41 複製マシーンとしての遺伝子





 子は親から、親はそのまた親から遺伝子を引き継いでいる。遺伝子は体の「設計図」であり、複製されて子孫に伝えられるものである。ヒトの子はヒトであり、蛙の子は蛙であるという、ヒト(蛙)がヒト(蛙)であるためのすべての情報を担うものが遺伝子である、この遺伝情報はデオキシリボ核酸(DNA: deoxyribonucleic acid)という物質に書き込まれている。私たちは、情報を伝えるのに文字を使用するが、遺伝情報も4つの文字で書かれている。A、T、C、Gという文字が並んだものというのは、私たちが新聞などのメディアでよく見かけるDNAの顔の一つだ。

 生物の体は細胞から出来ているが——人の場合は一兆個の細胞から出来ている——その一つ一つの細胞の中には、それぞれ30億個の文字を含む DNAが入っている。おもしろいことに、DNAの中で実際に遺伝子として働いているのは全体の5パーセント(1億5千万文字)に過ぎない。残りの95%の文字が何のためにあるのかは、よくわかっていない。

 私達の体の約70パーセントは水で出来ていて、残りの30パーセントの内18パーセントはタンパク質であり、つまり体から水を除いた6割がタンパク質ということになる。DNAの遺伝情報から体が作られるということは、こうしたミクロな視点からはタンパク質を作るということである。こうやって、親から伝えられた遺伝情報によって、ヒトならヒト、蛙なら蛙、蝶なら蝶という一つの生物個体になっていく。遺伝情報を介して、子は親の複製となり、子を産む行為を通して、生物は複製マシ—ンとして生きていると言えよう。ただし、親が祖父母に、子供が父母に似通っているとは言っても、完全な複製ではない。子供は親のヴァリエーションであり、親の完全なコピーでない多様な子供が産まれることで、生物は多様性を増し、進化してきたと言える。こんなにも大事な生物の多様性のおおもとには、複製の不完全さがある。不完全さと言うと否定的な印象があるが、生物進化論的には新しい形質と言う肯定的なイメージで捉えることができる。もともと、複製に際してエラーが生じるのは、避けられないことでもある。子孫を増やすためには複製という行為が必須であるが、この行為につきもののエラーは最小限度に押さえられている。生物は、その驚異的なエラーの制御能力によって、エラーの起こる確率を1千万文字に1文字に抑えている。この10のマイナス7乗と言う頻度は、しかし、ゼロではない。もしゼロなら生物は進化することもなかっただろう。

 では、遺伝情報はどうやって複製されるのだろうか。その仕組みは、実は、遺伝情報を担うDNA分子の形そのものに刷り込まれているのだ。DNAのもう一つの顔は二重らせんである。DNAが二重らせんという形を持っているということは、DNAが本質的に一対の存在であることを意味している。DNAを「綴って」いる4つの文字はA(アデニン)、T(チミン)、C(シトシン)、G(グアニン)の4種類の化合物だが、普通の文字とは違って、AはTと、CはGとそれぞれ対を作ることができる。AはTと、CはGとそれぞれに形の凹凸が一致していることが対の形成を可能にしている。いわばAとT、CとGはネガとポジの関係にあると言っても良い。このネガ・ポジの関係を専門家は「相補性」と呼んでいる。例えば、A、T、C、Gという文字列に対してT、A、G、Cというネガが作られ、このネガからもう一度、A、T、C、Gというポジが作られることでDNAの複製が作られる。そして、DNAの二重らせんは、このようなネガとポジが一対になって絡み合ったものである。

 このようにA、T、C、Gの4つの文字からできている文字列(遺伝情報)は、そのまま複製されるのではなく、「相補性」と言うルールにのっとって処理されて複製される。つまり、DNAの複製を作るという行為は情報の処理のとして捉える事が出来る。相補性のように単純なルールが情報処理と言えるのかと言う疑問に対しては、DNA分子は計算をすることができる、という最近の研究成果をその答えとしたい。計算と言うと、則演算がすぐに思い浮かぶが、ここでは計算=情報処理というように広く捉えたい。ここでコンピュータの簡単な仕組について考えてみよう。コンピュータは素子が本単位になっている。入力された情報を処理して、何らかの形にして出力し、伝達するのが素子の役割である。このような単純な働きの素子が複数組み合わさることで、複雑な回路を持つコンピュータとなる。素子が半導体なら従来のコンピュータ、ニューロンならば、それは脳となる。私達の脳も、一種のコンピュータなのだと言えよう。計算は従って、ある論理に基づく情報処理なのである。よって、DNAの複製とは、数の代わりに遺伝情報が インプットされて相補性というルールに基づき情報処理される計算であると言うことができる。このようなDNAの行う計算を人工的に制御して、数学的な計算に利用できるのではないかと言うアイデアから始まったのがDNAコンピュータの研究である。DNAを使って1994年に初めて実際に数学の問題を解いて見せたのが米国カリフォルニア大学のコンピュータ科学者エイドルマン博士である。博士の解いた問題は、決められた空路によって結ばれたいくつかの都市について、すべての都市を一度だけ通過する経路を探すことに相当する問題で、七都市間の飛行経路の問題を解くのに7日間かかった。このタイプの問題は、通常のコンピュータでは都市数や空路の増加にしたがって計算時間が指数関数的に増大する。しかしDNAコンピュータでは都市数が増えても、問題を解く時間はそれほど増大しない。DNAを使って問題を解くために、設計通りのDNAを作ったり、DNAどうしをつないだり、複製したりといった作業が必要となる。このような作業はDNAの入った試験管の中に酵素を加えることで可能になる。つまり、DNAコンピュータは液体中の分子の反応によって計算を行うコンピュータなのである。現在このコンピュータは開発途上で、東京大学でも研究が続けられている。
(小俣日登美)




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