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研究部から

博物館旧館2階展示ホールの公開

田賀井 篤平


博物館旧館の2階に吹き抜けと回廊をもった展示ホールがあることは、あまり広くは知られていません。1階展示ホールと同じようにタイルとコンクリートの素材で空間が形づくられています。このホールは、勿論公開を前提に建築されたものですが、消防法上、公開施設に課せられた「2つの独立した避難路」という条件を備えていなかったために、今日まで一般には公開されていませんでした。この度、展示ホール西側に非常階段が設置され、上記の条件を満たすことができたために、新たな展示を企画して公開することになりました。この原稿を書いている時点では、展示の詳細が検討中であるので、その詳細について述べることはできません。現段階では、例えば前年度までの常設展として好評であった「骨」展から、世界と日本の頭骨総覧標本、アウストラロピテクス・アファレンシスのルーシー、津雲貝塚出土の埋葬人骨の復元標本などの展示、或いは若林コレクション鉱物標本、非南極産隕石標本、ヒマラヤ植物おし葉標本などの展示が計画されています。いずれも、博物館教官が日常密接に接している標本群ですが、この展示を通じて博物館教官の教育研究の一面にスポットを当て、大学博物館における標本と教育・研究の係わりを明らかにしてみたいと思います。この展示ホールは、特別展「北の異界」の開催に伴って公開します。

旧館2階展示ホール。ルーシー(左)と津雲貝塚縄文人の骨格標本がみえる。

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(本館教授/バイオ鉱物学)

研究部から

東アジア植物学とデータベース(上)

デビッド・ブフォード


写真1 現地の交通手段。ガンドルング村からアンナプルナ山脈を望む(ネパール、1999年4月)
自分自身を語るのは少し気がひけるが、自分の研究について少し書いてみたい。私は東アジアと北米中緯度地帯をフィールドにして植物地理学、系統植物学、ならびにその植物相を研究している。1970年代初頭、ノースカロライナ大学の学生だった頃、同級生のひとりがアパラチア山脈南部と東アジアに共通する植物の集成リストを見せてくれた。李恵林がまとめたものである。

それによって、両者が植物学的に緊密な関係を持っていることを私は初めて知った。アパラチア山脈南部はアパラチア山脈システムの一部で、中生代以降海面下に沈むこともなく、北方に発達した更新世の氷河を免れた地域である。北米中緯度地域としては最も雨がよく降る地域でもある。地形も変化に富んでおり、さまざまな岩石、土壌が発達しているので、植物の生育には理想的な地域となっている。

 そこには、中緯度地帯としては東アジアについで豊かな森林が発達している。東アジアと北米東部にしか生育していない植物のほとんど全てが、この地域に見られる。もちろん東アジアの方が植物の種類は豊富だ。だが、北米東部地域でみられるアジアの固有種、たとえばツクバネ属Buckleya、ユリノキ属Liriodendron、アケビ属Pieris、 サンカヨウ属Diphylleiaなど100種ほどのほとんどがアルパチア山脈南部に集中しているという事実は、実に謎めいて思えた。

 ノースカロライナ大学に在学中の二年間、私は夏に、他の学生と一緒にこの山脈南部にある特に豊富な植物群落の調査に参加する機会を得た。私に与えられた仕事は、調査地域の地点ごとの植物相のリストを作ることだった。つまり、個々の地域内の全ての植物について標本を採集し同定することである。時間のかかる仕事だからいやがる学生もいた。

だから、逆に、大部分の仕事を自分一人で受け持つことが出来たのは幸運だった。多くの新しい植物を目にし、またそれについて学び、それらの特徴や変異を理解できたし、生育地が限られている植物もあれば所かまわず生えている植物もあることを身をもって学んだ。東アジアの植物との類似点について理解を深めることもでき、分類や互いの関係のはっきりしない植物がたくさんあることも知った。

 この山での調査は夏の短期間のものだったが、機会を見つけては、北米東南部のいたるところの野外調査にも喜んで参加した。自宅から何時間もかかる海岸地帯へ遠出することもあった。

写真2 黒竜江省、ハルピンの氷祭り。アントニオ・ガウディのサグラダ・ファミリアを模した氷の像(中国、1995年1月) 写真3 苗族の女性と子供。貴州省松桃県にて(中国、1986年9月)
 修士の学位を取得してから、私はミズーリ州のセント・ルイスにあるワシントン大学の博士課程に進学した。この大学はミズーリ植物園と緊密に連携しており、植物園の学芸員たちはセント・ルイス地区のいくつかの大学で教鞭をとっていた。植物園の園長、ピーター・レーヴン博士はワシントン大学の生物学科の教授をしており、私の指導教官となった。

私がセント・ルイスに着いて間もなく、先生は、自分が長年研究してきたアカバナ科Onagraceaeのいくつかの属の一つの分類を研究する学生がいればなあ、といわれた。そのとき先生は三つの属を候補にあげられたが、その一つFuchsia はアメリカ大陸の熱帯地方に固有な属で、私には興味がわかなかった。Ludwigia という北米南東部に多いいくつかの種もあげられた。

Fuchsiaよりはましだったが、北米南東部は自分がかつて生活し学んだところだ。自分としてはもっと他の世界を見てみたかった。残りの一つの属、ミズタマソウ属Circaeaは、北半球の温帯・寒帯に広く分布しており、東アジアでは大きな多様性をもつ植物だった。もちろん私は他の研究テーマ、好きな植物を選んでも良かった。

だが、先生が「もしミズタマソウ属 を研究するなら、日本に行って調査したり植物標本を研究したりすることになるだろうな」といわれた時、もう全ては決まった。この属のほとんどは中国に見られるのだが、1970年代半ばという当時は、中国で野外調査することは考えられなかったし、植物園で研究ができるかどうかもわからなかった。

だが、日本なら調査ができる。レーヴン先生は当時京都大学の植物学教室におられた岩槻邦夫教授に連絡をとってくださり、私が1977年に日本を訪れる段取りをつけてくださった。

また、日本におけるミズタマソウ属の雑種についての論文を書いておられた東京大学の原寛教授に私が手紙を書いたところ、快い返事をくださり、どこを訪問したらいいかの詳しい情報も教えてくださった。後日、原教授にお会いしたときにミズタマソウ属 そのもの、あるいは日本におけるその雑種について話がはずんだものだ。そうこうしているうち、1976年にはワシントン大学での単位をとり、北米やヨーロッパの植物園から取り寄せた標本分析も終え、北米のフィールドでミズタマソウ属の集団を観察し、また、ミズタマソウ属のフラボノイドの研究を開始した。これは当時の植物分類学で流行していた研究分野だった。

写真4 おし葉標本や調査用具をはこぶポーターたち。貴州省江口県梵浄山での調査時(1986年9月)
写真5 半世紀ぶりにやってきた外国人を見ようと集まった現地の人たち。湖北省興山県(1980年8月)
 日本で過ごした時間はミズタマソウ属研究にとって大変重要なものであった。同時に、それによって私はアジアの植物に親しむことにもなった。京都大学に籍をおきつつ、日本各地の調査に出かけミズタマソウ属 の集団の研究をしたほか、その送粉者の観察や採集もした。また、ミズタマソウ属に関連のある植物も収集した。台湾に3週間ほど出かけ、高山に生育するミズタマソウ属 を観察することもあった。そこでは植物園で標本を集め研究したりもして、アジア植物相の違った一面を学んだ。岩槻教授、加藤雅博博士は京都にいる間、とても親切にしてくださった。当時の京都大学のスタッフや学生たちはみな親切だった。

 1978年に私は博士号を取得しペンシルバニア州、ピッツバーグにあるカーネギー自然史博物館に移った。そこでは、まず植物部門の標本管理係となり、後にはアシスタント・キュレーターになった。その年の初め、米国代表の植物学者団が中国を訪れ、共同調査の可能性を探るということがあった。1979年の夏の終わり頃、今度は中国側の代表団が米国を訪問し、大学や植物園を視察した。その結果、中国側は両国合同で中国国内巡検調査から共同調査を始めることに合意したのである。私は代表団のメンバーではなかったけれども、深い親交のあったブルース・バーソロミューが1980年夏に計画していた第一次調査団に誘ってくれた。何て事が進むのが速かったことか。1977年に初めてアジアに行ってから3年のうちに、中国は私にとって閉ざされた国から世界に開いた国へと変貌したのである。

 中国の調査は8月中旬から3ヶ月の予定で始めた。湖北省西部にでかけた。メタセコイアという長らく絶滅したと考えられていた植物が40年近くも前に発見された地域もそこに含まれる。調査地の中心は湖北省北西部にある神農架山森林地帯だった。ここの植物相や植生はびっくりするほど日本、そして北米南西部と似ていた。調査は大変な成功をおさめた。だが、10月中旬までしか続かなかった。残りの時間は中国の主な植物学研究機関を訪問し、将来、共同研究できそうな研究者を訪ねることにあてた。そして、この年の共同調査の一環として、1981年には5名の中国人研究者が米国にやってきた。その頃には、私はハーヴァード大学の植物標本館に移っていた。そこにはアジア産としては世界最良の植物学標本、そして植物学関係の豊富な蔵書があった。

 さい先よく始まった中国調査ではあったが、その後の1980年代の進展は遅々としたものだった。しかし1990年代初頭には、中国全土での調査が可能となり、私も毎年のように中国に出かけるようになった。当初の私の興味は、植物学的に見て日本や北米温帯地域と類似した地域にあった。しかし、1995年、米国の他の二人の植物学者と青海省を訪れたとき、私は青海−チベット高原の植物を目にし、その植物相の豊富さ、特異な形態、そして高緯度地帯における実に珍しい植物組成に深く感銘を受けた。そして、以後、横断山脈で調査をおこなうようになった。この山脈には、東ヒマラヤ地域、雲南−西康(四川)植物区系あるいは東ヒマラヤ・ホットスポットなど多くの呼び名がある。地形の広がりは西側の研究者にはよく知られていなかったが、生物学的にきわめて多様であることは既に知られていた。ここを東ヒマラヤ・ホットスポットと呼んだのは、ノーマン・メイヤーで1988年のことである。以後、ホットスポットという考え方がひろまり、今では世界中で25もの地域がそう呼ばれるようになっている。ホットスポットとはきわめて多種の植物や動物が観察される地域をいう。植物相のサイズと固有種の数が判断の決め手になる。面積は1.4パーセントしかないのに、既知の陸上植物・動物種のうち実に60パーセント以上がそうしたホットスポットに集中している。

 1997年以降は米国科学財団の援助を得て、四川省西部、チベット東部へ数度の現地調査をかさねてきた。その成果の一部は検索可能なかたちで、ウエブサイト (http://maen.huh.harvard.edu:8080/china)に公開している。(下に続く)

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(本館客員教授/植物学)
(和訳:西秋良宏)

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Ouroboros 第17号
東京大学総合研究博物館ニュース
発行日:平成14年5月10日
編集人:西秋良宏/発行人:高橋 進/発行所:東京大学総合研究博物館