第10章 骨角器について

10.1 全般

 骨角牙貝製品については、同一層から出土した土器の内容によって時期推定を行った。層位的対比が可能であった資料は、合計35点と半数以下に留まる。このうち前期の層と前期・中期が拮抗する層から出土したものがそれぞれ約半分を占めている。素材別にみると、骨角製品9点のうち前期~後期が混在する層からの1点を除く8点全てが、前期の土器に伴って出土した。牙製品は前期1点、中期2点、前・中期1点と比較的中期に偏っている。貝製品のうちイタボガキ製の有孔貝製品は前期に伴う。サルボウ製貝輪は、前期5点、前・中期14点、前・後期1点であり、前期と中期が拮抗する層からの出土が多い。

10.2 釣針

10.2.1 彦崎貝塚出土の釣針

 今回報告した彦崎貝塚出土の釣針5点はいずれも破損しており、全形を知りうる資料はなかった。釣針の分類基準としてよく用いられる針先部の形態は不明である。軸が湾曲する例はないので、真っ直ぐな棒状の軸をもっていたと考えられる。頭部を残す2 点はいずれもノブ状の頭部をもつ。九州地方ではいわゆる西北九州型結合式釣針が縄文前期に出現しているが、形態がやや異なっているため彦崎例は単式釣針であったと考えておきたい。
 層位的対比が可能であった資料は4点ある。このうち3001は前期~後期の土器が拮抗する層からの出土で、時期を絞り込むのは難しい。3004は6号人骨に付帯した資料であり、後期のものだと考えられる。一方、3002、3005はそれぞれ前期の土器に伴って出土した。西日本で最古の釣針とされているのは広島県帝釈観音堂洞窟遺跡から出土した早期の鹿角製無アグ釣針2点である(渡辺1982)。頭部には特に糸掛け加工をもたず、端部はやや細くなっている。西日本で単式釣針が増加するのは一般に後期以降とされているが、彦崎貝塚出土資料はその空白を多少なりとも埋める可能性がある。

10.2.2 外アグ釣針の製作技法

 岡山県津雲貝塚や福田貝塚などからは、後期ないしそれ以降に属する外アグ釣針が出土している。東京大学考古学研究室所蔵資料の中にこのような外アグ釣針の製作工程を知りうる資料があるので、以下に報告して考察を加えたい。
 Fig. 171は津雲貝塚出土の釣針である。岡山県西部の笠岡市に位置する津雲貝塚は、明治時代からその存在が知られ、数多くの発掘調査が行われてきた。この資料には「備中国津雲貝塚」と墨書された紙が一緒に入っており、朱書きによる古い注記もみられるが、詳しい来歴は不明である。
 この資料は全体に粗く面取りした状態の単式釣針の未成品で、長さ8.5cm、幅5.8cm、厚さは最大で1.3cm、重量24.22g を測る。加工途中の未成品であるが、渡辺の分類に従うと「極大形」に相当する可能性が高い(渡辺1973)。表面には鹿角の凹凸を一部残し、裏面には海綿質が現れており、その位置と方向から鹿角の分岐部を半截した板状素材から作り出していることが分かる。頭部は逆台形状を呈し、切断痕を残している。内側面は基本的に丁寧に削られているが、頭部直下にやや粗く割り取られた部分がある。また針先部は先端を一部欠損しているが、三角形で内側に突き出している。
 津雲貝塚からはこれまでに何度か釣針の出土例が報告されている(渡辺1973、金子・忍澤1986 など)。その中には大型でノブ状の頭部をもつ単式の外アグ釣針があり、今回報告するFig.171資料もその未成品と考えていいだろう。出土状況が明らかではないため時期決定は難しいが、津雲貝塚の形成年代から後晩期に属するものと推測される。Fig. 172の左側に、原材の使用部位の推定図を示した。鹿角表面・海綿質・緻密質の位置と方向から推測したものである。右側には 想定される製作工程を図示した。
 第一工程鹿角の分岐部を半截し、略三角形の板状の素材を準備する。
 第二工程板状素材の中央部を削り、孔を開けて環状にする。
 第三工程環の一部を割り取って、鉤状にする。
 第四工程チモト・アグを作り出し、全体を整える。
 Fig. 171資料は、このうち第三工程の段階のものだと考えられる。第二工程の削りが丁寧なものであったのに対して、第三工程の割り取りは粗く、頭部直下に痕跡を残している。針先先端の欠損面はある程度の風化を受けており、やはり第三段階に生じたものである可能性がある。その場合、割り取りの失敗によって本来残すべきであった針先部まで欠損してしまったために廃棄された、と考えることができる。
 縄文時代の釣針の製作技法については、金子浩昌による一連の研究によって明らかにされている。福島県大畑貝塚の中期の資料によって、鹿角の角幹部もしくは枝部を半截して中央をくり抜いた環状の素材から鉤状の形態を作り出す工程を(金子1964)、また茨城県野中貝塚など関東地方の早前期の資料によって、鹿角分岐部から大型釣針を作る方法を示した(金子1966)。今回津雲貝塚出土資料によって復元された製作工程は、これら従来の研究成果から予測される技法の範囲から外れるものではないが、これまで知られてきた外アグ釣針の製作技法とはやや異なっている。
 外アグ釣針の製作技法としては、福島県寺脇貝塚の晩期の資料によって復元された方法がある(金子1972)。Fig. 172 に示した方法と鹿角分岐部を利用する点では共通するが、釣針の向きが内外逆の位置で原材を取っている点が異なる。寺脇貝塚の外アグ釣針は内湾する軸部をもち、真っ直ぐな棒状の軸部をもつ津雲貝塚例とは異なっている。一方、津雲貝塚例は針先が内側に屈 曲する特徴をもつが、これは素材の形状に制約されたものであろう。真っ直ぐな棒状の軸部と内側に屈曲する針先という特徴は、過去の津雲貝塚出土資料にみられるほか、愛知県吉胡貝塚の資料にも類例がある。吉胡貝塚例は、後期に遡る可能性があると報告されている(斉藤忠編1952)。寺脇例と津雲・吉胡例を比較すると、鹿角分岐部からの原材の取り方の違いが釣針の形態の違いに反映されていることが分かる。瀬戸内海沿岸地域における釣針の製作技法についてはこれまでほとんど論じられてこなかったため、今後の実証的研究の展開が期待される。



Fig. 171 A fishhook from the Tsugumo Shellmound



Fig. 172 Fishhook manufacturing process

10.3 有孔貝製品

 彦崎貝塚からは2 孔をもつ有孔貝製品が出土している。「貝面」「仮面形貝製品」などと呼称されてきたものであるが、時期的にも地域的にもこれまで知られてきた分布範囲からは大きく外れている。なおこれらの貝製品が仮面としての性格をもっていたかどうかは研究上の重要な論点であるが、その点についての判断は一旦留保した上で、以下の文中では、目口を表現したとみなしうる配置の穿孔を2箇所ないし3箇所もつ貝製品に対して、「貝面」の呼称を用いることにしたい。
 貝面の研究史については山崎純男の論考に詳しい(山崎2001)。山崎の集成によると、貝面は日本国内では熊本県を中心に長崎県・福岡県の計6 遺跡から7 点が出土している。時期は縄文時代中期から後期中頃までとされ、これを~期に編年している。島津義昭が示した「阿高型」から「黒橋型」(島津1992)、すなわち3 孔から2 孔へという変遷観を肯定しつつ、大型の仮面としての実用品から小型化・仮器化するという変遷過程を想定している。これに対して水ノ江和同は一部の資料について年代観を再検討し、年代が分かる資料は後期初頭南福寺式前後に集中することを指摘している(水ノ江2002)。



Fig. 173 Perforated shell artifacts

 彦崎例の検討に入る前に、従来の集成で触れられていなかった資料を紹介しておきたい。Fig.173―1は長崎県佐世保市下本山岩陰から出土したイタヤガイの2箇所に穿孔した資料で、垂飾として報告されている(麻生1972)。大きさは9.0cm×6.7cm程度で、孔は径約0.3cmと小さく、2孔間の距離は約2.7cmである。遺跡自体は前期から弥生時代後期ないしそれ以降まで利用されているが、この資料は後期に属するという(金子・忍澤1986)。Fig. 173―2は広島県福山市洗谷貝塚から出土した資料で、素材はマガキとされている(小都編1976)。7.2cm×4.1cmの不整楕円形で、やや湾曲した断面形をもつ。孔は0.7cm×5mmと1.0mm×0.6mmであり、2孔間の距離は2.4cmである。また、「穿孔部分については摩滅がみられ使用痕と考えられる」と述べられている。具体的にどの部分に使用痕がみられたのかは明らかではないが、あるいは紐擦れの痕跡があったのかもしれない。府中高校に所蔵されている資料で、1935 年の調査で出土した可能性が高い。この調査を含む複数回の発掘で出土した資料のうち現存するものはほとんどが後期のものであることから、この資料も後期に位置づけてよいだろう。また、このほかに鳥浜貝塚からも小型の例が出土している(福井県立若狭歴史民俗資料館2002)。
 続いて彦崎貝塚出土の有孔貝製品の検討を行う。遺物の基本的情報は、事実記載の項と属性表を参照していただきたい。3019・20はいずれもイタボガキの右殻の2箇所に穿孔したものであり、黒橋型に相当する。大きさは長径63mmと68mmの不整楕円形であり、断面形はいずれも平板である。従来知られていた貝面の中で最小であった長崎県佐賀貝塚例(長径71mm・イタボガキ製)にもっとも類似する。2孔間の距離はそれぞれ7mmと13mmであり、佐賀貝塚例(23mm)よりも小さく、実際に装着可能な仮面であった可能性は全くない。
 これら2点は共に前期に帰属すると考えられるので、貝面の出現年代は従来想定されていたよりも大幅に遡ることになった。また2 孔をもつ点、平坦な断面形、小型品のみである点は、山崎の編年観では新しい属性とされており、矛盾をきたしている。
 彦崎貝塚出土の2点と下本山岩陰・洗谷貝塚・鳥浜貝塚出土のそれぞれ1点の計5点を加えたことにより、国内遺跡出土の貝面は10遺跡12点となった。分布については、彦崎例と洗谷例によって中国地方に分布することが確実になったほか、福井県でも確認された。また、時期についても彦崎例によって前期に遡ることが明らかになった。山崎の編年案は、限られた資料を基にしながらも、大型の装着用仮面から小型化・仮器化するという説得力のある変遷観を導いたものであったが、彦崎例をこの流れの中に組み込むことはできそうにない。
 現状では、彦崎例のような小型品、あるいは下本山岩陰例のような孔の径が小さいものなど、明らかに仮面としての実用性を欠く資料については、貝面の範疇から外すべきであろう。金子・忍澤が洗谷例と下本山例を貝製の垂飾状製品として分類しているように(金子・忍澤1986)、あえて機能的に分類するなら垂飾として扱うべきだと考える。カキ類の殻を素材として2 孔を穿った小型の有孔貝製品は、彦崎貝塚のほかに、洗谷貝塚、佐賀貝塚、桑原飛櫛遺跡などから出土している。これらと黒橋貝塚・阿高貝塚出土のイタボガキ製大型品との関連については、別途追求する必要があるだろう。

10.4 貝輪

10.4.1 サルボウ製貝輪の製作工程について

 今回報告したサルボウ製貝輪56点のうち、全面がよく研磨された完成品としたものは半分であった。残り半数の未成品から、彦崎貝塚におけるサルボウ製貝輪の製作工程の復元を試みた(Fig. 174)。大きく分けると前半が内孔の穿孔と拡張、後半が研磨の工程となる。
 まず内孔の穿孔と拡張が行われる。最初に殻頂部を打ち欠いて穿孔し、内縁を粗く打ち欠いて腹縁方向へ内孔を拡張する。この後、おそらく腹縁部におけるリングの幅が25mm 程度以下になると、丁寧な打ち欠きもしくは手持ちの小型砥石での粗い研磨によって内縁を調整し、引き続き内孔を拡張したと考えられる。
 続いて研磨作業に入るが、ここからは2つのパターンが存在する。A:平坦な砥石の上で貝輪の内縁全体を研磨する工程を経るもの、B:そのような工程を経ないものである。この両者は、内縁の研磨部分が1 枚の平面を形成するか否かによって区別される。ABのいずれの場合も、引き続いて外縁調整と表面研磨の作業が行われる。Aの場合はこの段階の資料は見つかっていない。Bでは幾つかの中間資料があるが、外縁調整と表面研磨のどちらが先行するかは特に決まっていないらしい。両者が完了した後、仕上げの研磨を加えると完成品となるが、さらに外縁を抉りこんで波状にする例もみられる。


10.4.2 外縁・表面加工をもつ貝輪

 3052~3054の3点の貝輪は外縁に抉りを入れて波状に加工している。3052、3053は試掘時に1・2・3号人骨に伴って出土した。前期に伴う可能性が高い。3054は6区3層の出土である。6区3層の出土土器は前期と中期が拮抗している。
 管見に触れた類例をFig. 175に示した。加工の種類には、外縁に抉りを入れるものと表面に刻みを入れるものとがある。1および2は岡山県船穂町里木貝塚出土で、いずれも外縁に抉りを入れて波状にしている(間壁・間壁1971)。1は前期の里木Ⅰ式に伴うもので、抉りの間隔はやや不規則である。2は中期中葉とされるもので、抉りはごく浅くなめらかである。個別の資料について素材の記載はないが、同貝塚出土の貝輪素材はサルボウ中心だとされており、この2点についてもサルボウ製である可能性が高い。3は津雲貝塚から出土した資料で、やはり後期とされている(金子・忍澤1986)。外縁に小さなV字形の抉り込みがおおむね等間隔に入れられている。素材は不明。4は香川県三豊市(旧仁尾町)南草木貝塚出土である(大平1977)。遺跡の年代から縄文前期のものであると考えられる。
 5・6は福岡県鞍手町新延貝塚から出土したものである(木村1980)。5はアカガイ製で、放射肋を研磨して平滑にした上で新たに一定間隔に弧状の抉りを入れている。抉りは深く、内縁まで達する放射状の溝を伴っている。6はベンケイガイ製で、表面を研磨した後に放射状の鋭いV字形の刻みを一定の狭い間隔に入れている。これら2点は後期中津式を主体とする第Ⅲ文化層から出土したが、この層の出土土器には一定量の前期・中期土器も含まれているため、確実に後期 のものだとはいえない。図示されていないが、1965年の調査では「放射肋に対して格子目状になるように」刻み目を入れた資料が出土したとされている。時期・素材等は明らかではない。7は熊本県城南町御領貝塚から出土した後期の資料で、外縁に抉りを入れて滑らかな波状にしている(金子・忍澤1986)。素材は不明。8は福岡県沖ノ島4号洞穴遺跡から出土したもので、素材は不明だが側縁に刻みを入れた貝輪破片である(岡崎編1979)。出土状況からは縄文時代に属するという以上の時期決定は難しい。



Fig. 174 Manufacturing process of shell bracelets



Fig. 175 Shell bracelets carved on the edge or surface


 9および10は愛知県吉胡貝塚第二トレンチから出土した(斉藤忠編1952)。いずれもベンケイガイ製貝輪の腹縁部の破片であり、「腹縁に溝を故意に刻んだもの」だという。後期ないし晩期のものだと考えられる。11は福島県三貫地貝塚出土のベンケイガイ製貝輪で、側縁に3つ単位で一組の弧状の抉りを入れている。後期から晩期初頭にかけてのものであろう(福島県立博物館1988)。12は北海道苫小牧市静川22遺跡の縄文前期末葉の貝塚から出土したものである(苫小牧市教委2002 他)。ウバガイ製で表面に放射状の4~5本単位の刻線があり、その間の位置で腹縁に小さなv字の刻みを入れている。内縁にも1カ所刻みがみられる。この他に朝鮮半島では東三洞貝塚からの出土例が知られている(金2003)。
 このように抉り・刻みを施すタイプは広い地域・時期にわたって散発的に分布するため、それぞれの地域・時期の貝輪の中から個別に発生したものだと考えた方がよさそうである。ただし里木貝塚例については彦崎貝塚例と地域的・時期的に近く、側縁を抉りこんで波状にする形態も共通することから、なんらかの関連性を考えてもいいだろう。
 なお、金子浩昌・忍澤成視はこのような加工をもつ貝輪を「素材となる貝を変更しようと試みたもの」だとして「自然貝変更型」と呼んでいる(金子・忍澤1986)。しかし、側縁に抉りを入れているタイプについては別種の貝を意識したとは考えにくい。一方、刻みを入れているタイプ、特に表面に刻線が入れられるものは、放射肋を模倣したとみることも可能である。例えば、木村は新延貝塚例(6)について「ベンケイガイ・タマキガイには、アカガイのような放射肋の隆起は認められず、それを意識して放射状に刻目を入れたのか、それとも単に装飾的意図より出たものか不明であるが、前者の可能性は、あり得ることであろう」と述べている(木村1980)。しかし、同時に報告されているもう1点がアカガイの放射肋を削ってから新たに刻んでいる例(5)であることから、貝種を変更しようとしたとする解釈は成り立たないように思われる。ほとんどの資料については単なる装飾だと考えてよいだろう。

(高橋健)