第一部

記載の世界



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漢倭奴国王金印
(国宝の複製)
弥生時代中期金
印面縦・横二・三四cm
東京国立博物館蔵

  この金印は、天明四(一七八四)年に、福岡市志賀島で百姓甚兵衛によって発見された。約二・三四センチ四方の印面に、篆書体で「漢委奴国王」と陰刻されている。この読み方に関しては、第一に「委奴=倭奴」として「ヤマト」と読む、第二に「委奴」を「イト」と読みいわゆる『魏志』倭人伝にいう伊都国をあてる、第三に「委=倭」とし「漢・倭・奴・国王」と分けて読む、などの案が示されたが、中国で出土した他例との比較検討を経て第三案の可能性が最も高いとされる。第三案のように考えることにより、いわゆる『後漢書』倭伝の「建武中元二年、倭の奴国、奉貢朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武、賜うに印綬を以てす」という記事に対応する点が重要である。なお、建武中元二年は紀元後五七年で、弥生時代の中期から後期への転換期にあたる。同じく『後漢書』倭伝には、一〇七年に「……倭の国王帥升等、生口百六十人を献じ、請見を願う」という記載が見られ、倭人は後漢王朝との関係を保持しようとしたらしい。

  当該金印の鈕(印の摘み部分)は蛇を表しており、全体的に施された円紋は鱗を表現していると思われる。蛇鈕金印は、他に中国雲南省晋寧県の石寨山遺跡から「王之印」が出土しているが、蛇鈕印そのものの推移をふまえると、前漢武帝代の「王之印」は「漢倭奴国王」印と同列には扱えないことが指摘されている。印章の大きさ、材質、鈕の動物、使用できた文字などには規約が存在し、製作にあたってはこれらを遵守しなければならなかった。このような印の賜与は、漢王朝の制度として機能したことは間違いなく、東アジア世界における倭的世界の位置づけを窺い知ることができる。



参考文献

石原道博編訳、一九九一、『新訂魏志倭人伝他三篇』、岩波文庫
大谷光男編、一九九四、『金印研究論文集成』、新人物往来社
高倉洋彰、一九九五、『金印国家群の時代』、青木書店



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