京大学理学部で地質学教授であったドイツ人である。ナウマンはドイツ、ザクセン王国(当時)マイセン生まれで、明治7(1874)年にミュンヘン大学のチッテル(Karl von Zittel 1839—1904)教授の指導を受け、博士号を取得し、明治8年に来日した。明治18年に帰国するまで、東京開成学校、東京大学で最初の地質学教授や彼の建議で設立された地質調査所で所長格の技師長を勤め、黎明期の日本の地質学、鉱物学、鉱山学において指導的役割を果たした人物である。ブラウンスは元来医師であるが、ハレ大学で地質学を学び、明治12年にナウマンの後任として来日し、明治15年に帰国した。


3 ナウマンとブラウンスの記載したゾウ化石について


 ふたりはそれぞれ、「史前時代の日本のゾウについて」(Ueber japanische Elephanten der Vorzeit)、「日本の洪積世哺乳動物について」(Ueber japanische diluviale Säugethiere)というタイトルで、以下のようなゾウ化石を発表した。前者は日本の哺乳類化石の最初の記載である。

 ナウマンが記載したゾウ化石は5点が保管されており、そのうち2点はオリジナルで、3点はレプリカである。オリジナルの2点のうち、ひとつはStegodon cliftii Falconer & Cautleyの左下顎臼歯[81]で、1860年に瀬戸内海の小豆島付近の海底から地元漁師により採取されたものである。ここからは1830年頃にも同様の化石が2点見出されているという。もうひとつはElephas namadicus Falconer & Cautleyの下顎臼歯[82]で、東京都中央区の江戸橋付近(旧江戸橋郵便局の近く)で、河川改修の際に発見されたものである。

 ブラウンスが記載したゾウ化石は1点のみが保管されている。Elephas (Euelephas) antiquus Falconerの臼歯[85]で、茨城県稲敷郡木原村の利根川と霞ヶ浦の出会い付近から地元漁師が発見したものである。

 ナウマンによれば、[82]と同様のゾウ化石はほかに以下の3点があると報告されている[Naumann 1882]。

[一]1876年頃神奈川県横須賀市稲岡町白杣山(はくせんざん)の丘(この丘の別の洞穴からは人の頭骨や剣が発見された)にある洞穴から発見され、博物局に保管されているもの。この標本を用い、1924年に槇山次郎はインドで産出した模式標本と比較検討した結果、その亜種としてナウマンゾウ(Palaeoloxodon naumanni Makiyama)と命名した。
[二]大阪の商人がおそらく和歌山県で見つけ、上野の博物館に保管されているもの。
[三]茨城県稲敷郡木原村の利根川と霞ヶ浦の出会い付近から地元漁師が発見し、東京大学に保管されているもの。

 この三番目はブラウンスが記載したゾウ化石である。ブラウンスはナウマンの記載したElephas namadicus Falconer & CautleyはElephas (Euelephas) antiquns Falconerであると考え、種の同定において、ナウマンとは異なった見解を示した。


4 おわりに


 東京大学総合研究博物館地史古生物部門には、ナウマンやブラウンスの記載したゾウ化石標本が合計6点保管されている。戦争中には山形県大石田に疎開されたりして、百年以上も守られ続けている。今こそ、学問的に再検討、再研究してほしい標本である。



【参考文献】

Brauns, D., Ueber japanische diluviale Säugethiere. Zeitschrift der Deutschen geologischen Gesellschaft, 1883, Bd. 35. Heft 1, pp.1-58, pl,1.
犬塚則久「千葉県下総町猿山産のナウマンゾウ(Palaeoloxodon naumanni)の頭蓋について」、『地質学雑誌』83、1977年、523—536頁。
Naumann, E., Ueber japanische Elephanten der Vorzeit. Palaeontographica, 1882, Bd. 28, pp.1-40, pls.1-7.
Makiyama, J., Notes on a fossil elephant from Sahamma, Totomi. Mem. Coll. Sci.Kyoto Imp. Univ., 1924, [B], 1, 255-264.
高橋啓一「ナウマンゾウの変異」、亀井節夫編『日本の長鼻類化石』、築地書館、1991年、147—153頁。



[エドムンド・ナウマンの遺品]



81 ナウマン象の化石 Stegodon cliftii Falconer & Cautley
縦23.0cm、横9.0cm、高11.5cm、総合研究博物館地史古生物部門


82 ナウマン象の化石 Elephas namadicus Falconer & Cautley
昭和2(1927)年、東京都中央区江戸橋付近出土、縦14.3cm、横5.7cm、高13.0cm、「東京市日本橋郵便局」の記載あり、総合研究博物館地史古生物部門


83 コンパス(木製ケース付)
明治初期、真鍮、鉄、ドイツ製、径14.5cm、「Naumann」と記された紙片がケース底に貼付、理学系研究科地質学教室

「この磁器は余が滞欧中当地質学教室に於て保存される可く、フランクフルトのセンケンベルク博物館よりR・リヒター教授を経て貰い受けたるナウマン氏日本地質踏査当時の衣鉢である。即ち我国地質構造論の第一頁が本器と共に起稿せられたのである。余は之を見る時、地形図さえ完備せざる当時、僅かに集められたる地質学的観察事項を綜合して、日本地質構造論を樹立されたる氏の洞察力に感服せざるを得ない」(小林貞一の箱書より)


84 講義録
洋装本、縦23.0cm、横18.0cm、「明(治)十(年)九月廿四日能満口述金石學小藤文次郎記」の墨書あり、理学系研究科地質学教室

小藤文次郎(1856—1935)は明治12年に東京大学理学部地質学科を卒業し(最初の卒業生)、明治18(1885)年から大正10(1921)年まで地質学教授を務めた、日本の地質学の開祖的存在である。明治10年から12年にかけてのナウマン教授による地質学、金石学(鉱物学)、古生学(古生物学)の講義を学生時代の小藤が英語で書きとめたもので、他に、開成学校時代のヴィヴィダルの物理学、ロバート・W・アトキンソン(1850—1929)の化学関係の講義ノートも残されている。(清水)


[デイヴィッド・ブラウンスの遺品]



85 ナウマン象の化石 Palaeoloxodon namadicus naumanni (Makiyama)
明治16(1883)年、茨城縣稲敷郡木原村出土、縦16.2cm、横16.5cm、高7.0cm、「ELEPHUS ANTICUS Falcony, Diluvial, Loc. Kiharamura」の記載あり、総合研究博物館地質学部門のラベルに「Elephas (Euelephas) antiquus Falconer」の記載あり、総合研究博物館地史古生物部門



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