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コレクション

埴原和郎と人類学——標本資料報告からのメッセージ

諏訪 元


図1 埴原コレクションの収蔵状況
本稿のごとき雑稿をもって、埴原和郎名誉教授の人類学を語ることには大きな問題があろう。しかし、ここに紹介する、間もなく本館から出版される2編の標本資料報告には、埴原和郎の人類学における歩みの重要な側面が実に良く表されているとの思いを抱かずにはいられない。この2編の資料報告とは、『埴原和郎歯牙石膏印象コレクション』と『現代日本人頭骨計測データ』である。

 歯牙石膏印象とは、上顎と下顎の歯列の全体を型取りして、それぞれの石膏模型を作成し、歯列ごとの模型をおおよそ8 cm×6 cm程度の石膏台に固定して個々の歯および歯列全体を観察・計測できるようにしたものである。歯の詳細な形態特徴は遺伝性が強く、人種集団ごとにその特徴を示すため、人類学上重要視されてきた。人類学を細分する場合、歯の形態特徴とその変異性の生物学的、進化学的意義を論ずる歯牙人類学(dental anthropology)の専門領域をなす。

 この度は、埴原コレクションを博物館の出版登録標本とし、その全貌を資料報告として提示する運びとなった。これにあたっては、各標本群を再検討し、さらには個々の標本に関する付随情報の確認と再整備を可能な限り行った。これをもって、本コレクションが永年にわたり最大限に活かされることが我々の願いである。

 埴原コレクションは、そのほとんどが1950年代と1960年代に収集された全6000点以上の石膏印象標本からなる。その中核をなすのは日米混血児調査関係の一連の標本群である。これらは戦後、須田昭義を長とするElizabeth Sanders Homeにおける日米混血児の追跡調査の一環として採取されたものであり、これらとの比較のため、日本人の標準標本がさらに集められた。今回のデータベースは調査年月日を含むもので、それを検索することにより、埴原の研究の「道のり」なるものを勝手ながら想像することができる。

 日米混血児の石膏印象標本の大部分(約150個体600組)は1952年から1956年までの4年半の間の毎月の追跡調査によって採取された。日本人標準標本の石膏印象採取は混血児調査立ち上げの直後に開始され、1953年末までに約120個体分の標本が収集された。翌1954年には、埴原による日本人乳歯の研究成果の第一報が『人類学雑誌』に発表され、1956年までに、乳切歯から上下顎乳臼歯すべてを網羅する研究成果が次々と論文化された。1957年末には総括論文が発表され、これら全5編の論文により埴原は理学博士の学位を取得した。1956年に埴原は札幌医科大学の講師に着任し、Elizabeth Sanders Homeにおける毎月の石膏印象採取は同年末に終了した。

図2 埴原の「基準模型」シリーズの一部。
 日本人と日米混血児乳歯に関する研究業績が世界的に知られることとなり、埴原は1959年から1年間、A. A. Dahlbergの招聘により、客員教授として米国シカゴ大学に赴いた。埴原はこの時期にアメリカ先住民、アフリカ系アメリカ人などの歯牙標本を多数観察する機会を得、乳歯による人種集団間比較の基盤を築いた。その一環として、埴原は乳歯形態評価のための「基準模型」を作成したが、これは著名なDahlbergによる永久歯の「基準模型」シリーズを補完するものであり、現在でも歯牙人類学における国際的基準となっている。

 埴原は以上の研究を発展させ、1966年には歯牙人類学においてランドマークとなる論文、“Mongoloid Dental Complex in the Deciduous Dentition”を発表した。この論文は、人種集団は歯牙形態の複合的傾向で特徴づけられ、特に東アジア・北米先住民集団は独自の形質群を持つことを論じたものであった。続いて1968年には永久歯におけるMongoloid Dental Complex に関する論文を発表した。これらの研究成果は歯牙人類学において先駆的なものであり、その後20年以上にわたり、特にアジア・アメリカ地域における多様な人類集団の比較研究が内外の多くの研究者によって進められ、人種集団の特徴づけとその形成史の解明における歯牙形態の有効性が実証された。現在では、世界各地域の人類集団における広範なデータの蓄積がさらに進み、いよいよ全世界の人種集団の特徴づけとホモ・サピエンスの起源そのものを視野に入れた研究へと歯牙人類学は展開しつつある。

 歯牙石膏印象標本の採取は1960年代を通して続けられ、1966年と1967年のアイヌ調査や1971年の沖縄調査のものが含まれている。アイヌ、沖縄を対象とした歯の研究成果は、1970年代から1980年代を通して、埴原が広範に展開した日本人集団の形成史に関する研究において一つの核となったと推測される。

 資料報告『現代日本人頭骨計測データ』は異色の標本資料報告である。1979年から1982年の間、埴原を代表とする「現代日本人頭骨研究班」が結成され、全国12の研究機関に収蔵されていた現代日本人頭蓋骨標本1349個体分が30名以上の班員の協力により統一的に計測され、データ化されることとなった。計測項目としては、世界の人種集団の計測データを埴原自らが多変量統計解析によって再検討し、その有効性が示された33項目が厳選された。

 現代日本人の地理的変異の実情が日本人集団の形成史に多くを示唆するものであることに埴原は着目した。埴原はまた、1950年代末以来、人類学における多変量解析の応用の世界的な先駆者であった。「現代日本人頭骨研究班」の結成とその実践は、まさにそうした背景のもとで行われたものと私は想像する。その計測データは、日本人の形成史に関する代表的な仮説である埴原の「二重構造モデル」においても重要な役割を果たしている。

 今回出版される資料報告「現代日本人頭骨計測データ」は、上記の「現代日本人頭骨研究班」による頭蓋骨計測データを研究利用に公開するものである。特に周知する必要があるのは、本資料報告の編集過程において、従来存在していた若干の誤りが検査、修正されたことである。資料報告に掲載される原データは、電子ファイルにて利用希望者に提供することとする。利用希望者は、東京大学総合研究博物館、人類先史部門まで連絡頂きたい(担当教官は諏訪元 suwa@um.u-tokyo.ac.jp)。

 

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(本館助教授/形態人類学)

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Ouroboros 第17号
東京大学総合研究博物館ニュース
発行日:平成14年5月10日
編集人:西秋良宏/発行人:高橋 進/発行所:東京大学総合研究博物館