空想美術館——複製メディアにおける芸術作品の受容


寺田鮎美 大学院人文社会系研究科・文化経営学



「空想美術館」は、アンドレ・マルロー(André Malraux 1901—1976年)の著作『芸術の心理学』(Psychologie de l'Art)の第一巻『空想美術館』(Le Musée imaginaire, 1947)[1]においてはじめて語られた概念である。冒頭部に「十九世紀とは数々の美術館を糧として生きていた。われわれもいまだそのようにして生きている[2]」とある通り、そこでは時代の象徴とされる「美術館(musée)[3]」が議論の中心に据えられている。美術館とは芸術作品が集められ、展示される場所であり、われわれはその場を借りて芸術作品を鑑賞する。マルローはそのように美術館が鑑賞という形式の視覚制度のもとにあり、それに支えられていることに注目した。他方で、マルローの「空想美術館」は複製メディアの発達によって支えられてきた概念でもある。周知の通り、十九世紀中葉飛躍的に発展した写真技術は、芸術作品と向かい合うわれわれの眼差しに大きな変化をもたらした。以来、複製メディアはわれわれの芸術体験の支えとして不可欠なものとなった。本論では、マルローの「空想美術館」概念によって、「複製」の鑑賞という新しい芸術作品の受容形態の地歩が築かれたことを指摘し、その意義と射程について考えてみたい。


美術館の役割


 マルローは美術館について論じるにあたって、われわれにとって美術館がいかに身近なものであり、また重要な存在であるかをまず指摘している。「芸術作品とわれわれの関係における美術館の役割は非常に大きい。そのため近代ヨーロッパ文明が知られていない、あるいは知られていなかったところに美術館が存在しない、あるいは存在しなかったとは考えがたいし、またわれわれのもとに美術館が存在するようになって二世紀も経っていないとは考えがたい」(MI, p.13)。われわれは美術館において、そこに置かれた芸術作品を鑑賞する。そのような芸術鑑賞という「芸術作品とわれわれの関係」を結ぶ場としての美術館の役割を、マルローは重視しているのである。

 美術館が存在する以前、われわれにとって芸術作品はただ単なる鑑賞対象ではなく、何らかの手段とみなされていた。すなわちマルローによれば、そもそもロマネスクの磔刑十字架は彫刻とみなされていなかったし、ドゥッチョの《マドンナ》もタブローとはみなされなかった。フェイディアスの《パラス(アテネ)》でさえ彫像と認識されてはいなかった。それらはわれわれの考えるような絵画や彫刻すなわち芸術作品でなく、「聖なる宇宙」(MI, p.14)を創造する手段として存在していたという。芸術家の存在が市民権を得、芸術の近代化が推し進められたルネサンス以降のイタリアでも、芸術は何らかの目的を達成するための手段にすぎなかった。すなわち、芸術とは事物を「美の架空世界」(MI, p.14)に到達させる役割を担うものであり、また「架空の、さもなくば変形された宇宙」(MI, p.14)を創造するための手段とされていたのである。しかし、マルローは、ほんの二世紀前の美術館の出現が「芸術作品とわれわれの関係」を根底から変えてしまったという事実を指摘する。「聖なる宇宙」の創造手段として、また「架空の、さもなくば変形された宇宙」の創造手段として存在していた芸術は、美術館の出現によってそのあり方を変えた。つまり、美術館によって神々は彫像に、肖像画はタブローに「変貌」(MI, p.14)させられてしまったというのである。それはロマネスクの磔刑十字架にキリストの顕現を見るように、すべて「なにものかの像」(MI, p.14)であったところの芸術作品が、もはやそうではなくなったというにほかならない。このようにして、美術館はそこに集められた芸術作品からその「機能」(MI, p.14)を剥奪し、代わりに「事物そのものとは異なる事物の像が、この特殊な差異からそれらの像の存在理由を引き出すことで、美術館に芸術作品を集めさせるようになった」(MI, p.14)のだという。

 このように芸術作品を本来の「機能」から引き離すこと、またそれによって芸術作品を「変貌」させることこそが、マルローの考える美術館の役割であった。その結果、芸術作品とそれを鑑賞するわれわれの関係に変化が起こったのだとマルローはいう。美術館は芸術作品の役割を芸術作品であるということに限定する。そのことによって、芸術作品を鑑賞するわれわれに求められるようになったのは、信仰の告白や「眼の悦楽」(MI, p.16)の対象としてではなく、自律した芸術作品としてのそれらと対峙することであった[4]。芸術鑑賞におけるわれわれと芸術の関係の変化について、さらにはその変化を促した美術館の役割についてマルローは次のようにいう。「芸術とわれわれの関係が一世紀以上も前から知性化しつづけているということは事実である。美術館はそこに集めた世界の諸々の表現それぞれを問題にし、またそれらを集めるところのものについて疑問を提出する」(MI, p.16)。つまり、美術館の出現は芸術作品をそのものとして鑑賞するという受容のあり方をわれわれにもたらした。われわれと芸術作品とが無媒介直接的に結ばれ、間に何の「機能」も介入しない芸術鑑賞の形態こそ、マルローが「知性化」と呼ぶ関係であったといえる。さらに美術館に集められた芸術作品の集合性ということにもマルローは注目した。美術館に収集することは、何かに従属していた芸術作品を個別存在化すると同時に、それらを美術館に一堂に並べることによってそれぞれを一律に相対化することでもある。そのことにより、われわれははじめて個々の作品の表現を比較することができる。マルローはそれこそが知的な作業にほかならないと考えていたのである[5]


「空想美術館」の出現


 以上のように美術館の出現は、芸術作品そのものからわれわれの芸術作品の受容に至るまで、芸術の全般的なあり方に大きな影響を与えてきたと考えられる。しかし、美術館はその誕生と同時に限界をも背負った存在であった。というのも、美術館はわれわれがそこで芸術作品を鑑賞するために、芸術作品を収集することによって成り立っているからである。われわれが美術館と共に生きていく限り、美術館の収集活動に終わりはない。だが、そこには芸術作品をモノとして所有せざるを得ないことの限界がある。まず、すでに持ち運びのできるものはすべて運ばれ、どこかの美術館に収まってしまったことをマルローは指摘する。さらに、美術館には「全体に結びついているもの」(MI, p.16)すなわち、たとえば、ステンド・グラスやフレスコ画が不可避的に欠けているとされる。「ナポレオンの勝利をもってしても、システィーナ礼拝堂をルーヴル美術館に持ってくることはできなかった」(MI, p.16)というように、美術館は芸術作品を従来の機能から解放する反面、それをモノとして所有することに束縛されている。つまり、モノとして作品を所有することは、美術館が美術館として存在する限りまぬがれ得ぬ実際上の問題であり、いわば「現実の美術館」(MI, p.17)の限界ともなる。

 これに対して、マルローは十九世紀の「美術旅行」(MI, p.16)が「現実の美術館」を補う役目を果たしたことを指摘する。たとえば、テオフィール・ゴーティエは39歳で、エドモン・ド・ゴンクールは33歳で、またヴィクトル・ユゴーは幼年期にそれぞれイタリアへ旅をしている。イタリア、スペイン、オランダなどへの旅を通して、当時のフランスの美術批評家たちはいまだ見ることのなかった傑作を現地で実際に眼にすることができたのである。しかし、当時の美術批評家たちの皆が皆、「ヨーロッパの偉大な作品の総体」(MI, p.16)を見ていたわけではない。たとえばイタリアに旅したゴーティエはローマを訪れていないし、ボードレールやヴェルレーヌもイタリアを知らなかった。彼らは「ルーヴル美術館を糧として生きていた」(MI, p.17)。つまり、彼らが眼にすることができたのは身近にあるいくつかの「現実の美術館」でしかなかったのである。また「美術旅行」によって遠く離れた場所にある美術館の作品を実際に自分の眼で見ることができた少数の人々にとっても、その「芸術的認識」(MI, p.17)には依然として「曖昧模糊とした領域」(MI, p.17)が残されていた。というのは、たとえルーヴル美術館の一作品とマドリードやローマの一作品との対照が可能になったとしても、それは「ひとつの作品とひとつの記憶との照合」(MI, p.17)でしかなかったからである。「視覚の記憶は無謬でない」(MI, p.17)ことから、「美術旅行」が「現実の美術館」を補足するようになったといっても、所詮そのような「記憶」との照合は不完全な「芸術的認識」でしかあり得ないというのである。

 その漠然とした「芸術的認識」の領域に大きな変化を与えたものがある。それは芸術作品の「複製」(reproductions)(MI, p.17)である。それが普及することによって、人々は自分の糧とするルーヴル美術館とその「いくつかの別館」(MI, p.17)を知ることになった。実際に訪れることのできる美術館といつでも好きなときに開くことのできる「複製アルバム」(MI, p.17)を手にしたわれわれは、「作品と記憶の照合」でなく、作品と作品を眼の前に並べてそれらの照らし合わせを行うことができるようになった。「複製」を介しての芸術作品の照らし合わせは、われわれに分明な「芸術的認識」をもたらした。このように互いに離れたところにある芸術作品どうしであっても、われわれが分明な「芸術的認識」を得るため随意に扱うことのできる無限の「複製アルバム」こそ、われわれの「空想美術館」としてマルローが考え出したものにほかならなかったのである。


「現実の美術館」と「空想美術館」の関係


 では、この「現実の美術館」と「空想美術館」の関係とはどのようなものであるだろうか。マルローは次のように述べている。「芸術作品の役割が芸術作品であるということのほかに役割をもはや持つことのない場所において、そして世界の芸術的探求がつづけられている時代において、多くの傑作の集いは——それだけに多くの傑作が不在であるということでもあるのだが——精神の中にすべての傑作を呼び起こす」(MI、p16)。美術館という芸術鑑賞の場において、われわれはさまざまな芸術作品と向かい合う。しかし、美術館が現実のものである限り、そこに世界中の傑作を一堂に集わせ、並べることはできない。美術館はわれわれが生きている限り、際限なくその芸術活動の足跡を取り込んでいこうとする。しかし、すべての芸術作品を収集しようという欲望は決して満たされることがない。これは美術館が背負わざるを得ない宿命なのである。一方で、他の美術館によってすでに収集された芸術作品や、全体と結びついているため美術館に持ち込むことのできない芸術作品など「現実の美術館」に欠けている作品は、その不在感のゆえに逆にわれわれの心中に強くその存在を喚起する。具体的な作品の記憶は曖昧でしかなくとも、それが傑作であればあるほどその不在感は大きい。それゆえ、われわれの精神の中に「現実の美術館」に不在の傑作が呼び起こされ「空想美術館」が形成される。このようにマルローは、「空想美術館」が「現実の美術館」の宿命的な不完全さを乗り越えるため、われわれの精神の中に招来されるものである、すなわち「空想美術館」は「現実の美術館」の呼び求めによって生じるものであると考えている。

 また、「現実の美術館」が可能とするのは、実際に足を運んで鑑賞できる作品どうしの対照に限られる。たとえ遠く離れた美術館に赴いたとしても、そこでわれわれにできるのは眼の前の作品を曖昧な記憶と照合することでしかない。したがって、「現実の美術館」に縛られたわれわれの「芸術的認識」は、世界中の芸術に対してひどく偏狭であり、また曖昧模糊とした領域を残しているといわざるを得ない。それに対し、「空想美術館」は作品と作品を「複製」を介し実際に対照させる。それがため、分明な「芸術的認識」が可能となるのである。また作品収集は理論上いくらでも可能であり、ためにわれわれの「芸術的認識」もまた無限に開かれたものとなる。「このように前代未聞の空想美術館は開かれた。空想美術館は現実の美術館による不完全な照合に端を発したところの知性化を極端にまでつき進める。この現実の美術館の要求に応じて、造形芸術はその印刷所を発明したのである」(MI, p.17)。

「空想美術館」は「複製」によって作品どうしの完全な対照を可能にする。こうした芸術鑑賞は、「現実の美術館」における鑑賞よりいっそう知的なものとなる。なぜなら、「複製」として「空想美術館」に収集された芸術作品はもはやモノとしての物性を持たないし、またわれわれも「現実の美術館」に足を運びその中を歩き回る身体を必要としないからである。したがって、「現実の美術館」と「空想美術館」の関係は次のようにまとめることができる。すなわち、「空想美術館」は「現実の美術館」の呼び求めによって生じた補完的役割を果たすものである一方、それにとどまらずわれわれの「芸術的認識」を明確にし、また無限に開かれたものとすることで、「複製」による芸術作品の受容においてより知的な芸術鑑賞のあり方を可能にする。


「複製」による「傑作」概念の転換


「空想美術館」に世界中のあらゆる芸術作品が集められる。そのために、その最も革新的な役割を果たすとされるのは、複製メディアとしての写真である。写真ははじめ「ささやかな普及の手段」(MI, p.18)でしかなかった。だが、写真はそれまでの複製メディアに比べて格段に精度が高く、しかも軽便であったため[6]、「傑作」(MI, p.18)を「複製」として普及させることに多大な貢献を果たした。ばかりか、「傑作」の普及の手段としての定評を勝ち取ることで、「傑作」はどれとどれかなど、作品の選定にまで影響を及ぼすようになった。事実、「賞賛する喜び」(MI, p.18)ばかりでなく、「知ることの喜び」(MI, p.18)のためにまで写真複製が作られるようになり、「複製」は作品鑑賞の目的を変えることによって、鑑賞の対象そのものに影響を及ぼすようになった。つまり、写真によって「複製」の対象が、俗に「傑作」とされるものばかりでなく、「意義のある作品」から「B級画家の作品」や「民衆絵画」、さらには「無名の美術品」(MI, p.18)にまで拡大し、そのことが「傑作」とは何かという認識をも変えていったという。

 では、写真複製の影響を受ける以前の「傑作」とはどのようなものであったのだろうか。「傑作」とは、いうまでもなく歴史に残る優れた作品のことである。マルローは従来の「傑作」を次のように考えていた。すなわち、写真複製が普及する以前の「傑作」は「それ自体で存在する」(MI, p.18)ものであった。つまり「傑作」はそのモノ自体の内に「天才」が内存されており、「どんなに想像力をはたらかせてももうそれ以上の完成はあり得ないもの」(MI, p.18)とされていた。マルローによると、十八世紀以前においてはイタリアの絵画と古代の彫刻の「傑作」が「ひとつの文明の頂点」(MI, p.18)として君臨していたとされる。したがって、当時の美術館ではさまざまな流派がそれぞれの「傑作」をもって競い合っていたとしても、基準になるのはつねに「過ぎ去りし黄金時代」(MI, p.19)の「傑作」でしかあり得なかったという。「当時の批評において傑作とは、傑作の集いを前にしても《持ちこたえられる》作品のことであった」(MI, p.19)。このように、作品間の優劣比較は「死せる巨匠たちの対話」(MI, p.19)によって始められ、そこから「傑作」が生み出された。従来の「傑作」とは偉大なる過去の伝統につながるものであり、過去の「傑作」との対話を契機にし、さらにその「対話」に耐えうるものであることが条件とされていたのである。

 ところが、写真複製の登場とともにこの過去の「傑作」との「対話」が様変わりすることになったとマルローは考える。写真複製であれば作品を自由に集め、まとめることも可能であり、文学でいうところの「アンソロジー」(MI, p.19)を組むことができるからである。「アンソロジー」は任意の作品を選び出すことによって自由に世界を編むことができる。その制約のない任意性は「空想美術館」と共通する。マルローは、「空想美術館」で作品評価を行うにあたって、たとえばルーベンスのある作品を取り上げ、その作品にティッツィアーノと比肩し得る点を見出したからといってルーベンスを賛美するしないなどは二義的な問題にすぎないとしている。言葉を換えると、ルーベンスの作品はルーベンス個人の「アンソロジー」のなかで評価をすればよいのであって、ティツィアーノという過去の巨匠の「傑作」との比較による選別など必要でないというのである。このように、「複製」によって「傑作」概念には「過ぎ去りし黄金時代」に連なるひとつの伝統だけではなく、それぞれの「アンソロジー」としての他の系列があり得ることが示されたのである。「見事な作品とはひとつの伝統に対して最もよく認められた作品ではなく、また最も完全な作品あるいは《完成された》作品でもなく、最も個別的な作品のことである。それはいわば様式の頂点、特殊性の頂点であり、芸術家が自己に関して行った精密な探求の頂点である」(MI, pp.19−20)。つまり、「複製」を通して生み出される「傑作」は、ある偉大な過去を基準にしたこの上ない完成度から生まれるのではなく、いわばいかに過去と決別し、それと異なったものであるかによって生まれるものであると考えられる。したがって、「空想美術館」において新しく生まれた「傑作」概念とは、マルローによれば最も個別的な作品のことであり、それは「様式」の頂点と呼ばれるのである[7]。「複製はわれわれに世界の彫刻をもたらした。それは周知の傑作の数を増やし、多くの他の作品を傑作の高さにまで昇らせた。またそれらの作品にいくつかのマイナーな様式を付け加えた。架空の芸術におけるそれらの作品の延長にまでもそのような様式を加えたのだ」(MI, p.50)。

 われわれは写真複製を介してそれまで見ることのなかった世界中の芸術作品を知ることになった。「現実の美術館」に収蔵しきれないフレスコ画やステンド・グラスなど周囲の全体と結びついているもの、あるいは「過ぎ去りし黄金時代」とつながりを持っている絶対的な芸術の伝統に組みしないミニアチュールなどの装飾芸術は、写真複製を介してはじめてその存在が人々の知るところのものとなった。またそれらの芸術は、それまでの「傑作」の伝統から除外されていたおかげで、むしろその特殊性を認められ、新たに「傑作」となったのである。そのことで形態や色彩に関する新たな観点が拓かれ、それが従来の絵画や彫刻にも影響を与えることになる。「複製は、歴史に色彩のことばを招き入れた。そしてタブローやフレスコ画やミニアチュールやステンド・グラスが唯一の領域に属している《空想美術館》を創造した」(MI, pp.50−52)。このように「空想美術館」は従来の絵画や彫刻だけでなく、「空想美術館」によってのみ可能とされる芸術すべてを包摂する。なぜなら、「空想美術館」は写真複製によって既知の「傑作」を普及させるだけではなく、いまだ知られざる芸術を「空想美術館」に導き入れ、「様式」を発見し、新たに「傑作」を創り出すからである。こうした「複製」のはたらきは、芸術概念そのものについても大きな転換を迫るものであったということができる。


写真という複製メディア


 マルローの「空想美術館」において、「複製」がそれまでの伝統的な「傑作」概念を覆し、「様式」を付け加えることによって新たに「傑作」を生み出すとき、写真が大きな役割を果たしている。なぜなら、写真は複製メディアとして「空想美術館」の成立に大きく貢献しているからである。複製メディアとしての写真について、マルローは次の四つの効果を挙げている。

 まず第一の効果として、写真に撮られる作品、とくに彫刻作品においてそれまで暗示の程度にとどまっていたところへ、トリミング、アングル、ライティングによって「強い独特の調子」(MI, p.24)を与えることができる点が挙げられる。第二に、モノクローム写真には写真の表象する事物どうしを「接近」(MI, p.24)させる効果がある。モノクローム写真はおよそ被写体と無関係に白黒のコントラストからなる均質な世界を現出させる。そのため、いかなる種類の事物もそれぞれの有する個別性、たとえば色や材質やサイズを失うことになり、どれもが「同族」(MI, p.24)に帰着することになる。その結果、モノクローム写真はそれぞれに共通する「様式」を浮き彫りにして見せる効果を持つ。つまり、先述した通りの「傑作」を生み出す効果として有効にはたらくというのである。第三の効果として、写真を引き伸ばしたり縮めたりすることで芸術作品をどれも同じ大きさにすることができ、結果としてそれらを量る「尺度」(MI, p.24)の感覚を失わせる。写真はミニアチュールなど、マイナーなものとみなされてきた作品の「様式」を諸々の制約から解放する。そのことで芸術作品に新たな魅力を付与し、どの作品も「空想美術館」で同列に並べることを可能にしてくれるというのである。そして、最後の第四番目の効果は芸術作品の「断片」(MI, p.27)を強調して見せるということである。写真版の画集では、ときに作品を「変貌」させるために、大伸ばしによって部分のみを切り離して見せることがあるが、そのことによって作品から新たな魅力が掘りおこされることもある。このように、写真は「断片」の有する価値を証拠立てかつ強調して見せることで、作品のある部分を孤立させて見せることを可能にする。「断片」によって「変貌」させられる作品、またそれによって新たな魅力の掘りおこされた作品は、写真によって「空想美術館」へと導き入れられる。マルローは以上の四つの効果をまとめて、「百年来美術の歴史は専門家の手を離れるとすぐに写真撮影可能なものの歴史ということになる」(MI, p.32)と述べている。

 このような複製メディアとしての写真の効果は芸術作品に決定的な変化をもたらした。複製写真はもともとある作品を写し取ったもののはずであったが、もとの芸術作品とは別個の存在として独り歩きを始めるからである。トリミング、アングル、ライティングによって独特の調子を帯び、すべての特徴を均質化する白黒の世界に収められ、拡大・縮小によって元のサイズを失い、ときに「断片」として部分の強調された複製写真は、たしかにもとのオリジナル作品と似ても似つかぬ存在感を持っている。しかし、それがある特定の芸術作品を指していることは間違いない。このように、オリジナルと「複製」という複数性、あるいは複製メディアとしての写真の複数性は、芸術概念を根本から問い直すものであった。そして、この問題は写真の歴史そのものに大きく関わっている。

 一般的に写真術の誕生は、1837年のダゲールによるダゲレオタイプの発明に遡るとされている。しかし、写真機の前身となったカメラ・オブスクーラは遅くともレオナルド・ダ・ヴィンチの時代にはすでに知られており、そこに映し出される映像を定着させるための努力が多くの人々によって続けられてきた。したがって、写真の誕生を十九世紀に突如現れたダゲール個人の発明品と考えるのは早計である。もっとも、写真術の誕生が十九世紀に大きな影響力を持ち、芸術や人々の生活に決定的な変化を与えたことは事実である。写真は自然の像を光によって記録する。そのため当初は現実世界を正確に写し取るものと考えられた。写真は絵画に代わるはたらきをするのではないが、ヴァルター・ベンヤミンは「ダゲールがカメラ・オブスクーラの像を定着することに成功した瞬間、こうした効果という点では、画家たちは技術者によって引導を渡されていた[8]」と述べている。事実、多くの肖像画家が職業写真家に転向した。産業革命によって勃興した中産階級は自分たちの社会的地位を示すため、かつては王侯貴族のものであった肖像画をダゲレオタイプ写真のかたちでわがものにしようとした。初期のダゲレオタイプは露光に30分近くを要したが、肖像画に比べたらはるかに廉価であった。しかも当時の最先端の技術による流行の産物であった写真はまた、肖像の分野ばかりでなく、記録の分野においても重要な役割を果たしている。国内の遺跡や古建築が記録として写真に収められる一方、植民地主義の拡大に伴った空前の旅行熱に駆られ、異国のエキゾチックな風景や風俗もまた写真に捉えられた。特に当時のオリエンタル趣味を反映して、エジプトや中近東が好個の被写体とされた。また、クリミア戦争やアメリカ南北戦争を写した戦争写真も、当時の重要な記録写真として挙げられる。これらの広義の意味での記録写真は、十九世紀後半の絵入り雑誌に図版として掲載され、アルバム、写真帖、絵葉書として流通した。このように写真はその誕生から、世界の正確な写しと考えられ、しかも複数存在することが可能なものと考えられてきた。とりわけ記録写真の分野では、カロタイプあるいはネガ=ポジ処理法の使用によって、ダゲレオタイプでは考えられなかった写真の複数性が問題となったのである。

 芸術作品の問題に関して、マルローが写真という複製メディアに注目するよりも早く、ベンヤミンも「複製技術時代の芸術作品[9]」という論考において同じ問題と向き合っていた。ベンヤミンはまず、芸術作品が技術習得や作品流通のために古くから模造されてきたことを指摘している。しかし、伝統的な模造は絵画の模写のようないわば手仕事であって、オリジナル作品をそのまま写し取るというより模造者によるオリジナルに類する制作でもあった。それに対し、複製技術による芸術作品の再生産はそのような芸術作品の原理的な複製可能性とまるで異なった事柄であるという[10]。そもそも芸術作品は「『いま』『ここに』しかないという一回性[11]」を有しているからである。「一回性」は作品の存在の場と結びついており、作品の歴史をかたちづくり、オリジナル作品が「ほんもの[12]」であることの証しである。伝統的な作品模造がこのオリジナルの一回性をも再現しようとしたのに対し、複製技術による再生産はその複数性によって、オリジナルにあったところの一回性を捨て去ってしまう。すなわちベンヤミンによれば、複製技術は芸術作品の「『いま』『ここに』しかないという性格」を失わせてしまう。そこで失われるものをベンヤミンは「アウラ」と捉え、この「アウラ」の喪失こそ複製技術時代の特徴であるとしている[13]

 また、写真に代表される複製技術は、オリジナル作品に対して「高度の独立性[14]」を持っている。なぜなら、写真技術は人の視覚よりはるかに正確な映像を定着できるからである。またオリジナルそのものを鑑賞者に近づけることもできる。すなわち、「複製技術は、複製の対象を伝統の領域から引き離し」、「これまでの一回かぎりの作品のかわりに、同一の作品を大量に出現させるし、こうして作られた複製品をそれぞれ特殊な状況のもとにある受け手のほうに近づけることによって、一種のアクチュアリティを生み出している[15]」というのである。このように、ベンヤミンは複製技術が芸術作品から一回性という「アウラ」を奪い取り、「複製」の流通によって鑑賞者に固有の芸術鑑賞の場を提供すると考えている。「複製」によって芸術作品が作品本来の場から引き離され、美術館という芸術鑑賞のための場を飛び越えてわれわれの日常の中に作品が入り込んでくるという状況は、まさしくマルローの「空想美術館」のあり方に通じる。また、「複製」を介して鑑賞者がそれぞれ個別的な状況下で芸術作品を鑑賞する、そうした鑑賞形態が一種のアクチュアリティを生み出しているという指摘は、間違いなくマルローの「空想美術館」の存在意義を先駆けているのである。


写真をめぐる状況の複雑さ


 写真術の誕生は同時代の画家たちに大きな影響を与えた。肖像写真にしても記録写真にしても、視覚的な世界を写し取るという従来絵画が果たしてきた役割を写真が担うようになったからである。肖像画が肖像写真に取って代わられたように、たしかに現実を正確に写し取るという機能において、もはや絵画は写真にたちうちできない。だが、当時の画家たちはそのことをだまって甘受するのでなく、現実の正確な複写という写真技術を利用し独自の絵画表現に取り込もうとした[16]。たとえば、アングルやクールベは事物の現実的な外観を正確に捉えるため写真を利用した。ただし、このような写真の利用はカメラ・オブスクーラ以来なされてきたことであり、特に目新しいものではなかった。一方、マネやドガは写真画像の視覚性を絵画表現に取り入れることに熱心であった。印象派の画面はまさに写真のスナップ・ショットである。彼らは写真にしか捉えられない瞬間性や現在性を、画面上に再現しようとした。すばやい筆致を並置し、筆跡をそのまま残そうとしたり、また肉眼では見ることのできないブレ効果を画面に取り込もうとしたりするなど、さまざまな試みを行っている。この写真にしか捉えられないイメージ世界は、造形表現に大きな影響を与えたといえる。だが、そのような試みは、下絵としてであれ視覚表現の新しい手法のヒントとしてであれ、写真技術をあくまで技術として扱うにとどまっていた。写真の複数性はいまだ、技術の普及にとって便利な特徴という程度にしか考えられていなかったのである。

 画家たちの試みとは別に、写真家の中に写真を単なる技術ではなく芸術の域にまで高めようと試みる者が現れてきた。ダゲレオタイプに代わってネガ=ポジ処理法が中心となった1850年代半ばにネガ修正技術が発見されたことによって、写真に伝統的絵画のような美化や理想化が施されたり[17]、またレイランダーらによってネガ合成モンタージュ写真が制作されるようになった。これは、単なる世界の正確な写しという技術的な側面から写真を解放し、絵画のような芸術的表現手段たらしめようとする試みであった。しかし、芸術を指向する写真は写真の最も基本的な機能である記録性をないがしろにし、絵画を模倣した二流の芸術にすぎないという批判もあった。シャルル・ボードレールは芸術写真を「芸術の中に闖入してきた工業[18]」であり「芸術にとって最も不倶戴天の敵」であると断じた。「もしも写真が、芸術の諸機能のいくつかにおいて芸術の代行を果たすことを許されるならば、写真は間もなく芸術の地位を奪ってしまっているか、芸術を完全に堕落させてしまっている」。ボードレールによれば、写真は「諸科学、諸芸術の下婢」として本来の義務に戻るべきであるとされたのである。

 以上のような、いわば写真の黎明期における写真が技術であるか芸術であるかという論争は、結局のところ決着がつかぬままに終わることになり、やがて写真はその両方を併せ持つものとみなされるに至る。そのことは、アルフレッド・スティーグリッツの「二九一」ギャラリー(1905年)からニューヨーク近代美術館の写真部門の設立(1940年)を経て、ついには写真が美術館や画廊に収集され展示されるのがあたり前と考えられる時代の到来へと至る。新たに収集・展示の対象とされるようになった写真は、先ほどの絵画に近づくことで芸術になろうとしたピクトレアリスム写真ではなく、むしろボードレールが技術に留めようとしていた記録性を特徴とするドキュメント写真であった。これすなわち、写真がその記録性や複数性という技術的特徴を備えたままミュージアム・ピースとしての市民権を得たということである。ベンヤミンは芸術作品を一回性と持続性すなわち「アウラ」によって定義し、写真を瞬間性と反復可能性に結びついたものと考えている[19]。そこでは優れて明快な価値基準としてモノの存在感の違いが共有されており、「アウラ」を持つ芸術作品と限りない瞬間の記録でありまた同一のものが複数作られうる写真が明確に区別されていた。それはたとえ写真が芸術と認められるようになったとしても変わらない価値基準であり、ベンヤミンはむしろそれこそ写真という複製芸術の持つ新しい特徴であると考えていたのである。

 しかし、今日のわれわれの時代ではベンヤミンのいう複製技術時代に起こり得なかったことが起きている。つまり、写真にも一種の本物らしさがあり、モノとして純粋な存在感を有するとみなされ始めているからである。それは美術館の収集・展示の対象とされるようになった「オリジナル・プリント」の再評価プロセスに顕著である。写真家が自らの手で焼いたプリントと他の誰かが焼き増したプリントでは、モノの存在感というより表現の質に明らかな違いがあるとされるからである。つまり、絵画に写真複製があるように、写真にも「複製」(本・雑誌や写真集)が存在している[20]ということである。そのような意味で、写真の「オリジナル・プリント」にも「アウラ」の存在を見ることができるのである。しかし、決して写真の持つ「アウラ」と絵画の持つ「アウラ」が同一であるということではない。絵画の持つ「アウラ」が絵画の一回性に本質的に備わっているのに対して、写真の「アウラ」は複数生まれた同一の他者との関係性によって後から加えられる性質であるからである。それは単純にものが古びたことによる魅力や稀少性という経年変化によっても獲得し得ると考えられる[21]

 このように機械複製物である写真にも「アウラ」の存在を認めるという考え方は、複製メディアとしての写真をめぐる言説を錯綜させているといえる。ただし、このような後から付加される性質としての「アウラ」は、写真にとどまらないモノ一般にも当てはまる現象を言い当てている。経年変化による価値の獲得という考え方によれば、たとえばギリシア時代のオリジナルの彫刻は多くが失われているが、当時は複製品にすぎなかったローマ時代のコピーが今日では堂々と美術館に展示されており、多くの人がその価値を疑っていないという状況がある。また複製図版を集めた画集も、たとえば十九世紀当時ボードレールが手にしていたかもしれないという付加価値や今日では出版されていないため手に入りにくいという稀少価値など、経年によってモノとしての価値を増していく。このような状況を見ても、もはや芸術作品のみならずモノ一般においてオリジナルと「複製」という複数性を考える際に、それらをベンヤミンの考えた存在感の違いによって単純に二分することはできないのではないだろうか[22]。つまり写真の登場によって問われることになった芸術作品における複数性の問題が、オリジナルと「複製」の問題だけでなく、「複製」の中にもまたオリジナルと「複製」を見るような入れ子構造に陥ってしまったというわけである。

 この点から、マルローの「空想美術館」におけるひとつの問題が浮かび上がってくる。それは「複製」によって喪失された芸術作品の「アウラ」が再び「複製」に付加されることによって、理論上モノに制約されるはずのなかった「空想美術館」もまた「現実の美術館」と同じような限界を背負う場合が生じるという点である。つまり、あらゆる芸術作品を複製写真によってすべて同質なものとし、手に入れることができるはずの「空想美術館」が、特定の「アウラ」を持った「複製」によってその収集の無限性を阻まれてしまうからである。「空想美術館」にとって、「複製」はモノとして特別の意味を持たないすべて同質のものでなければならなかった。それは、写真という複製メディアがその効果によって複製写真にオリジナルの芸術作品とは別の質や意味を持たせることになったとしても、複製写真どうしは同質であることから「空想美術館」が成り立っていたということを示すものである。そして、それこそマルローが美術の歴史を「写真撮影可能なものの歴史」としたところの、写真による芸術作品の同質化のはたらきであったということができる。

 マルローの考えた「空想美術館」の無限の可能性、すなわち複製写真を入れ替えるだけで新しいイコノグラフィーや「様式」を無限に展開していく可能性を担っているのは、複製メディアとしての写真であって、モノとしての「アウラ」を持つような芸術写真ではなかった。マルローにとって写真とは、いわばモノとしての意味を超越し、その質を評価の対象にすることができないものといえる。そのように芸術写真と複製写真を区別し、写真という複製メディアが芸術作品の「アウラ」を喪失させるものであるという「複製」概念がなければ、マルローの「空想美術館」の普遍性を支えることはできないのである。


「複製」の鑑賞


 したがって「空想美術館」において重要なのは、写真という複製メディアがさまざまな効果によってオリジナル作品に新たな魅力と「様式」を与えつつ、モノとしての存在感を異にする「複製」を作り出すことで、あらゆる芸術作品を「空想美術館」に同列に並べることができるという点である。では、「空想美術館」に同列に並べられた「複製」を鑑賞するということは、いったいどのような意味を持っているのだろうか。

 「空想美術館」ではすべての芸術作品が複製品として「写真版」になっていることについて、マルローは次のように自問し、それに答えている。「空想美術館で写真版が失ったのは何であろうか。事物としての質である。そこでこれらのものが獲得したものは何であろうか。それらのものがわがものとし得る造形的様式としての最大の意義である」(MI, p.52)。「空想美術館」において「複製」がオリジナルの芸術作品と異にしている存在感とは、「事物としての質」であった。そして、さまざまな芸術作品が「複製」となることによって自身の「質」と引き換えに得たものは、「様式の意義」であった。それはすなわち、われわれ鑑賞者が「現実の美術館」ではなく、「空想美術館」における芸術鑑賞によって見出し得るものであると考えられる。ここで再び、マルローは「空想美術館」におけるわれわれの「芸術的認識」について次のように語る。「美術館に加えて戯曲を読むことに対する演劇の上演やレコードを聞くことに対する音楽家の演奏会があるが[23]、今や人間が今まで知ることのできた最も広大な芸術的認識の領域が到来している。この領域は目録とその普及が互いに追いかけあう間に知的になっていく。この領域こそ、まさしくはじめての世界の遺産なのである」(MI, p.52)。このように現実の「事物としての質」の体験の代わりに、「空想美術館」で「様式の意義」を見出すということは、われわれにとって最大の「芸術的認識」であるといえる。戯曲の本やレコードと同じく、芸術作品が「複製」となりすべてがひとつの「目録」を形成し、それが普及することによってわれわれの「芸術的認識」は知的になっていく。それをわれわれに可能にする「空想美術館」こそ、その包括し得る範囲の広大さによって、真の意味で「世界の遺産」と呼びうるものであるとマルローは考えている。

 この「複製」の事物としての「質」の喪失について、ベンヤミンは「複製」が影響を及ぼした芸術作品の価値について論じている[24]。そこには、先にマルローが美術館の誕生に見た芸術作品の「変貌」と共通する点がある。すなわち、ベンヤミンは芸術作品に接する際のアクセントの置き方について、ふたつの対極を考えた。それが芸術作品の「礼拝的価値」と「展示的価値」である。ベンヤミンによると芸術作品の発生は宗教的儀式と深く結びついていたとされる。ルネサンスとともに芸術は非宗教化したが、そこには「美の礼拝」ともいうべき世俗化したある種の儀式があいかわらず存続しつづけた。そのような「礼拝的価値」における芸術作品は、「人々がそれを眺めるということよりも、それが存在しているという事実の方が重要であった[25]」という。一方、「展示的価値」は作品のモノとしての固有の存在よりも、人々がそれを鑑賞するということを重視するものである。その芸術作品の「展示的価値」は複製技術の発達によって増大する。なぜなら、「複製」はモノとしてのオリジナリティを無意味なものとすることによって、芸術作品を儀式より解放するからである。したがって、「展示的価値」とはまさに「空想美術館」における芸術作品の価値そのものにほかならない。「展示的価値」は、「空想美術館」が写真複製において芸術作品をただ鑑賞の対象としてその表象を均質の画面に留めおき、「事物としての質」を喪失させたことによって、われわれの「芸術的認識」が知性化されたというマルローの先ほどの考えと一致する。


「複製」による芸術体験


「空想美術館」はわれわれにとって最大の「芸術的認識」を開くものであり、その形成と普及によってわれわれの「芸術的認識」を知性化するとマルローが考えたように、スーザン・ソンタグもまた、世界を「複製」する写真がわれわれの世界認識において大きな役割を果たすものとしている。ソンタグはその『写真論』において、「写真はひとつの文法であり、さらに大事なことは、見ることの倫理である[26]」と述べている。すなわち、写真は世界のある場面とある瞬間を切り取る。そのいわば写真の眼がわれわれに何をどのように見るのかを規定し、それまでの人間の眼に代わる新しい視覚を与えたという。つまり、マルローが「複製」による「芸術的認識」の領域として考えたことが、写真による世界認識に当てはめられているのである。さらに、ソンタグは「私たちが全世界を映像のアンソロジーとして頭の中に入れられるという感覚をもつようになった[27]」ことを指摘し、「写真を収集するということは世界を収集することである[28]」と述べている。

 先に見たように、写真の発明によって十九世紀半ばに起こった空前の旅行熱に駆られ、たくさんの旅行写真が普及し、それらが人々の収集の対象となった。それは、複製メディアとしての写真がその効力を存分に発揮するようになったものであったといえる。写真の普及によって、ベンヤミンのいうところの「アウラ」を実際の風景を前に空間・時間とともに眺め体験する[29]のではなく、写真という世界の「複製」を通じてそのような一回性を克服してしまうという傾向は、まさに写真複製によって世界そのものを体験してしまうことにほかならない[30]。そこに「アウラ」のような「質」の体験はないが、その写真の映像から情報を引き出し知的体験とすることができるのである。また、写真の収集が世界の収集であることから、人々は写真によって対象を所有したいという欲求が高まったとされる。ソンタグによれば、それは旅行写真のような世界中の風景だけではなく、芸術作品の鑑賞にも影響を与えた。そのことからソンタグもマルローと同じく、芸術的認識において写真の果たした役割についてさらに言及している。写真の普及によって、大部分の芸術作品は写真複製によって知られるようになった。その写真複製による芸術作品の普及は、「現実のもっとも正確な報告を与えること[31]」という限定的役割を越えてしまったとソンタグはいう。写真複製は写真以前の絵画の石版や彫版による普及にはなかった特徴を備えている。すなわち写真複製は細部を自律的な構図に変えたり、本当の色彩をまばゆいものに変質させ、われわれに新しい興味と満足を与える[32]。これはまさにマルローが写真複製の効果として考えていたものと共通している。

 ベンヤミンもまた、不毛な議論に陥った芸術としての写真から「写真としての芸術」へと視点を移行させた文脈において、絵画やとりわけ彫刻・建築が「実際に見るよりも写真で見たほうが理解しやすい[33]」という事実に注目している。これは単にその理由を現代人の芸術感覚の衰退に帰すのではなく、複製技術の発達と同時に偉大な作品についての考え方に変化が起こったことに由来する。すなわちベンヤミンは「偉大な作品は、もはや個人が生み出すものとはみなされない。それは集団によって作られるものになった[34]」と述べ、マルローと同じく「複製」によって生み出される「傑作」概念を示唆している。それゆえ、われわれ人間が膨大な数の「傑作」を体験するためには、われわれにとって最大の芸術的認識を開いた領域において、「複製」の縮小技術の助けを借りることが必要であるとされる。したがって、「機械的複製を行うもろもろの方法は、つまるところ縮小技術であり、その助けをかりて人間は、作品を充分使いこなせるくらいに、手中に収めることができる[35]」のだとベンヤミンは述べている。

 このようにソンタグやベンヤミンの指摘からも、マルローの考える「複製」の鑑賞がいかにわれわれの芸術的認識に大きく関わり、いかにわれわれにとって直接的な芸術体験となっているかがわかる。すなわち、われわれの芸術鑑賞において「複製」がその普及により現実の体験に先立つ芸術体験となるという事実からも、多くの作品を鑑賞するための実際的な必須手段であるという事実からも、「複製」による芸術体験がもはや現実に作品を見ることよりも重要な位置を占めているのである。


マルロー以降の複製メディアの可能性


 以上のように、「空想美術館」における「複製」の鑑賞には「現実の美術館」でオリジナル作品を鑑賞することにない意義があり、またそれがわれわれの生活に密着した芸術体験となっているということがわかる。マルローは複製メディアとしてとくに写真を取り上げ論じていたが、いまもなおその中心的な役割と重要性は変わっていない。だが、マルロー以降複製メディアは技術の進歩によって飛躍的に多様化してきた。その最も先端にあるのは、いうまでもなくデジタル技術による「複製」である。

 デジタル画像は文字通り数字で表現されており、アナログ画像に変換されてはじめて画像として見ることができる[36]。デジタルではその変換の直前まで数字で処理されることによって、記録や伝達などの処理の過程で情報の成分が変化しない。つまりアナログに比べてより鮮明で正確な画像が得られるのである。さらにデジタル画像はコンピュータに取り込まれることによって、さまざまな操作を可能にしている。画像の大きさの拡大・縮小、画像の一部の回転、画像の付加・削除などは、画像を数値として扱うことで可能になっている。つまり、デジタル画像はより精度の高い「複製」を生み出すとともに、われわれ自身の手によって従来の写真や動画複製メディアであるビデオに取り込まれた画像に手を加えることを可能にしたのである。

 この点において、デジタル画像複製はマルローの「空想美術館」における編集という力点を強化するものである。マルローが写真という複製メディアにおいて問題にしていたのは、既にわれわれ鑑賞者に与えられた画像であって、それを写真として取り込む際の意図への関心は排除されていた[37]。しかし、デジタル画像では写真複製にみられたさまざまな効果をわれわれ自身の意図によって操作できることになる。たとえばミケランジェロの《ダヴィデ像》を好きな角度に動かし明暗を調節して画面に置くことができる。下から見上げる角度で強い光を当てれば力強い緊張感と作品の巨大さが強調され、上から見下ろす角度でソフトな光を当てれば作品の神秘的な存在感が強調されるだろう。顔の部分をクローズアップして正面や横に回転させたり、手や足の部分のみを切り取ることも可能である。それは同様の操作を加えた他のどんな作品との比較をも可能にし、しかも瞬時に同じ画面上に異なる比較対象を呼び出すこともできる。

 現在、芸術作品のデジタル複製画像は美術館に設置されたコンピュータだけでなく、われわれの机上のコンピュータからもインターネットによって自在に見ることができる。そのようなアートサイトは国内だけでも四万件を超すとされる[38]。われわれ鑑賞者の編集意図によって、いかなる作品をもコンピュータ上の画面に呼び出し操作することができるデジタル複製画像は、「空想美術館」を実際面でさらにフレキシブルなものにすることができる。またそのような芸術作品の受容の過程においては、その編集行為に鑑賞者の創造性が強調される事態が生じてくる。このようにマルローの「空想美術館」と複製メディアによる芸術作品の受容の可能性は、複製技術の発達によってさらに開かれているといえるだろう。



【註】

[1]Psycologie de l'Artは1.Le Musée imaginaire, 1947, 2.La création artistique, 1948, 3.La monnaie de l'absolu, 1950とつづく全三巻から成る。邦訳には、小松清訳『東西美術論全三巻』、新潮社、1958—59年がある。[本文へ戻る]

[2]André Malraux, Le Musée imaginaire, Psycologie de l'Art 1, Genève, Skira, 1947, p.13. 以下、Le Musee imaginaireからの引用はMIと略し、頁数を記す。なお訳文は小松訳を適宜参照した。[本文へ戻る]

[3]"musée"に「美術館」という訳語を当てているが、日本において「博物館」「美術館」と呼び分けられている狭義の美術館には相当しない。マルローの取り上げるものが美術品に限らず、宗教・考古遺物、民族学的事物、建築、テキスタイルなど多様な分野にまたがったものであることからは、むしろマルローの博物学的視野が看て取れる。しかし、マルロー自身がそれらを「芸術作品」と呼んでいることから、「博物」よりは「美術」の方がよりふさわしい呼称であると考え、"musée"に「美術館」という訳語を当てることにした。[本文へ戻る]

[4]芸術作品の自律性の獲得は、マルローの近代芸術観における重要な問題のひとつであった。とくにマルローは近代芸術の成立をマネに帰し、《クレマンソーの肖像》という作品を例に挙げ、そこに主題の破壊と芸術家の主体性の獲得という新しい「主題」(sujet)の誕生を看取っている(MI, p.59)。なお、バタイユもマルローにならって近代絵画の誕生をマネに帰し、マネによる主題の破壊を「絵画の沈黙」と評している(ジョルジュ・バタイユ『沈黙の絵画——マネ論』、宮川淳訳、バタイユ著作集、二見書房、1972年)。[本文へ戻る]

[5]「知性化」についてはポール・ヴァレリーとマルローの比較が興味深い。両者は美術館の問題について、同じ論拠からまったく別の帰結を引き出している。すなわち、ヴァレリーは傑作が一堂に並ぶ美術館ではわれわれの「知性」が傷つけられ、「博識」という敗北に陥らざるを得ないとしているのに対し、マルローはそのような「博識」こそ芸術鑑賞の「知性化」であると考えている(Paul Vallery, Paul, Le Probléme de Musèe, Œuvres II, Paris, Gallimard, 1971, pp.1290-1293.)。[本文へ戻る]

[6]写真以前の複製メディアについては註[10]参照。[本文へ戻る]

[7]マルローが「様式」に見ているのは単に特定の芸術家の手法的特徴ではない。時代や地域を超え、写真複製によって引きたてられた異種異質な作品どうしの共通項を、マルローは「様式」と考えている。また、「それ自身の進化と変貌によって知られるひとつの様式は、ひとつの理念というより生きている運命の幻想になる」(MI、p52)という点から、マルローの考える「様式」ははじめから芸術作品に内在しているというよりも、われわれが写真複製を見ることで発見し、また創造するものであるといえる。[本文へ戻る]

[8]ヴァルター・ベンヤミン『図説 写真小史』、久保哲司編訳、筑摩書房、1998年、25頁。[本文へ戻る]

[9]ヴァルター・ベンヤミン「複製技術の時代における芸術作品」、『複製技術時代の芸術』、髙木久雄・高原宏平訳、ベンヤミン著作集二、晶文社、1970年。以下、特に10〜17頁参照。[本文へ戻る]

[10]古代ギリシアでは鋳造と刻印のみであった複製技術方法は、木版・銅版・エッチング・石版が加わることで多様化し、また写真によって複製のプロセスが迅速化されたといわれる(同上、10〜11頁参照)。[本文へ戻る]

[11]同上、12頁。[本文へ戻る]

[12]同上、13頁。[本文へ戻る]

[13]ベンヤミンによればこの「アウラ」の喪失は「現今の社会生活において大衆の役割が増大しつつある」(16頁)ことと切り離しえないとされる。すなわち、ベンヤミンは複製技術の側の問題だけではなく広く社会状況を観察し、「一方では、事物を空間的にも人間的にも近くへ引き寄せようとする現代の大衆の切実な要望があり、他方また、大衆がすべて既存の物の複製をうけいれることによってその一回かぎりの性格を克服する傾向が存在する」(16頁)という点も加えて指摘している(同上、16—17頁参照)。[本文へ戻る]

[14]同上、13頁。[本文へ戻る]

[15]同上、14頁。[本文へ戻る]

[16]以下、写真が絵画に与えた影響について、伊藤俊治『〈写真と絵画〉のアルケオロジー』、白水社、1987年、28—31頁参照。[本文へ戻る]

[17]スーザン・ソンタグ『写真論』、近藤耕人訳、晶文社、1979年、92頁参照。写真がはじめて展示された1855年のパリ万博において、同じポートレートから作られたネガ修正したものと無修正のものという二種の写真が並べられると、「カメラは嘘がつける」と観衆を驚かせたという。[本文へ戻る]

[18]シャルル・ボードレール「現代の公衆と写真」、「1859年のサロン」、『ボードレール全集III美術批評上』、阿部良雄訳、筑摩書房、1985年、以下、308頁参照。[本文へ戻る]

[19]ベンヤミン『写真小史』、37頁参照。[本文へ戻る]

[20]スーザン・ソンタグは「たとえば一枚のジオットが美術館に展示された状況でもなおを持っているといえる程度には、……アッジェが使用したいまは手に入らぬ印画紙にプリントされた彼の一枚の写真も、アウラをもっているといえる」(145頁)と述べている(ソンタグ上掲書、144—145頁参照)。[本文へ戻る]

[21]絵画と写真におけるアウラの違いに関して、ソンタグはそれらが画面に留めている画像や主題の「瞬間に対する異なる関係」(145頁)によるものであることを指摘している。絵画に対しては逆らう傾向にあった時間の侵蝕は、写真に対して有効に働きかける。つまり「写真固有の興味と、その美的価値の主な源泉はまさに時間が写真に及ぼした変質、それが作者の意図を逃れるありさま」(145頁)であって、どんな写真もすべて古びることで魅力を発揮する。このように「充分な時間を与えられれば多くの写真はアウラを獲得するものである」(145頁)とソンタグは述べている(同上、145頁参照)。[本文へ戻る]

[22]この問題に関して、逆にモノとしての経年変化を受けることのない複製技術の例が挙げられる。それはいうまでもなくデジタル画像である。経年変化による価値の獲得がモノとして当然の現象であるとすれば、そもそもオリジナルや「複製」として存在しないデジタル画像においてその現象が見られないのは当然であるといえる。ただしCD-ROMなどのある種モノとしての形をとれば、デジタル画像においても従来の出版物のような価値の獲得はあり得るが、デジタル画像自体が古びたセピア色に見えるようになるといった変化を受けることはあり得ない。また、ホームページのように日々どんどんデータが書き換えられ古いものが残らない場合さえある。このようなところにも、今日複製技術をめぐるオリジナルと「複製」の問題に関して単純に二分できない複雑な状況が見られることを指摘しておく。[本文へ戻る]

[23]マルローの「空想美術館」概念を同時代的に受けとめたひとりである吉田秀和は、このような意味における現実の演奏会の状況を憂いて、空想の演奏会の可能性を示唆していた(吉田秀和「《空想の演奏会》は可能か」、「『東西美術論』をこう読んだ」、『芸術新潮』、8月号、新潮社、1958年、72—73頁、73頁参照)。[本文へ戻る]

[24]ベンヤミン「複製技術の時代における芸術作品」、17—22頁参照。[本文へ戻る]

[25]同上、19頁。[本文へ戻る]

[26]ソンタグ上掲書、9頁。[本文へ戻る]

[27]同上、9頁。[本文へ戻る]

[28]同上、10頁。[本文へ戻る]

[29]ベンヤミン『写真小史』、36—37頁参照。「夏の真昼、静かに憩いながら、地平に連なる山なみを、あるいは眺めている者の上に影を投げかけている木の枝を、瞬間あるいは時間がそれらの現れ方にかかわってくるまで、目で追うこと——これがこの山々のアウラを、この木の枝のアウラを呼吸することである」とベンヤミンは述べている。[本文へ戻る]

[30]このように写真による世界体験のようなものによって「アウラ」を崩壊させることは、「ある種の知覚の特徴」(37頁)であるとベンヤミンは考えている(同上、37頁参照)。[本文へ戻る]

[31]ソンタグ上掲書、150頁。[本文へ戻る]

[32]さらにソンタグは、われわれの芸術体験において「いまや写真が現実であって、本物の経験はしばしば幻滅に終わる」(150頁)ということを指摘する。ソンタグはそのような本物に先立つ写真複製による芸術体験を、「仲介されて中古ではあるが、それはそれで強烈な芸術体験を写真は標準としている」(150頁)と述べている(同上、150頁参照)。[本文へ戻る]

[33]ベンヤミン『写真小史』、45頁。[本文へ戻る]

[34]同上、45頁。[本文へ戻る]

[35]同上、45頁。[本文へ戻る]

[36]行田尚義『デジタルコンテンツと絵画』、井関正昭監修、森北出版株式会社、2000年、111—118頁参照。[本文へ戻る]

[37]ただし図版として本に収める場合、マルローは写真の効果をどのように用いるかという意識を強く払っていたと考えられる。なぜなら、『芸術の心理学』という本が白黒とカラー図版を多様におりこんだ当時としてかなりの豪華本であり、トリミングやライティング、拡大・縮小、断片化といった写真の効果を駆使し、「複製」によってオリジナルの作品とはまったく異なる魅力があらわされているよい例となっているからである。マルローはそのような自らの図版使用に対する意識について、『芸術の心理学』と同じ体裁を与えたとされる『ゴヤ論—サチュルヌ』の序で「図版は歴史的な著述書が挿図と呼んでいたところのものではほとんどない。すなわち図版は作品解説に従うのではなくむしろこれに代わるものであり、映画の画像と同じく、それらのトリミングや連続性によってときに着想を与えようと欲するものである」と述べ、「空想美術館」の編者である自分が、写真を撮る際のトリミングなどの意図も含めて積極的に図版を使用した姿勢を示している(Malraux, Saturne, Essai sur Goya, Paris, Pleiade, 1950. p9)。[本文へ戻る]

[38]月間ギャラリー編集部編『アートサイトパラダイス URLデータ1024』、ギャラリーステーション、2000年参照。[本文へ戻る]



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