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ライデンの日本植物標本コレクション

The Herbarium Japonicum Generale in Leiden

ヘラルド・テュイセ
Gerard Thijsse

オランダと日本との交流400周年記念を機会にオランダの国立植物学博物館ライデン大学分館から東京大学総合研究博物館に贈られた植物標本コレクションは,Herbarium Japonicum Generaleと呼ばれるコレクション中の重複標本である.日本の植物の命名と分類に今日でもたいへん重要な意味をもつこの歴史的コレクションの複雑な経緯について以下に概略してみたい.

 

1862年に偉大な植物学者ミクェル(F. A. W. Miquel)は,ブルーメ(C. L. von Blume)の後継者として,今日のオランダ国立植物学博物館ライデン大学分館の前身である王立植物標本館(Rijiksherbarium)の館長となった.彼は,シーボルトとその継承者たちによる,当時の世界では最大の日本植物の標本コレクションに大きな関心を寄せていた.ライデンのコレクションを参照せず日本の植物を研究することは不可能であった.シーボルト自身がツッカリーニ(Zuccarini)と共に,日本植物誌『フロラ・ヤポニカ』の出版を1835年に開始した.1848年にツッカリーニの死去によりこのプロジェクトはいったん停止したが,1866年にシーボルトが亡くなった後に,これの新しい分冊の出版をミクェルは始めた.ミクェルがライデンの日本植物コレクションの研究を急いだ重要な動機のひとつは,1854年にオランダ以外の国に対しても日本が門戸を開いたことであった.実際,その後,アメリカ,イギリス,ロシアもまた広範な日本植物の標本コレクションを作りはじめた.おそらくミクェルはライデンで始められた日本植物を記載する研究が引き続きライデンで行われるべきだと考えたのであろう.このような状況の中で,日本植物の研究上でのライデンの植物標本コレクションについての研究は重要さを増していったのである.1863年から1870年にかけて,ミクェルは4巻からなる『ライデン王立植物標本館紀要』(Annales Musei Botanici Lugduno-Batavi)を出版し,その中で日本植物コレクションについて研究し,多数の新植物を記載している.

1865年にミクェルはその『紀要』の中で,日本植物コレクション中のすべての標本を同定したこと,また多数の重複標本を配布する準備ができていることを表明した.彼はライデンの日本植物コレクションが植物学上たいへん重要なものであるとし,それらを一般の標本から分けて別室にて保管した.これがHerbarium Japonicum Generaleと呼ばれるようになる植物標本のコレクションそのものなのである.ミクェル自身によれば,それは1776年にツュンベルクによって採集されたコレクション(訳者注:これは重複標本で,完全なセットはスウェーデンのウプサラ大学に保管される),シーボルトと彼の日本人助手によるコレクション,及びビュルガー(H. Burger),ピエロ(J. Pierot),テクストール(Textor),モーニケ(O. G. J. Mohnike)が収集したコレクションからなるものであった.ビュルガーは1825年にシーボルトを補佐するために日本に赴いた.彼は1832年に彼はジャワにいったん帰ったが,1834年には再び日本に戻った.ピエロは植物採集のためシーボルトによって日本に派遣されたが,1841年に日本に行く途中で死んだ.ラベルによればピエロによって集められた植物は,実際のところ彼がジャワで購入し,ビュルガーによってコレクションに収められたものである.テクストールはピエロのあとをついで1843年から1845年の間日本に滞在した.モーニケは1849年に日本に行っているが,彼の標本はボイテンゾルグ(Buitenzorg,現在のインドネシアのボゴール)植物園の園管理者(hortulanus)であったテイスマン(Teysmann)から贈られたものである.

ファン・ステーニス・ヘボウ
ライデン大学国立植物学博物館のある建物, ファン・ステーニス・ヘボウ.
 

さらにこのHerbarium Japonicum Generalsには,ペリー艦隊のモロー(Morrow),ウイリアムズ(Williams),スモール(Small),ライト(Wright)によって採集された標本も含まれている.これらの標本はハーバード大学のエサー・グレイ教授及びスミソニアン研究所から王立ライデン植物標本館に寄贈されたものである.1864年にはイギリスの王立キュー植物園は植物学者のオルダム(T. Oldham)によって収集された1200点からなる日本植物の標本コレクションをライデンに寄贈した.1866年にはマキシモビッチ(K. J. Maximowicz)が日本に滞在した3年間に収集した標本のコレクションが加えられた.このHerbarium Japonicum Generaleの標本目録がミクェルによって,1870年に『Catalogus Musei Botanici Lugduno-Batavi 1. Flora Japonica 』(ライデン王立植物標本館標本目録1. 日本植物)として出版された.

この日本植物コレクションには当初かなりの重複標本が含まれていたと推察されるが,それらが過去にどの研究機関に送られたかは明らかではない.それに関する文書類はひとつも見つけることができなかった.1863年のライデン王立植物標本館年報からミクェルが王立キュー植物園やウイーンの自然史博物館,ベルリンのダーレム植物園,ストックホルムの王立自然史博物館およびサンクト・ペテルスブルクの帝室植物標本館(現在のコマロフ植物研究所)のような外国の研究機関との標本交換のためにライデンの重複標本を送りはじめていたことがわかる.それに日本植物の標本が含まれていたかどうかははっきりしない.教育目的で重複標本の一部がアムステルダムの図書館,フローニンゲンやユトレヒトの大学その他に送られた.アムステルダム及びユトレヒト(現在のオランダ国立植物学博物館ユトレヒト大学分館)の植物標本館にはライデンの日本植物の標本が現在も保管されている.1866年の年報では,多数の重複標本,とくにビュルガーのものがこれらの姉妹関係にあった標本館との標本交換計画で重要な役割をはたしたことが記されている.従来どおり,その年にもまた重複標本は複数の研究機関にも送られた,1868年には,利用できる重複標本のほとんどが配布されてしまったことが判る.

種子標本収納ケース
ライデン大学国立植物学博物館の種子標本収納ケース.
 

1984年にフローニンゲンの植物標本館が閉館され,その維管束植物のコレクションがライデンに移管され,その結果多数の日本植物の重複標本を含むことになった.また,ファン・デル・サンデ・ラコステ(Van der Sande Lacoste,コケ類の専門家)とハスカル(J. C. Hasskarl,顕花植物の専門家)のコレクション中にもともと彼らの研究のために送られた日本の重複標本が含まれる.1872年の年報は日本植物の重複標本はパリの国立自然史博物館とクラウゼンベルクのカニッツ(Kanitz)教授にも送られていることを記している.1959年には,シーボルト,テクストール及びポンペ・ファン・メールデルフォールト(Pompe van Meedervort,ただし地衣類1点だけ)によって収集された,地衣類とコケ類の総計139点の標本が朝比奈泰彦の研究のために日本に貸し出された.研究のために貸し出された標本は,一部を分析に利用する許可が出されている.これらは今も国立科学博物館の植物標本室にあるはずである.現在,ファン・デル・サンデ・ラコステとハスカルのコレクション及び,すでに述べたフローニンゲン植物標本館の植物標本コレクションは,かつてライデンから配布された重複標本とともに,再びライデンの国立植物学博物館の所有するところとなった.

東京大学総合研究博物館に贈るために選んだ植物標本には,ミクェルの記載した植物のシンタイプの重複標本が数点含まれており,その大部分はかつてフローニンゲンの植物標本館あるいはハスカルのコレクションとなっていたものである.

多くの場合,Herbarium Japonicum Generaleの重複標本の実際の採集者の名前は,それらの重複標本が配布されたとき,ラベルには明記されていなかった.採集者名が書かれていない場合,その標本はおそらく出島に住んでいた「オランダ人」採集家のうちの一人によって作られたのであろう.というのは,これらの重複標本が,アメリカやイギリスあるいはロシアから寄贈された重複標本のコレクションを再分配したということはありえないからだ.日本植物の標本コレクション中の重複標本のうち,さらに多くの標本が将来東京大学総合研究博物館に贈呈される予定である.すでに新たに200点〔訳者注:すでに447点が寄贈されている〕の重複標本が探し出されており,現在貼り直しとラベル付けの作業が進行中である.

(清水晶子訳)
イヌビエ
イヌビエ(Echinochloa crus-galii)の種子標本.
 
ヘラルド・テュイセ ライデン大学国立植物学博物館標本館管理主任
(Chief Collection Manager, Leiden University Branch of
the National Herbarium of the Netherlands)

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