カースト・コート形成史——複製美術品の機能と役割


金沢百枝 大学院総合文化研究科・西洋美術史学



はじめに


 ロンドンのヴィクトリア・アンド・アルバート美術館には、カースト・コート(cast courts「石膏レプリカ展示室」)と名づけられた「風変わり」な一画がある。十九世紀末にこの特別展示室が作られた当初は、「初めてモン・ブランを見たときの感動を感じる」と評され注目を集めたものだった[1]。ガラス張りの天井に届くほど高いトラヤヌスの円柱や、サンティアゴ・デ・コンポステーラの〈栄光の扉口〉の実寸大レプリカは、たとえオリジナルだけが持つとされるアウラを欠いていたとしても、観る者を圧倒するに十分な大きさである。イタリアやスペインを遠く離れた北の地で、かの有名な建築彫刻の片割れに出会うことの不思議を感じさせるすばらしい石膏レプリカが並んでいるのである[図1]。

図1 カースト・コート西展示室全体図

 カースト・コートは、こうした巨大建築物の原寸大レプリカを収めるため特別に設計された広大な展示室である。東西に分かれており、東展示室にはイタリア・ルネサンス期の彫刻レプリカを中心としたコレクションが、そして西展示室には、サラセンや古代ローマの建築物のレプリカを若干含む、中世の建築・彫刻のレプリカが展示されている。十九世紀的な折衷主義的な展示方法で、地域や時代別には並べられていない。例えば、サンティアゴ・デ・コンポステーラの〈栄光の扉口〉アーチの下には、ヒルデスハイム大聖堂のブロンズ扉の電気製版が置かれ、その前に置かれたリエージュの洗礼盤の傍らにはケルトの十字架が聳えている[図2]。ストラスブール大聖堂の〈エクレシアとシナゴーガ像〉やミケランジェロのダヴィデ像など教科書で見覚えのある美術史上の逸品が年代や地域に関係なく、無秩序に並べられているのである[2]

図2 サンティアゴ・デ・コンポステーラ〈栄光の扉口〉、ヒルデスハイム大聖堂のブロンズ扉、リエージュの洗礼盤も見える。

 現在では、レプリカを主要展示物の一部としている美術館は少なく、またこのような大規模な石膏レプリカのコレクションを他で見ることはできない。しかし、十九世紀には、石膏レプリカは重要な役割を担っていたのである。特に、蒐集対象をフランス国内の建築彫刻に限定したパリのトロカデロ宮(現フランス文化財博物館)、あるいは古代ギリシア・ローマ時代の彫刻に主眼をおいたドイツの諸所の美術館と異なり、ヴィクトリア・アンド・アルバート美術館の蒐集熱がイギリス国内やヨーロッパに限定することなく、世界的規模の「美的」なものへ向かっていたことは特筆すべきことである。結果的には大英帝国内のすべての記念碑的建築物のレプリカを英国本土に持ち帰るという夢は実現しなかったが、美術館の創始者たちが絶えざる情熱をもってヨーロッパを歩き回り、石膏レプリカの制作に値する建築彫刻の取捨選択を行った結果、他に類を見ない彫刻レプリカ・コレクションが形成されたのである。

 本稿では、ヴィクトリア・アンド・アルバート美術館のカースト・コートがどのような目的のために形成されたのか、コレクションの成立過程とその背景を簡略に紹介したい。


石膏レプリカ蒐集の歴史


 古代彫刻の石膏レプリカは19世紀以前から蒐集対象となっていた。一点物の古代彫刻の代替物として、大理石の模刻やブロンズ・レプリカに比して安価で、しかもオリジナルから直接鋳型が作られるため、オリジナルそのものと同様に珍重されていたからである。16世紀の彫刻家レオーネ・レオーニ (Lione Lioni) は、ミラノの自宅にマルクス・アウレリウスの騎馬像をはじめとした「入手できる限りの」石膏レプリカのコレクションを有していたとジョルジョ・ヴァザーリ(Giorgio Vasari)は記している[3]。16世紀当時、画家や彫刻家を目指す者にとって、「美の規範」である古代彫刻の鑑賞は重要だったが、イタリアの美術教育機関でさえ石膏レプリカを所有していたという記録は少なく、マルクス・アウレリウス騎馬像、ラオコーン、ベルヴェデーレ宮のアポロ像といった有名な彫刻は、版画の形で流通することが多かった[4]。その上、石膏レプリカはその素材上のもろさから運搬が難しく、18世紀以前にはイタリア国外でレプリカさえ見る機会は少なかったのである[5]

 しかし、ルイ十四世がヴェルサイユ宮殿のために、イタリアの古代彫刻の模刻を発注し、ローマのアカデミー・ド・フランスのために石膏レプリカを用意させたことは、ヨーロッパの石膏レプリカ事情を一変させたと言われている[6]。ヨーロッパの諸侯はこぞって自邸に古代彫像の模刻を購入し、美術教育機関は石膏レプリカを導入した。アカデミー・ド・フランスの石膏レプリカの鋳型から、数多くの石膏レプリカがハーグやスウェーデンなどヨーロッパ各地へ送られた。17世紀のベルリン美術アカデミーの様子を記録した版画には、ファルネーゼ宮のヘラクレス像やラオコーン、メディチ宮のヴィーナス、ベルヴェデーレのアンティノウスが描かれている[7]。1768年にジョージ三世によってロイヤル・アカデミーが設立されるまで美術教育機関の整備が進んでいなかった英国においては、画家が個人的に教えているにすぎず、石膏レプリカが美術教育現場で使われている例は少なかった[8]

 もっぱら庭に置くための古典彫刻レプリカが蒐集されていたが、英国貴族は「自然らしい」庭を好んだために、ヴェルサイユをお手本にしたフランス貴族の邸宅に比較して圧倒的に数が少なかった。しかし一方で、18世紀英国貴族の子弟の間では、教育の一環として「グランド・ツアー」と呼ばれるヨーロッパ旅行が通例化しており、殊に古代文化の中心地であるローマへの旅行は重要だった。そして、旅の想い出として皆こぞって版画やレプリカを求め、さらに裕福な旅行者は旅の記録を残すために素描家を同行させたのである。

 例えば、現在、大英博物館にある〈エルギン・マーブルズ〉で知られるエルギン伯は、世界有数の古代ギリシア彫刻のコレクターであった。そのエルギン伯について、ギリシア旅行に同伴する素描家としてターナーを雇おうとしたが、高給を求めるターナーと値段の折り合いがつかず、結局ターナーの同行は叶わなかったというエピソードが伝えられている[9]。しかしその旅行で、エルギン伯が素描家のほかに、二人のイタリア人石膏技師(formatori)を高給で雇用しているのは興味深い。ローマに6人しかいない石膏技師のうち2人を雇い、船や13頭の馬に乗せて遥かギリシアまで資材を積み運ぶ。そのような多大な時間、労力と費用が惜しまれないほどの魅力が、古代彫刻の石膏レプリカにあったのである。

 また、審美的な点で、現在ではオリジナルに劣るとされている石膏レプリカだが、19世紀以前の教育では石膏レプリカの鑑賞は正当とみなされていた。例えばゲーテは、マンハイムの石膏レプリカ・コレクションを見て古代彫刻の美に開眼し、さもそれらがオリジナルであるかのような惜しみない賛辞を書き残している[10]。そしてゲーテ自身、いくつかのレプリカを所有していたことが知られている。また、美術史学の基礎を築いたことで知られるヴィンケルマン(Johann Joachim Winckelmann)が、初めてラオコーンに出会ったのも、ドレスデンにある石膏レプリカを通してであった[11]

 19世紀初頭は、自国の文化の偉容を誇るために、ヨーロッパ各地で国家をあげて石膏レプリカのコレクションが形成された時期であった。18世紀に集められた古代彫刻のコレクションに多くのルネサンスや中世時代の石膏レプリカが加えられ、「美術館」というシステムの形成に伴って、各地で大規模な石膏レプリカの展示が始まった。1820年のミロのヴィーナスの発見は古代彫刻の蒐集熱に拍車をかけ、展示場所が足りなくなるほど石膏レプリカの数は増加し続けた[12]。20世紀初頭に、後に述べるように審美的な観点から人気が衰え、行き場がなくなったレプリカの一部はヨーロッパ各地の大学やアメリカへの大西洋を渡って行った。このような時代の潮流に翻弄されながらも、今もヴィクトリア・アンド・アルバート美術館には石膏レプリカの大規模なコレクションが残っていること自体が驚くべきことであり、これは蒐集理念の段階で他と一線を画しているためなのではなかろうか。次にヴィクトリア・アンド・アルバート美術館自体の設立経緯とレプリカ・コレクションの形成過程について述べたい。


カースト・コートの形成


 ヴィクトリア・アンド・アルバート美術館の創設当時の石膏レプリカ展示は、現在よりも遥かに重要な任務を帯びていた。場当たり的にさまざまな経路から集まってきた石膏レプリカが、設立したばかりの美術館の貧弱な展示を支えていたからである。

 そもそもヴィクトリア・アンド・アルバート美術館は、1851年に水晶宮で開催された万国博覧会の理念を基に、ヴィクトリア女王の配偶者、アルバート公が中心となって創った美術館で、構想の段階からヴィクトリア・アンド・アルバート美術館として改名するにいたるまで有に40年以上の歳月を必要とし、その設立過程は別の論考として成立しうるほど複雑を極めている[13]。1851年、「万国博覧会」の開催は、世界中の物品を一同に帰すという計画や規格製品を使って建てられた総ガラス張りの建築物「水晶宮」も画期的であったが、興業的にも大成功を収めた[14]。その収益金の一部を用いてヴィクトリア・アンド・アルバート美術館の前身となったサウス・ケンジントン美術館は建てられたのである。両者とも、英国の産業を活性化させ、労働者の教育水準の向上を目的としているという意味で目的を一にしていたこともあって、万国博覧会の総指揮にあたったヘンリー・コール(Henry Cole)が、万国博覧会の成功の功績を認められ館長を任じられた。

 ヴィクトリア・アンド・アルバート美術館石膏レプリカ・コレクションの核の形成は、ヴィクトリア・アンド・アルバート美術館が美術館として産声をあげる遥か以前に遡る。万国博覧会の直後、アルバート公の主導のもと、英国の産業デザインの向上を目的に、ロンドンのサマセット・ハウスにあった国立デザイン学校(Government School of Design)と工業製品博物館(Museum of Manufactures)を基盤にして、工芸と産業のための教育施設設立が構想され始めた。1852年にデザイン学校とともに政府の応用美術機関(Department of Practical Art)が、バッキンガム宮殿にほど近いマールボロ・ハウスに移転し、新しく工業製品博物館(Museum of Manufactures)として開館した。蒐集品の少ない開館当時は、二つの図書室と、国立デザイン学校から引き継いだ石膏レプリカのコレクションしか展示すべきものがない状況だった。この頃の石膏レプリカのほとんどは古典彫刻とルネサンス彫刻のレプリカで、1857年にマールボロ・ハウスから現在、美術館がおかれているサウス・ケンジントンに移るまでは、スペース不足のため購入は手控えられた。

 サウス・ケンジントン移転後は、ゴシック建築の部分レプリカを中心とした建築博物館(Museum of Architecture)からの石膏レプリカ・コレクションも加わってさらに充実し[15]、古代とルネサンス期のものは西廊に、ゴシック期のレプリカは上部のギャラリーに展示されていた。また、1861年には、1830年代に国会議事堂を新築する際に参考とされた3200個ものゴシック期の建築装飾部の石膏レプリカや、ナポレオンが創らせた鋳型から造られた〈トラヤヌスの円柱〉がコレクションに加わった。

 以上のように、美術館設立当初の石膏レプリカ・コレクションは美術館展示の主要な位置を占めながらも、蒐集指針がはっきりしないまま、場当たり的にその作品数を増加させていった[16]

 60年代から70年代にかけては、主任学芸員ロビンソン(J.C. Robinson)の活躍によって、美術館の石膏レプリカ・コレクションの蒐集対象が大幅に広がった時期であった。従来のように古代ギリシア・ローマ時代、ルネサンスやゴシック期ばかりでなく、英国内を含めて、ヨーロッパ各地のロマネスク期やサラセンの建造物のレプリカが集められたのである。ロビンソンはマーレーの『北イタリア旅行者のためのハンドブック』(J. Murray, Handbook for Travellers in Northern Italy part II, London 1858)片手にイタリアを旅行し、印象深い作品に出会うたびに赤ペンで「レプリカを取るに値する」と、ガイドブックに書き込みを入れている[17]。ロンドンで工房を開き、ヴィクトリア・アンド・アルバート美術館の石膏レプリカ制作を独占的に請け負っていたブルッチアーニとフランキ(Brucciani & Franchi)工房の石膏技師のフランキはイタリアへ送られて、ピサのニコラ・ピサーノの説教壇をはじめ、ロンバルディア・ロマネスク建築の装飾部分など、ヴィクトリア・アンド・アルバート美術館のイタリア彫刻レプリカの多くを制作した。それらは現在、イタリア国外に存在するイタリア彫刻レプリカの最大規模のコレクションとなっている。

 同様に、ロビンソンは石膏技師とともに1864年から65年にかけてスペインを旅行し、サンティアゴ・デ・コンポステーラの〈栄光の扉口〉をはじめとする数多くの作品のレプリカを制作・購入した。〈栄光の扉口〉の石膏レプリカを英国まで運搬するにあたっては、石膏が脆く壊れやすいのに加えて〈栄光の扉口〉の巨大さのため運搬には細心の注意が必要であった。さらに海路での嵐や入国時の検疫でコレラ予防のために薫蒸消毒されなければならないなど、多くの困難がつきまとった[18]。苦労を重ねて英国に辿り着いた〈栄光の扉口〉レプリカだが、あまりの大きさに展示場所がみつからず、1873年に現在の建築展示室(Architectural Court:現 Cast Courts カースト・コート、石膏レプリカ展示室)が完成するまで、いくつかに分割されて展示されていた。

 さらに、ブルッチアーニとフランキ工房の石膏技師が英国の重要建築物を網羅するように各地へ送り出され、英国内の聖堂や主要建築物・彫刻のレプリカが蒐集された[19]。上述のように新規に造られる石膏レプリカばかりでなく、フランスやドイツの工房から購入・交換されることもあったが、1867年にパリで開かれた国際博覧会は、ヴィクトリア・アンド・アルバート美術館の石膏レプリカ・コレクションにとって重要な転機となった。館長ヘンリー・コールは、博覧会に集まってきた15ヶ国の諸侯たちを相手に、美術品のレプリカ制作・交換を円滑にする「美術作品レプリカの促進に関する国際協定」を取り結ぶことに成功したのである[20]


カースト・コートとヴィクトリア朝の世界観


 ヴィクトリア・アンド・アルバート美術館が、1858年にサウス・ケンジントン美術館としてサウス・ケンジントンに移転した当初は、古代とルネサンス彫刻のレプリカは西廊に展示され、ゴシック彫刻のレプリカは上階の回廊に、イラストや写真の説明書きと共に置かれていた。1860年代初頭に北展示室が増築されたときには、一時的に展示スペース不足が解消されたが、1866年に〈栄光の扉口〉が到着したときには先に述べたように分割展示しなければならないほど、スペース不足が再び深刻化していた。1873年に、スコット卿(Sir General Scott)によって建築展示室(Architectural courts:現「カースト・コート」)が、石膏レプリカ専用の展示室として完成するとともに、古代彫刻は現在特別展示室となっている場所に他の彫刻とは区別されて展示され、北ヨーロッパ、イタリア、インドの石膏彫刻レプリカは東西展示室に分配された。東展示室には、いささか植民地主義的だが、インド建築をはじめとする東方世界の主要建築物の陳列が計画された[21]。建築展示室開室当時の『ザ・ビルダー』誌は、展示室の百科全書的かつ壮観な展示と、建物自体の新奇さに称賛の言葉を送っているが、あまりのスケールの大きさに美術教育の実用的用途を疑問視するコメントも同時に載せている[22]

 1979年、西展示室の内装が開室当時の状態に復刻され、オリーヴグリーンと赤紫色に壁が塗り替えられた。その大胆な色彩がヴィクトリア朝の雰囲気を湛えている。高いガラス張りの天井から外光が降り注ぎ、上の回廊には建築や彫刻の細部レプリカが展示されている。回廊下部には部屋のぐるりを取り巻くように、アーマダバードからチューリヒまで、AからZの、世界中の大都市の名前が記されている。かつては、著名な芸術家の名前の列も部屋の周囲を囲んでいたらしい。建築展示室では、さまざまな地域や文化の建築物レプリカを展示することによって、美術館という建物の内部に「世界」の縮図を現出させようとしていたのである。先にも触れたように、フランスやドイツの美術館のレプリカ・コレクションが、自国文化の称揚を目的としギリシア崇拝主義に傾いていたのに対して[23]、英国のレプリカ・コレクションの構想はヨーロッパ以外の諸国の建築物をも蒐集対象とし、様式の多様性と美術史の流れを説明できるように購入計画が立てられた[24]。また、ヨーロッパの他の美術館が「芸術」を追求していたのに対し、ヴィクトリア・アンド・アルバート美術館では、他の美術館のように教養を広げる非功利的な目的で陳列されているのではなく、工芸やデザインの発展に役立つようにとの実用的な存在意義が要求されていた。その意味で建築展示室はヴィクトリア・アンド・アルバート美術館の中でも、百科全書的な価値観と実用性を融合させた特別な展示室だったのである。


審美観の推移と石膏レプリカ蒐集の黄昏


 1900年頃には、英国とアイルランドの初期中世の十字架や、建築博物館からの寄贈品を除くと、1873年までには現存する主要な石膏彫刻レプリカのほとんどが揃った。万国博覧会後にレジャー施設として運用されていた水晶宮の数多くの石膏レプリカは、再三の寄贈要請にもかかわらず、実際にコレクションに加えられたのは、水晶宮が炎上した1938年の後、焼失を免れた僅かなレプリカのみであった。

 ロビンソンの頭の中には1935年にいたるまで「レプリカ美術館」の構想が巣くっていたが、かなり早い段階から石膏レプリカ制作が衰退する直接的原因となる、審美的問題を認識していたらしい[25]。美術館の収蔵しているオリジナル作品だけでは表現することのできない「美術史」のミッシング・リンクを埋めるという、美術館の目的達成のために、ロビンソンはやむをえずレプリカの購入を進めていたが、オリジナルと石膏レプリカを同等にみなしていたわけではなかった[26]。時間の経過とともに石膏の鋳型は乾いて縮まり、徐々にオリジナルとは異なる物となるからである。ロビンソンにとって石膏レプリカは「細心の注意を払って作られた模刻よりは少し益しな程度」と位置づけられていたので、レプリカを購入するときには、オリジナルから直接鋳型が取られていること、収縮が少ないこと、細部まで入念な仕上げがしてあること、色づけされていることなど厳しい条件が課せられていた[27]。また、石膏レプリカ制作には倫理的な障害もあった。

 石膏レプリカの制作はオリジナルの彫刻作品をもとに、まず鋳型を取ることから始められる。鋳型がオリジナルに貼り付いてしまわないように薬品を塗布し、石膏を流し込む。浅浮き彫り以外の彫刻では、突起や深彫りがあるため一個の鋳型にすることはできないので、鋳型は多数に分割される。それらを並べた鋳型から型取ってはじめて、再び一体の彫刻が生じるのである[28]
 オリジナルからレプリカが作られる際に問題となるのは、鋳型を作るときの薬品が不充分でオリジナルが色落ちしてしまう場合である。彩色彫刻などは特にその被害を受けやすい。そのことから、徐々に、オリジナルの保存を考えてレプリカ制作は手控えられるようになった。さらに、1870年代以降、ドイツでは「オリジナルの小破片を完璧なレプリカよりも重要視する」審美観が芽生えてきた[29]。英国でもラスキンを筆頭にオリジナルを唯一の芸術とする思想が広がりはじめ、次第に石膏レプリカに対する見方が変化していったのである。

 1880年代にも多くの石膏レプリカがヨーロッパ中からコレクションに加わり、また石膏レプリカを利用した学術的な研究が活発だったが、審美観の変化から、次第に石膏レプリカの購入も減少し、1906年にはすべての古代彫刻レプリカは大英博物館やエディンバラへ送られ、さらに1934年にはロンドン大学へ寄贈された。

 現在、これらの石膏レプリカ彫刻の存在意義は、19世紀美術とヴィクトリア朝の歴史的価値を再検討しようという動きの中にあって、19世紀的な時代性を証言するものとして、19世紀の人々がどのように過去を理解し歴史を捉え直そうとしたのかという、彼らのヴィジョンを体現している点で重要である。レプリカの審美的価値は低く評価されることが多いが、レプリカは、オリジナルの持つ量感や存在を体感することが可能な媒体としてきわめて優秀な代替物である。レプリカは、スライドや写真などでは理解することの難しい、大きさや立体感の把握のために、なくてはならない美術教育手段の一つとしてこれからも利用され続けていくだろう。さらに、西展示室の〈栄光の扉口〉の脇に置かれているリューベック大聖堂やブレーシャのサンタ・マリア・デイ・ミラコリ聖堂のレリーフ彫刻や、ヒルデスハイムのティンパヌム彫刻の場合のように、オリジナルが戦争、火災、大気汚染、「修復」など何らかの形で損傷を受けた場合、レプリカはオリジナルの状態を知る最も重要な記録物ともなるのである[30]


イチジクの葉をめぐる真贋論——結びにかえて


 そもそも、オリジナルとレプリカの価値の違いとは何なのだろうか。また何が「オリジナル」なのだろうか。最後に、ミケランジェロのダヴィデ像レプリカの背後にひっそりと置かれたイチジクの葉の石膏彫刻を例にあげて、本展覧会のテーマである真贋の問題に簡単に触れて、結びとかえたい。

 フィレンツェ・アカデミア美術館所蔵のミケランジェロのダヴィデ像[31]。その石膏レプリカがサウス・ケンジントン美術館に運ばれたのは1857年のことである。ナショナル・ギャラリーが進めていた、ギルランダイオの絵画購入計画をトスカーナ大公が頓挫させたために、「お詫びに」トスカーナ大公からヴィクトリア女王に送られたのが、ダヴィデ像のレプリカだった。そして、有名なミケランジェロの彫像を見ようと行幸したヴィクトリア女王は裸体の生々しさに驚愕し、かような作品を展示することに意義を唱えた[図3]。即刻、ダヴィデの股間を隠すイチジクの葉の彫刻が誂えられ、皇族女性の来館の際に使われ続けた[図4]。現在は、ダヴィデ像から外されてガラスケースに収められ目の位置に据えられているので、案外、巨大な作品であることがわかる。現代美術としても通用しそうな、立派なイチジクの葉の彫刻である。説明文には「ダヴィデ像レプリカのためのイチジクの葉。1857年購入。皇族の女性の来館時にダヴィデ像に掛けられた。最後に使用されたのはメアリ妃(1867—1953)の来館時」と記されている。当時、ヴィクトリア・アンド・アルバート美術館の石膏レプリカを独占的に手がけていたことから、ブルッチアーニの工房で作られたものだと思われている。つまり、このイチジクの葉は1857年に英国で制作された「オリジナル」な彫刻作品なのである。

図3 ミケランジェロのタヴィデ像(イチジク付き)。©The Board of Trustees of the Victoria & Albert Museum
図4 イチジク。

 しかし、美術鑑賞上の重要性から考えると、巨大で有名なダヴィデ像のレプリカとイチジクの葉ではその価値の違いは明らかである。説明書きを読み落として、カースト・コートがレプリカの展示室であることを理解せずに、レプリカを本物だと思って、ダヴィデ像に感嘆している来館者を多く見かけるからである。股間を隠すイチジクの葉が「本物」であり、ダヴィデ像自体が「偽物」であることに注意が向けられるはずもない。ダヴィデ像のレプリカ自体をルネサンス彫刻の代替物としてではなく、それが作られるというコンテクストを踏まえると、それらは「本物」と「偽物」という平面上ではなく、イチジクの葉とともに、19世紀末の時代性を体現している作品だとも考えられるのである。現在ではダヴィデ像の後ろにひっそりと隠されるように展示されているイチジクの葉は、ヴィクトリア朝の過敏なセクシュアリティによって「芸術作品」に付加されてしまった「歴史の間違い」ではなく、19世紀という時代を考えさせ、「本物」とは「オリジナル」とは何かという問題を密かにはらんでいるのである。

 そして、東西のカースト・コート間の廊下が「贋作と偽造」にテーマを絞った展示場所にあてられていることも、石膏レプリカの微妙な位置づけを表しているようで興味深い。確かに、贋作も石膏レプリカも「美術品」の受容に関するさまざまな物語が秘められた歴史的産物である。また、双方とも美術教育に有効に活用できる作品でもある。こうした利用上の必要性から定められた配置だと肯定的に考えることもできるが、美術館全体の地理の中で、これらは「オリジナル」の展示とは一線を画すべく他の展示物から隔離されているからである。「オリジナル」から隔離・分離されたレプリカ展示室と贋作たち。はたしてレプリカを贋作と同じ範疇に括ることが正しいのかは疑問である。そもそも、ヴィクトリア・アンド・アルバート美術館で「オリジナル」として展示されている作品の多くは、過去に大量生産された工業製品であることも考えあわせると、大量生産された彫刻「レプリカ」と工業的に大量生産された「オリジナル」とはどこか異なるのだろうか。前者が芸術家によって制作された一点ものを雛形として美そのものを模倣しようとしているのに対し、後者には模倣しようという意図はない。大量生産されたすべてがオリジナルだとも言える。コピーしようとする意志が問題なのか、コピーされるものが「美」であることそのものが問題なのか。カースト・コートでは、「オリジナル」とは何かという問題が一筋縄ではいかない複雑な問題であることをまざまざと体感することができるのである。



【註】

[1]The Builder, Oct. 4, The 'Builder' Publishing Office, London, 1873, pp.789.[本文へ戻る]

[2]例えば、ゴンブリッチは『美術の歴史』の中で、中世神学と美術の結びつきを示す一例としてリエージュの洗礼盤を例としてあげている。キリストの洗礼場面の下部で洗礼盤全体を支えている雄牛たちでさえも飾りではなく、意味ある形態なのである。その他にもトラヤヌスの円柱やヒルデスハイムの扉口などカースト・コートにある作品の多くを写真入りで紹介している。カースト・コートに集められた作例は、個々の美術品を様式の流れとして捉える「美術史」自体の形成過程と密接な関係があると考えられるが、そのことについてはいずれ別の機会に論じたい。Gombrich, E.H., The Story of Art, Phaidon, London, 1989, pp.86, 122, 132.[本文へ戻る]

[3]Vasari, G., Di Lione Lioni, aretino e dialtri scultori e architetti. In:Le Vite de piu eccellenti pittori scultori ed architettori VII, Instituto Geografico de agostino, Novara, 1967, pp.413-433.[本文へ戻る]

[4]Haskell, F., Chapter III, Plaster Casts and Prints. In:F. Haskell & N. Perry, Taste and the Antique:the Lure of Classical Sculpture, Yale University Press, New Haven, 1994, p.17.[本文へ戻る]

[5]Ibid. p.16.[本文へ戻る]

[6]Haskell, F., op.cit. Chapter XI, The Proliferation of Casts and Copies. p.79.[本文へ戻る]

[7]Berlin und die Antike, Catalogue of exhibition held at Schloss Charlottenburg, Berlin, 1979, pp.95-6;Haskell F., op.cit., 1994, p. 79.[本文へ戻る]

[8]例外はリッチモンド公。自邸を美術学校に改造し石膏レプリカを蒐集した。Edwards E., Anecdotes of Painters who have resided or been born in England, London, 1808, pp. xvi-xix.[本文へ戻る]

[9]Connor, P., Cast-collecting in the nineteenth century:scholoarship, aesthetics, connoisseurship. In:G.W. Clarke & J.C. Eade (ed. by), Rediscovering Hellenism:the Hellenic Inheritance and the English Imagination, Cambridge University Press, Cambridge, 1989, p.188.[本文へ戻る]

[10]しかし同時に、ゲーテはイタリア旅行に際して実物に触れた時点で、石膏レプリカがいかにオリジナルに比べて凡庸であるかを認識したという。Connor, P., op.cit., p. 191.[本文へ戻る]

[11]Justi, C., Winckelmann und sein Zeitgenossen Ⅰ, Derlag von F.C. M Dogell, Leipzig, 1898, pp.193-277.[本文へ戻る]

[12]Connor P., op.cit., p. 193.[本文へ戻る]

[13]例えば、Cocks A.S., The Victoria and Albert Museum, the making of a collection, Windward, Leicester, 1980;Physick J., “The Victoria and Albert Museum”the History of its Building, Phaidon, London, 1982 など。[本文へ戻る]

[14]松村昌家『水晶宮物語——ロンドン万国博覧会1851』リブロポート、1986年。[本文へ戻る]

[15]これらの石膏レプリカは、1869年に、タフトン・ストリートに新装開館した建築博物館へ返還されたが、1916年に再度ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館に譲渡された。[本文へ戻る]

[16]Cole, H., An Inventory of Plaster Casts of Objects of Art collected from the various sources on the continent and in Great Britain and Ireland and wax impressions of the Seals of Art, for prizes and general purposes of public instruction, South Kensington Museum, London, 1869, passim.[本文へ戻る]

[17]Connor, op. cit., pp.215-6.[本文へ戻る]

[18]Baker, M., The Cast Courts. London:Vitoria and Albert Museum Publishing, London, 1982, p.2.[本文へ戻る]

[19]De;U., Plaster Casts and the Study of Renaissance Sculpture:the Role of South Kensington, MA thesis, Courtauld Institute of Art, 1997, p.9[本文へ戻る]

[20]Cole, H., Inventory of Casts from the Antique. Made for the Use of the Schools of Art at Sommerset House,. 1870, Appendix.[本文へ戻る]

[21]De;U., op. cit., 1997, p.23.[本文へ戻る]

[22]The Builder. 4 Oct 1873. pp.787“It may safely be said that the world does not possess such another.”;The Building News. 25 April, 1873. p.469.[本文へ戻る]

[23]De;U., op. cit., p.24.[本文へ戻る]

[24]De;U., op. cit., p.26.[本文へ戻る]

[25]Robinson MSS, Ed 84/166,“Memorandum respecting the origination and supply of reproductions of works of art”f.2455, 2461a. cf. De;U., op. cit., p.26.[本文へ戻る]

[26]“Natural feeling of the human minda which attaches highest value only to original works”J. C., Robinson 1862:De, U. op. cit., p. 16. Footnote 34.[本文へ戻る]

[27]De, U., op.cit., p.17[本文へ戻る]

[28]Mills, J. W., The Technique of Casting for Sculpture, Batsford Ltd, London, 1990, pp.35-86.;Baker, M., op.cit., p.1.[本文へ戻る]

[29]Baker, M., op.cit., p.4.[本文へ戻る]

[30]ヒルデスハイムのティンパヌム彫刻は酸性雨のため溶解し、今も悪化の一路を辿っている。ブレーシャのサンタ・マリア・デイ・ミラコリ聖堂の場合は、粗悪な修復のためにオリジナルの面影もない。リューベックのレリーフは第二次世界大戦時に破壊された。M. Baker, op.cit., p.4.[本文へ戻る]

[31]以下のエピソードはBilbey, D., catalogue no. 26, In:M. Baker & B. Richardson (ed. by), A Grand Design:the art of the Victoria and Albert Museum, Harry N. Abrams with the Baltimore Museum of Art, N.Y., 1997, p.48, p.130を参照した。[本文へ戻る]



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