縄文時代人骨の調査・収集史

姥山貝塚
所在地:千葉県市川市柏井町

姥山貝塚は千葉県を代表する馬蹄形貝塚の一つであり、縄文時代の中期後半から後期中葉にかけて形成されたと考えられている(堀越,2000)。1893(明治26)年に八木奘三郎が初めての発掘(八木,1893a、1893b)を行なって以来、縄文研究における極めて重要な調査・発見がなされたことから、本貝塚は広く衆目を集めるに至った。これら学史的な意義を特に堀越(1976、1997、2000)が詳しくまとめている。

人骨の収集は1911(明治44)年の高橋健自らに始まる。高橋らは、発見した人骨を小金井良精に提供したことが知られている(松村ほか,1932)。その後、1926(大正15)年の東京人類学会、同じく1926年の2期にわたる東京帝国大学人類学教室、1930(昭和5)年の大山史前学研究所、1938(昭和13)年の早稲田大学付属第一高等学院、1948(昭和23)年の日本考古学研究所ほか、1949(昭和24)年および1950(昭和25)年の東京大学人類学教室、1962(昭和37)年の明治大学考古学研究室によって、人骨の収集が行なわれた(人類学雑誌の雑報,1926a、1926b、宮坂・八幡,1927、大山・甲野,1931、松村ほか,1932、藤澤,1938、水野,1938、酒詰,1951、グロート・篠遠,1952、杉原,1967、杉原・戸沢,1971、酒詰仲男の調査日誌)。以上の発掘による出土人骨数は、発掘報告や保存資料などから少なくとも139体と推算される。

本館収蔵の人骨群は、1911年の高橋健自ら、1926年の東京人類学会および東京帝国大学人類学教室、1948年の日本考古学研究所ほか、1949年と1950年の東京大学人類学教室、1962年の明治大学考古学研究室の調査などによるものである。これらは、本館の標本資料報告No.3では133点の人骨標本として登録されており、各々の保存状態から判断して100体分程度の成人の個体埋葬骨、およびその他の幼児骨や断片骨からなる。

上記の収蔵標本を用いて姥山貝塚人骨の頭蓋形態を詳細に記載し、津雲や吉胡など他の縄文人集団との相違を論じた人類学的研究としてKondo(1993a、1993b、1994)がある。

なお、本貝塚の主な出土人骨が属する時代区分は、加曽利E期(中期後葉)、堀之内期(後期前葉)、加曽利B期(後期中葉)の3期に大別されている(堀越,1976)。


本館に収蔵されている姥山貝塚の人骨は以下の標本群からなる。

姥山(’11)

これは、当時の東京帝室博物館の高橋健自らによって1911年に発掘された人骨である。発掘報告と人骨の記載報告はともにないが、松村ほか(1932)は人骨の由来に関して「明治44年ニ至リ故高橋健自博士等ハ同貝塚ヲ発掘シテ人類ノ頭骨一顆ヲ得、之ヲ小金井博士ノ許ニ提供シテヰル。此ハ文献トシテ何等ノ記録モナク、唯現ニ小金井博士ノ保管ニ係ル該頭骨ニ添ヘラレタル発掘者ノ書簡ニ據ルノミデアル」と記している。本館にはこの書簡が保存資料として収められており、高橋健自のほか古谷清・吉田白嶺の署名が見られる。また採集した人骨一括を参考資料として小金井に提供すること、遺跡の貝層は比較的浅かったこと、人骨は貝層下から出土したことなどが文面に見受けられる。

現在1標本として本館の標本資料報告No.3に登録。

保存資料:高橋健自らが小金井良精に宛てた書簡

姥山(’26)および姥山(’27)

これらは、東京人類学会および東京帝国大学人類学教室によって1926年に発掘された人骨群である。当時の発掘の経緯として堀越(2000)の記述を以下に引用する。ただし引用中の「5月12日」および「8月26日」という日付は、松村ほか(1932)によると各々「5月13日」および「8月27日」となっている。「1926(大正15)年5月9日、第8回東京人類学会遠足会が姥山貝塚で実施され、参加者150名により、これまで通りの貝層に対する乱掘が行われた一方で、東京帝国大学人類学教室員により、当時かえりみられることのなかった貝層下の土層までの掘り下げが行われたため、小石で囲われた炉跡と完全な屈葬人骨1体が発見された。ことの重要性を認めた東京帝国大学人類学教室では、同年5月12日から教室の事業として発掘を実施した。6月28日までの第1期調査はA地点と呼ばれ、副手の宮坂光次を担当者として北に拡張し、8月26日からの第2期調査はA地点の続きと新規にその北西約20間(36m)の所にB地点を選定し、副手の八幡一郎を担当者として発掘調査が開始された。そして両地点の関係を知るためのA・B地点接続溝が入れられ、10月22日にすべての調査が終了した」。

東京帝国大学人類学教室による発掘は、先進的な手法に基づき学史上重要な発見がなされたことで著名であり、それらの成果を堀越(2000)は次のようにまとめている。「3か月半にわたる期間の長さ、約1000㎡におよぶ広い調査面積など、当時としては破格な規模の発掘調査により、それまで断片的であった縄文時代の竪穴住居跡が初めて完全な姿で確認された。しかも10数軒も発見され、集落として展開していたことが予想されたこと、B9号住居跡の床に横たわって成人男女各2人と子供1人の計5人の人骨が発見され、家族と居住の問題に関する検討材料を提供したことなど、大きな成果があがった。なお、この調査にあたっては、層位学の原理で遺物を収集したことはいうまでもない。一方、空中写真の撮影が下志津陸軍飛行学校により、また地形と貝塚の測量図や竪穴住居跡などの平面図の製作が陸地測量部により実施された。このほか遺構や遺物出土状態が鮮明に写真撮影されるなど、近代的な記録法が導入された記念すべき画期的な発掘調査でもあった」。

本館収蔵の姥山(’26)に属する標本群のうち、UMUT131653は東京人類学会の遠足会に際してA地点で発掘された人骨である。またUMUT131654から131659はA地点で、UMUT131660から131661はB地点で、UMUT131664から131668はA・B地点接続溝(B9号住居址)で、東京帝国大学人類学教室が発掘した人骨群である。一方、姥山(’27)に相当するUMUT131669は1927年に発掘されたものとして本館の標本資料報告No.3に登録されているが、これに該当する1927年の報告はない。松村ほか(1932)による人骨の保存部位の記載から判断して、この標本は実際には1926年の同人類学教室発掘によるA地点第2号人骨であると考えられる。以上に関する発掘報告として人類学雑誌の雑報(1926a)、宮坂・八幡(1927)、松村ほか(1932)があり、人骨の記載報告として松村ほか(1932)がある。また本館には、当時の発掘の様子や人骨の出土状況などを収めた写真アルバムおよび航空写真が保管されている。

接続溝内のB9号住居址(接続溝第1号住居址)で発見された上記5体の人骨群は、いずれも竪穴床面上に横たわった状態で発見され、埋葬の痕跡が認めがたいとされたことから、同住居址内で何らかの事情のため同時に横死したものと解釈された(松村ほか,1932)。人骨のこのような出土状態は当時としては稀有であり、縄文時代の家族と居住に関する問題を論じる際には本標本群が中心的な研究資料として扱われてきた。本事例に関する主な研究として、住居址の面積と居住人員の関係を論じたもの(関野,1938)、構成員の死亡原因に言及したもの(亀尾,1933、小林,1967)、構成員の死亡年齢を骨鑑定から推定したもの(大塚,1975、春成,1981)、構成員間の婚姻・血縁等の関係を論じたもの(塚田,1966、大塚,1975、岡本,1975、春成,1981)、埋葬の痕跡を指摘したもの(佐々木,1986)などが挙げられる。

なお、A・B両地点出土の人骨群は加曽利E期(中期後葉)に属すると推測されている(堀越,1976、1997)。また、接続溝内B9号住居址出土の人骨群が属する時期は明確に言及されていないが、住居址中央の炉址からは中期中葉の勝坂式土器の上半部(1個体)が検出されている(堀越,1976、1997、2000)。

現在17標本として本館の標本資料報告No.3に登録。

保存資料:人類学教室古写真アルバムNo.91-103,116

     下志津陸軍飛行学校による航空写真

     上記航空写真のうちA地点を拡大したもの

姥山(’50?)および姥山(’50)

これらは1948年から1950年の間に、日本考古学研究所や東京大学人類学教室などにより3回にわたって発掘された人骨群である。一連の発掘の経緯を酒詰(1951)、グロート・篠遠(1952)、堀越(1976、1997、2000)、酒詰仲男の調査日誌・実測図などに基づき以下に略記する。

1948年9月1日、当時の東大人類学教室助手であった酒詰仲男は、市川市中山付近で貝塚発掘の案内をするようにGHQ経済科学局繊維課のラルフ・D・ブラウン(R. D. Brown)から要請された。その発掘対象として酒詰は姥山貝塚を選び、1948年9月6日より発掘に着手した。このときの発掘地は貝塚のおよそ北西部にあたり、後にD地点と呼称される。当初は9月28日までの発掘予定であったが、日本考古学研究所長ジェラード・J・グロート(G. J. Groot)が代表となり、Asiatic Society(アジア協会)および Netherland Army Mission 後援のもと、在留外国人を主体とする発掘としてその後も継続された。酒詰は引き続き実質的な発掘作業を担当しており、12月27日に全作業が終了した。このときの出土人骨数は少なくとも25体と報告され、出土遺物のうち外国人団発掘のものは日本考古学研究所に、東大人類学教室発掘のものは同教室に保管された。その後、東大人類学教室はD地点の東方に隣接する場所(E地点)を独自に調査することとし、翌1949年の3月から4月にかけて約90㎡にわたり発掘を行なった。このときの出土人骨数は12体と報告されている。翌1950年の8月2日から8月14日にかけ、東大人類学教室はE地点の東方に隣接する場所(F地点)で約80㎡(保存資料中の実測図から概算)にわたり再び独自の発掘を行ない、その結果32体の個体埋葬骨および幼児骨・断片骨を得た。

1948年の調査に関しては酒詰(1951)とグロート・篠遠(1952)による発掘報告があり、また酒詰による当時の調査日誌が本館に保存されている。1949年の調査に関してはグロート・篠遠(1952)に簡潔な発掘報告が見られるのみである。1950年の調査に関しては出版物としての報告は見当たらないが、酒詰による詳細な調査日誌や出土人骨群の実測図、関連写真が本館に保存されている。

上記のうちD地点出土の人骨群は堀之内期(後期前葉)に属すると考えられている(堀越,1976)が、E・F両地点出土の人骨群が属する時期は明確にされていない。またD地点における人骨群の埋葬方向は「大体環状の土手の稜線と一致」していたことが報告されており(酒詰,1951)、さらにF地点における人骨群は4列縦隊で埋葬されていたことが岡田茂弘により指摘されている(堀越,2000)。

本館収蔵の姥山(’50?)に属する標本群は、3回の発掘のうちいずれで出土したものかこれまで不明確であった。この件に関して遠藤・遠藤(1979)は、「発掘年月日不明のものについては1948年9月から1949年4月にかけて発掘の可能性もあるのではないか」としており、一方で堀越(1997)は、姥山(’50?)に属する全標本が1949年の発掘に由来すると推測している。今回の整理事業においては、UMUT131670から131676が1948年、UMUT131677から131685が1949年の発掘に由来すると判断された。この解釈は以下の根拠に基づく。

1)姥山(’50?)のうちUMUT131677から131685の発掘時番号(AからL)は、姥山(’50)のうちUMUT131686から131698の発掘時番号(MからZ)とアルファベット順に連続している。東大人類学教室による1950年の発掘では、人骨の発掘時番号はMから付けられたことが酒詰の調査日誌から明らかである。従がってAからLの発掘時番号を付けられた人骨群は、前年の1949年に同教室が一貫して発掘したものである可能性が高い。1949年にAからLまでの人骨群が出土していた場合、それらの出土数は計12体となり、グロート・篠遠(1952)によって報告された1949年の出土人骨数と一致する。なお今回、UMUT131677から131685については、本館の標本資料報告No.3の備考欄における発掘時番号を、各標本における出土報告番号とみなして記載した。

2)姥山(’50?)のうちUMUT131670から131676は発掘時番号が付けられていない点から、これらは東大人類学教室が独自に発掘した人骨群とは考えにくい。日本考古学研究所などによる1948年の発掘では、東大人類学教室が発掘した遺物は同教室が保管したという報告(酒詰,1951)があることから、UMUT131670から131676はこれら人類学教室発掘分に相当すると推測される。

本館収蔵の姥山(’50)に属する標本群は、1950年の発掘に由来する。これらのうち、UMUT131686から131698、UMUT131700から131716、UMUT131717(第2個体)については酒詰の調査日誌、出土人骨群の実測図、発掘関連写真のいずれかにそれらの出土記録が残されている。

なお、国立科学博物館に貸し出していた姥山(’50?)および姥山(’50)の関連標本群が、2003年3月に本館へ返却された。これにより、本館の標本資料報告No.3に登録済みの13標本に主として頭蓋骨が補完された。

現在51標本として本館の標本資料報告No.3に登録。

保存資料:人類学教室古写真アルバムNo.110,111

     1948年と1950年の酒詰仲男による調査日誌

     1950年発掘時の実測図と関連写真

姥山(’62)

これらは、1962年5月10日から5月20日にわたり、杉原荘介と戸沢充則を担当者とする明治大学考古学研究室によって発掘された人骨群である。発掘報告として杉原(1967)と杉原・戸沢(1971)があるが人骨の記載報告はない。また墓址の形成順序と埋葬人骨の頭位に関する研究として西澤(1994)がある。

この調査では、貝塚東部において348㎡に及ぶ区域(M地点と呼称される)が発掘の主要対象となった。このM地点は、東京帝国大学人類学教室が1926年に発掘したA・B地点接続溝の南方に近接する。このほか4ヶ所で試掘が行なわれ、貝塚西部内縁の2地点はM1・M2試掘区、貝塚南東部の地点はM3試掘区、貝塚南部の地点はM4試掘区と名付けられた。さらにこのときの調査では、貝塚の全体的な分布を知るための詳細な測量がなされている。その結果、姥山貝塚の広がりは東西・南北方向で各々およそ130mと120mに達しており、従来まで考えられていた環状ではなく、南方に開口部を向けた典型的な馬蹄形であることが明らかとなった(杉原・戸沢,1971、堀越,2000)。

M地点内の約8×20mの区画からは42体の人骨群が出土している。これらは、本館収蔵の姥山(’62)に属する標本群のうちUMUT131721から131764(標本名1から42)に相当すると考えられる。これら42体のうち5体は加曽利E期(中期後葉)、7体は堀之内期(後期前葉)、30体は加曽利B期(後期中葉)に属すると報告されている。また加曽利B期に属する人骨群の一部には列状の埋葬様式が指摘されている(杉原・戸沢,1971)。なお上記以外のUMUT131765から131770に関する記述は発掘報告に見受けられず、それらの出土地点や埋葬時期などの詳細は不明である。

姥山(’50?)および姥山(’50)の場合と同様、国立科学博物館に貸し出していた関連標本群が2003年3月に本館へ返却された。これにより、本館の標本資料報告No.3に登録済みの標本群のうちUMUT131729・131743・131761の3標本に頭蓋骨が補完された。

現在50標本として本館の標本資料報告No.3に登録。

保存資料:なし

姥山

本館の標本資料報告No.3に登録済みのUMUT131771から131784に関する情報は以前までほとんどなかった。今回の整理事業に際し、新たに以下の解釈をした。

  • 頭蓋骨からなるUMUT131771と、頭蓋骨片および体幹骨からなるUMUT131676は、互いの骨片が接合する点から同一個体と判断される。その場合UMUT131771は日本考古学研究所などによる1948年の発掘に由来すると解釈される。
  • UMUT131772の標本自体には「姥山18」と記されており、この記載様式はUMUT131671・131672・131674・131675・131771のものと類似している。上記5標本は日本考古学研究所などによる1948年の発掘に由来すると解釈されることから、同じ記載様式のUMUT131772もこの発掘に由来すると考えられる。
  • UMUT131773には、当時の棚番号(H-2)が記された紙片が付属している。これには「姥山(’62)12」から「姥山(’62)21」の標本名が記されていることから、この標本は明治大学考古学研究室による1962年の発掘に由来する可能性がある。
  • UMUT131774には「第1号人骨 頭蓋アリ(土器と一緒だった為) 九月廿二日」と記された紙片が付属しているが、いつの発掘に由来するものか明らかでない。
  • UMUT131776・131777・131778に付属する紙片には各々「拡張G 12.1.頭骨No.22」、「12月1日 拡張G人骨」、「拡張G 東壁内人骨附属」と記されている。これら紙片の情報と酒詰(1951)の記述との符合から、上記3標本は日本考古学研究所などによる1948年の発掘に由来すると解釈される。1948年12月1日にはG区で第22号人骨が発掘されている(酒詰,1951)ことから、UMUT131776は特に第22号人骨に相当すると考えられる。またUMUT131776・131777に付属する紙片には大まかな出土地点が記載されており、これら2標本は近接して出土したことがここから窺える。
  • UMUT131784には「姥山 学会発掘散乱人骨」と記された紙片が付属することから、この標本は東京人類学会による1926年の発掘に由来する可能性がある。しかし関連する発掘報告(人類学雑誌の雑報,1926a、宮坂・八幡,1927、松村ほか,1932)に本標本についての記載は見られない。

今回、本館の標本資料報告No.3には未登録である15標本を標本群「姥山」として新たに追加した。これらには新規のUMUTを与えず、付属する標本カードの記述や標本自体に記された番号などを基に標本名を設定した。これらは以下の標本である。「姥山2,8,9」「姥山14」「姥山17」「姥山19上部」「姥山19,30」「姥山E」「姥山Grooth(1)」「姥山Grooth(5)」「姥山Grooth(6)」「姥山Grooth(12)」「姥山N」「姥山Skull only」「姥山SZ(’94)20」「姥山SZ(’94)22」「姥山SZ(’94)E(3)」。これらのうち姥山14、姥山17、姥山E、姥山Grooth(1)、姥山Grooth(5)、姥山Grooth(6)、姥山Grooth(12)、姥山N(頭蓋骨のみ)は2003年3月に国立科学博物館から返却された主として断片的な標本である。また姥山SZ(’94)20、姥山SZ(’94)22、姥山SZ(’94)E(3)は1994年9月に鈴木尚が本館に託した標本である。

未登録標本について新たに以下の解釈をした。

  • 姥山17の標本自体には「姥17」と記されており、この記載様式はUMUT131671・131672・131674・131675・131771のものと類似している。前述のUMUT131772の場合と同様の理由から、姥山17は日本考古学研究所などによる1948年の発掘に由来すると考えられる
  • 姥山19上部の標本自体には「姥19上部」と記されており、この記載様式はUMUT131671・131672・131674・131675・131771のものと類似している。前述のUMUT131772の場合と同様の理由から、姥山19上部は日本考古学研究所などによる1948年の発掘に由来すると考えられる。
  • 姥山19,30には「姥山D」と記された紙片が付属することから、この標本は東京大学人類学教室による1949年発掘の発掘時番号Dと何らかの関連がある可能性がある。
  • 姥山Eの標本自体には「姥E」と記されていることから、この標本は東京大学人類学教室による1949年発掘の発掘時番号Eに該当する可能性がある。発掘時番号Eは本館の標本資料報告No.3では欠番となっている。
  • 姥山Grooth(1)・姥山Grooth(5)・姥山Grooth(12)の標本を収めてあった封筒には「Grooth(1)」「Grooth(5)」「Grooth(12)」という記載が見られる。この「Grooth」がG. J. Grootを意味するならば、これら標本群は日本考古学研究所による1948年の発掘に由来すると解釈される。姥山Grooth(6)を収めていた封筒には「姥山6」という記載があるのみだが、この封筒の種類は上記3標本の封筒と同じものであり、それらの保存状態は互いに類似していることから、姥山Grooth(6)もこの発掘に由来すると考えられる。
  • 姥山Nの頭蓋骨自体には「姥N」と記され、その体幹骨を収めた平箱にも「姥N」と記された紙片が付属している。これら表記から判断して、この標本は東京大学人類学教室による1950年発掘の発掘時番号Nに該当すると解釈される。発掘時番号Nは本館の標本資料報告No.3では欠番となっている。
  • 姥山SZ(’94)22は近位端の欠損する左上腕骨であり、UMUT131678の右上腕骨と形態的に類似する。また標本自体には「姥山22」と記されており、この番号はUMUT131678の埴原番号(1321・22)の下二桁と一致する。以上から、姥山SZ(’94)22はUMUT131678に属すると考えられる。その場合、本標本は東京大学人類学教室による1949年の発掘に由来すると判断される。
  • 姥山SZ(’94)E(3)の標本自体には「姥E(3)」と記されていることから、この標本は東京大学人類学教室による1949年発掘の発掘時番号Eに該当する可能性がある。

現在14標本として本館の標本資料報告No.3に登録。このほか未登録の15標本を追加。

保存資料:なし

引用文献

遠藤美子・遠藤萬里

1979「東京大学総合研究資料館収蔵日本縄文時代人骨型録」東京大学総合研究資料館標本資料報告第三号.

大塚和義

1975縄文社会とその“家族”.埼玉新聞6月11日郷土文化欄.

大山柏・甲野勇

1931リサン師と姥山.史前学雑誌3:51-54.

岡本勇

1975原始社会の生産と呪術.「岩波講座 日本歴史」原始および古代1,pp:75-112.岩波書店.

亀尾保郎

1933かぷりしお ぷれひすとりか.ドルメン2(11):8-9.

小林行雄

1967死のおそれ.「女王国の出現」国民の歴史1,pp:124-126.文英堂.

Kondo,O.

1993aSkulls of Ubayama Shell-mounds I. Morphological description and univariate comparison. Anthropological Science 101: 307-331.
1993bMorphometric data on the skulls of Ubayama Shell-mounds. Anthropological Science 101: 333-360.
1994Skulls of Ubayama Shell-mounds II.An analysis of intra- and inter-regional variation of the Jomon population.Anthropological Science 102: 59-74.

酒詰仲男

1951千葉県柏井姥山貝塚.日本考古学年報1:48-51.

佐々木藤雄

1986縄文時代の家族構成とその性格.異貌12:82-131.

雑報

1926a下総姥山貝塚遠足会之記.人類学雑誌41:289-290.
1926b人類学教室の姥山貝塚調査.人類学雑誌41:290.

グロート,ジェラード・篠遠喜彦

1952「姥山貝塚」ニッポニカ第1類 日本考古学第・巻.日本考古学研究所.

杉原荘介

1967千葉県市川市姥山貝塚.日本考古学年報15:97-98.

杉原荘介・戸沢充則

1971姥山遺跡.市川市史編纂委員会編「市川市史」第1巻,pp:260-276.吉川弘文館.

関野克

1938埼玉県福岡村縄文前期住居址と竪穴住居の系統に就いて.人類学雑誌53:365-382.

塚田光

1966縄文時代の共同体.歴史教育14:12-20.

西澤明

1994縄文時代中・後期の墓址における区分原理.東京考古12:37-59.

春成秀爾

1981縄文時代の複婚性について.考古学雑誌67:157-196.

藤澤宗平

1938姥山貝塚(石器時代遺跡)発掘の結果.学友会雑誌39:71-82.

堀越正行

1976「姥山貝塚のはなし」市立市川博物館友の会.
1997「姥山貝塚地点別ガイド」市川博物館友の会.
2000姥山貝塚.千葉県資料研究財団編「千葉県の歴史」資料編 考古1,pp:530-535.千葉県.

松村瞭・八幡一郎・小金井良精

1932「下総姥山ニ於ケル石器時代遺跡」東京帝国大学理学部人類学教室研究報告第五編.

水野祐

1938姥山貝塚発掘調査略報.史観17:113-119.

宮坂光次・八幡一郎

1927下総姥山貝塚発掘調査予報.人類学雑誌42:1-28.

八木奘三郎

1893a千葉地方貝塚探究報告、古作の部.東京人類学会雑誌84:217-219.
1893b千葉地方貝塚探究報告(第八十四号の続).東京人類学会雑誌88:402-410.


このページの先頭へ