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ライデンにあるシーボルトゆかりの博物館

Museums with Siebold collections in Leiden

大 場 秀 章
Hideaki Ohba
 

ライン川の河口に発展をとげたライデンは,ローマ時代にはルグドゥーヌム・バタウォールム(Lugdunum Batavorum)と呼ばれていた.9世紀に築かれた砦,ビュルフツを中心に町は発展した.事実,運河に囲まれた旧市内の中心にその砦はある.市内の道路は概ね運河に沿って縦横に連なる.どこを歩いてもレンブラントの絵画の中にいるような錯覚に襲われることがしばしばだ.ライデンはレンブラントの生まれ育った町でもある.レンブラント,すなわちレンブラント・ファン・ラインは1606年にライデンのウェデステーヘの粉屋の息子として生まれ,26歳までここで過ごした.彼が絵画の技法を学んだのもライデンである.レンブラント公園を中心とした一角はそのままレンブラントの画中に収まり,その色も色彩もまったくレンブラント風といってよい.

ライデンは時代の推移のみえる町である.どの道を歩いても新旧さまざまな建物が折り合いをつけ建ち並んでいる.古い建築を代表するのは中世に邸宅として建てられた建物や教会である.ライデンが今日の様相をみせはじめるほどに発展を遂げたのは中世に入ってからだといわれている.歴代のホラント (Holland) 領伯爵は,ライデンに邸宅を構えた.邸宅を中心に町は発展し,邸宅に付置が義務付けられていた礼拝堂はやがて,ライデンの最初の教会であるピータース教会となったといわれている.シーボルトにも関係の深いラペンブルク運河から道ひとつ奥まったところに建つピータース教会は,1512年頃に建てられたもので,いまでもライデン市民の心のシンボルであるのは,まちがいない.

最初にも記したようにライデンの旧市内は周囲を運河に囲まれているが,その運河に沿って数世紀もの間城砦が築かれていた.19世紀にはそのほとんどが取り壊されてしまったが,残された2つの城門が当時の様子をしのばせてくれる.

どの都市も恒久的に平和な状態にあったことはない.ライデンも1568年に火ぶたを切った80年戦争さなかの1573年から翌年にスペイン軍によって包囲されたのである.市民は粗食にも耐えスペインからの独立と自由を勝ち取るために戦った.

ライデン
ライン川の河口近くに発達したライデンには運河が縦横に開かれている.
 

1574年にスペインに勝利して解放されたオランダの低地地方は,いまはベルギーとなった高地地方レーベンのカトリック派大学に対抗して自前の大学の建設を決め,ライデンをその設置場所に選んだのである.ライデン大学の創設は1575年といわれており,ラペンブルク運河沿って建つアカデミー・ヘボウ (Academiegebouw) は当時の偉容をほぼそのまま伝えている.今日においても大学の公式行事はこのアカデミーヘボウで挙行されている.こうしてライデンは大学町としてその後の道を歩むことになり,大学とともに発展を遂げたといってもよい.

16・17世紀ライデンはイギリス,ベルギー,フランスのプロテスタント信者を積極的に受入れていた.1609年にジョン・ロビンソン (John Robinson) に率いられた数百名のイギリスの清教徒たちがアムステルダムを経由してライデンにやってきた.めいめいが手に職を身につけ,印刷その他の手工芸に携わって暮らしていたが,41名の清教徒を含む102名がライデンからメイフラワーに乗って出航し,1620年に北アメリカのボストン南東部に至り,そこをプリマス市と名付けた.ニューイングランド地方の最初の永住者となったのは彼らだった.プロテスタントの町ライデンにはこの最初のアメリカ移民に関係した旧跡も数多い.

アカデミーヘボウ
ライデン大学のアカデミーヘボウ. 大学の最も古い建物. 1712年に出版されたLes Délices de Leide.
 

1593年にウィーンのハプスブルグ家の侍医であった,フランダース地方出身の植物学者であるカロルス・クルシウス (Carolus Clusius) が,ライデン大学に招聘されてやってきた.クルシウスは大学に植物園を設け,そこでチューリップの栽培を始めた.当時チューリップは西ヨーロッパではまだ未知の植物だった.クルシウスは分類体系に従って植物を植える今日の分類花壇を中心にすえた植物園を創った.チューリップもその植物園で栽培されたのだが,分類花壇とは別に板囲いされた一画で栽培されていたらしい.クルシウスの創案になる大学植物園は,今日のライデン大学植物園 (Hortus Botanicus) とは大きく異なるものだ.クルシウスの偉大な業績を讃えるため,大学は往時を再現した,クルシウス植物園を復元した.私には新しい植物の導入に驚喜する市民の姿は,東インド会社の船が次々とオランダに持ち帰るエキゾチックな文物に強い関心を寄せる人々の有様とも重なってみえる.

今日のライデンはオックスフォードやケンブリッジに代表される大学町とは異なるが,アカデミックな雰囲気が色濃く町のたたずまいににじみ出ているのは事実だ.大学とは直接関係をもたない一般の市民や旅行者がそれを強く意識させられるのは,町中に散らばる博物館や書店の多さではないだろうか.資料館,記念館なども含めたらライデンにある博物館は相当な数にのぼる.

カルロス・クルシウス
カルロス・クルシウス
(Carlolus Clusius, 1526年〜1609年)
著名な草本学者で,中近東などから多くの植物をヨーロッパに導入した.チューリップの導入は有名.
 

シーボルトも住んだラペンブルク運河に沿ってだけでも,彼の旧宅をそのまま利用したシーボルト記念館,そのほぼ対面にある国立古代博物館 (Rijksmuseum van Oudheden),と国立貨幣博物館 (Rijksmuseum Het Kaninklijk Penninghabinet),シーボルト記念館側の大学のアカデミー・ヘボウ内のアカデミー資料館 (Academisch Historisch Museum,一般には公開されていない),その裏手の植物園 (Hortus Botanicus Leiden) などがある.ライデン中央駅からも近い,市立ラーケンハル美術館 (Stedelijk Museum De Lakenhal) には,レンブラント (ファン・ライン) やリューカス・ファン・ライデン,ファン・ミーリス親子などライデンにゆかりのある画家達の作品が展示されていて,多くの旅行者が訪れる.医学・天文学など科学の歴史を実験器具や装置を通じて知ることができるボーエルハーヴ博物館 (Museum Boerhaave) では,復元されたボーエルハーヴの有名な解剖劇場もある.その他,水車の博物館デ・パルク (Stedelijk Molenr Museum De Valk),アメリカ合衆国の生みの親ともいえる清教徒たちがライデンで過ごした歴史を物語る清教徒博物館 (Pilgrim Museum) も,ライデンの多様な博物館のひとつとなっている.

こうしたライデンにあるたくさんの博物館の中で,国立古代史博物館と並び,オランダを代表する博物館となっているのが国立民族学博物館,国立自然史博物館 (ナチュラーリス),それに国立植物学博物館である.この3つの博物館はそれぞれの分野で世界的な研究センターの役割を担っている国際的博物館でもあるが,いずれもシーボルトと深いかかわりをもっている.とくに国立民族学博物館はシーボルトが創設した博物館といってもよいものである.

解剖劇場
ボーエルハーヴの解剖劇場
ボーエルハーヴ博物館で復原された劇場をみることができる. 図は1711年にHarrewijnが描いたもの.
 

シーボルトがこの町に日本の収集物を運び込み研究のための家を借りたのは,土地柄ばかりではなく,ライデンに具わる学術的環境が大きく作用したのであろう.シーボルトが日本追放の判決を受けジャワ号に乗り長崎から出帆したのは1829年12月30日であった.シーボルトはジャワ号に日本で収集した学術標本,生きた標本などをも載せた.その船荷が陸揚げされたのはいまのアントワープで,1830年7月8日であった.ナポレオン死後の1815年にウィーン会議でベルギー全体がオランダ王国への併合が決められたため,ライン川の支流の河口に位置し,港として良好なアントワープは,当時のオランダの主要港のひとつとなっていた.しかし,ジャワ号の船荷が到着した同じ年の8月にベルギーの独立運動が起き,1831年にベルギーは列国の承認を受けオランダから独立してしまう.

それは独立前のことであったが,王の命令でオランダの王立植物標本館は,ブリュッセルに建設されたため,ジャワ号で運んだシーボルトの標本はブリュッセルに置かれたのである.

独立運のさなか王立植物標本館では,館長のブルーメが不在であったため,シーボルトはブルーメの許可なしに標本館の全標本を50箱に梱包し,ヘントに運び,そこから船をチャーターして,ロッテルダムへと送り出した.これは,ブルーメの不在にあせったシーボルトが文部省に手紙を書き委任を受けるかたちで行なったものだった.またアントワープにあった民族学コレクションもオランダに送り出した.

間一髪のところであったが,シーボルトはこのように収集したコレクションの大部分を,ライデンへと移動することに成功したが,もしこのときコレクションがブリュッセルやアントワープに残されていたら,ライデンの様相もいまとは大きく変っていたことであろう.

1832年にシーボルトはラペンブルク運河に沿って立ち並ぶ建物のひとつを借り,日本で収集したコレクションをここに一括するとともに整理と研究を続けることになった.シーボルトはこのラペンブルクに借用した家(19番)を1836年になって購入している.

シーボルトの家
ラベンブルク運河に沿う, シーボルトの家. 現在はシーボルト記念館となっている.
 

国立民族学博物館

1832年にシーボルトが借用したラペンブルクの家には「日本植物館」が開設され,コレクションの一部を一般に公開した.シーボルト自身は日本での調査・研究をまとめた『日本』の刊行に努めたが,出帆のための資金を思うように調達することができないでいた.1837年になって,シーボルトは収集した民族学コレクションの売却をオランダ国王に申し出た.オランダではこのときをもってライデンの民族学博物館が設立されたとしてる (Wengen,2002年).そして1837年をもってこの民族学博物館が設立されたとすれば,これは世界で最初に誕生した民族学専門の博物館であると言えよう.

この民族学博物館は現在の国立民族学博物館 (Rijksmuseum voor Volkenkunde),とくにその日本部門と密接なつながりを持っている.国立民族学博物館の初代館長はシーボルトであり,再度の来日でオランダを離れる1859年まで彼はその館長職にあった.

シーボルトはコレクションの展示に関して,日本の景観,人々の日々の暮し,風俗と職業を重要な3本柱とし,その多様さを紹介することに主力を置いた.また,コレクションは4つに大別された.1) は文献・絵画等の文化誌資料で,2) は地域の産物や人々の生産物で,美術品や工芸品,道具類ならびにその素材などが含まれる.3) は家具・什器類ならびに家と船の模型,4) は比較民族学に関する,アイヌなどの民族資料が含まれる.

民族資料にこうした分類法を導入したことは画期的で,その後の民族学博物館の資料保存や展示に少なくない影響を及ぼしたといわれている.

1837年にラペンブルクのシーボルト邸で一般公開されたコレクションは,種々の事情から1847年にはライデンの4ヶ所に分散して移された.また1837年から1847年まではシーボルト・コレクション (Verzameling Von Siebold) といわれていたそのコレクションは,1847年以降1862年までは日本博物館 (Japansch Museum) に,さらに後に王立シーボルト日本博物館 (Rijks Japansch Museum Von Siebold) に変わった.

この民族学博物館の展示カタログは1845年に出版されたのが最初である.これはライデン市の貧民救済に催された『日本品展覧会』用のもので,この年の10月20日から11月5日にかけて開催された.蛇足だが,シーボルトはこの年49歳になり,これに先立つ7月10日にヘレーネ・フォン・ガーゲルンとベルリンで結婚し,ライデン近郊のライダードルフ (現,ライデン市デコイ) の邸宅ニッポンに住んだ.

シーボルトのコレクションに新しく日本からのコレクションが初めて加わったのは1860年で,それは徳川家茂将軍からオランダ王ウィレム三世に献上された六双の屏風18点であった.同年シーボルトは王立シーボルト日本博物館ガイドブックを出版した.その後,1896年には王立シーボルト日本博物館はその名称を王立民族学博物館へと変わり,今日のかたちを整えたのである.

1899年には150の浮世絵,40の屏風,25篇の図譜を展示した特別展があり,世界中から注目を集めた.この図録はハンブルクの博物館に雇われていた原新吉によって作成されている.

日本の美術,なかでも浮世絵や葛飾北斎の漫画の紹介では第1章に記したようにライデンは世界に先んじていた.北斎の作品は存命中にヨーロッパで注目され,ヨーロッパの絵画に大きな影響を与えるのだが,このきっかけをつくったのはシーボルトであり,このライデンの民族学博物館であった.

モールスシンゲル運河に沿った巨大な民族学博物館こそはシーボルトの日本で精力的なコレクション活動をいまに伝える牙城だ.彼がライデンのそして世界の民族学博物館の生みの親であることは記憶されてよいことだと思う(図1).

国立民族学博物館
図1.国立民族学博物館
Rijksmuseum voor Volkenkunde. モールスシンゲル運河に沿って建つ巨大な建物は, 世界でも有数の民族学の博物館である. シーボルトの民族学標本が収蔵される.
案内図
国立民族学博物館入口の案内図.
 

国立自然史博物館(ナチュラリス)

ライデン中央駅の北側には,大学をはじめいくつもの研究施設がある.いずれも新しく建てられた建物で,国立自然史博物館 (Nationale Museum voor Natuurlijke Historie, 通称ナチュラリス) の新しい建物もその一隅に建っている.

国立自然史博物館
図2.国立自然史博物館
Nationale Museum van Natuurlijke Historie
通称をナチュラリス(Naturalis)と呼ぶ,植物を除く自然史標本を収蔵するが, 展示にも力を入れている.
シーボルトの動物,鉱物学の標本を収蔵する.

ナチュラリスの母体となる王立自然史博物館は,主として植民地で収集された標本を保管・研究するために,シーボルトが日本に発つ直前の1820年に設立された.現在はおよそ1千万点の標本を収蔵するオランダ最大の自然史博物館である.王立植物標本館があるため,植物学は当初からこの博物館には含まれていない.この博物館もシーボルトとの関わりが深く,植物を除く,動物と鉱物などの博物学標本はすべてこのナチュラリスに保管されている.シーボルトが日本から送った標本はおよそ6,500点とされ,その中にはオオカミをはじめ絶滅種も含まれる.

設立された博物館はラペンブルク運河に沿う今の国立古代史博物館のところにあった.初代館長はテミンクである.シーボルトが日本から多量の標本を持ち帰ったときの館長である.1章でも書いたように,シーボルトはオランダの東インド植民地に職を得る前に,東インドに渡り,開業医となるかたわら動物・植物などの調査を行うべく,テミンクともコンタクトをとっていた.2代館長になったシュレーゲル,無脊椎動物部門のデ・ハーンとともに彼らはシーボルトが収集した動物コレクションの研究を委ねられ,シーボルトの『ファウナ・ヤポニカ』(日本動物誌)を執筆した.そのため,現在のナチュラリースには日本の特産動物のタイプ標本など研究上の重要標本が多数収蔵されていて,日本産動物の分類学研究や多様性の研究などを進めるうえで,ここは重要な研究センターの役割を果たしている.

最初の王立自然史博物館
最初の王立自然史博物館
設立の1820年から1915年まではラペンブルク運河に沿ってアカデミー・ヘボウとは反対側に建つ, この写真の左側の建物が王立自然史博物館であった. なお, この建物は現在,国立古代史博物館になっている.
 
テミンク
C.J. テミンク(Coenraad Jacob Temminck, 1778年〜1858年)
王立自然史博物館初代館長, シーボルトの動物コレクションを統括し,『ファウナ・ヤポニカ』をシュレーゲルらとともに分担執筆した.
 

自然史博物館は1915年にファン・デアー・ヴェルト公園南側のラーム通り(Raamsteeg)に建った新しい巨大な建物に移転した (右の図).この建物は自然史博物館のために建設されたもので,ラーム通りに面した建物の壁面はほとんど窓がない巨大な収蔵庫となっていた(右の図下).中央にある玄関の3メートルは優に超える扉の楯(まぐさ)には転居した今も王立自然史博物館の名が記されたまま残っている(右の図中).

かつてこの建物を訪れた動物学者の上野益三によれば,玄関の重い扉を押して一歩中に踏入るとすぐの両側に,訪問者を圧倒するようにゾウの骨格が4体向い合せに置いてあったそうである.

1878年から1983年まで地学分野は地質学博物館として自然史博物館とは分離していた.地学関係の標本をも収蔵する一体化した自然史博物館として新たに建設されることになったのが,現在のナチュラリスである(図).この新しい建物は,旧市内が広がるライデン中央駅の南側ではなく,北側の新開地に建てられることになった.その場所は,LUMCの略称で知られるライデン大学メディカル・センターに接した北側である.工事は1995年にくい打ちが始まり,1998年に開館した.開館とともにこれまでは行われていなかった一般人を対象とした常設の展示室が設けられ,常時公開されるようになった.研究とともに生涯学習や学校教育の中で自然の多様性やその大切さなど関わる部分の教育を積極的に分担しているようにみえる.

このときの合体によってシーボルトや後継者が日本で収集した鉱物,岩石,化石などの地学関係の標本もナチュラリスに移り,オランダ到着以来別々に保管されてきた動物関係の標本と再び一緒となった.

旧建物1 旧建物2 旧建物3
王立自然史博物館の旧建物
1915年から1998年までは,ここが本拠であった. 上・中の写真はラーム通りに沿う建物の中央部分にある正面玄関, 下は西側の壁面で収蔵庫になっている.
 

国立植物学博物館

自然のしくみ,その姿を正しく理解するためには,自然そのものについての解析が必須だ.そうした解析を通じて得た情報にもとづいた自然の体系やそれに向けての学説の提唱を,自然科学者はもくろんでいた.解析のためにはたくさんの標本を集める必要があった.自ら集めた標本を既存の標本とつき合わせてみて,従来の知見だけでは説明のつかない事実の存在を明らかにし,その事実をも含めて説明できる新しい体系や学説を提唱することが研究を進歩させてきたのである.したがって,標本とは,単に自らの研究を保証するだけのものではなく,新しい研究の重要な基盤材料でもある.研究者は新しい学説を提唱するためには標本が必要であり,たくさんの標本を収蔵する施設で研究を展開する.研究者が多数集まるところはまた,どんどん標本が集まる.悪循環という言葉があるが,これはアカデミックな意味での好循環である.

ライデン大学国立植物学博物館
図3.ライデン大学国立植物学博物館
Nationaal Herbarium Nederland, Leiden University Branch

植物学博物館が収集している主な標本は「おしば標本」である.植物学博物館はハーバリウム(herbarium)と呼ばれる.日本では一般にこの語をサク葉室,サク葉館,植物標本室などと訳す.ハーバリウムはいろいろな利便性を具えている.居ながらにして世界中の植物をそこで見ることができる.例えば,バラ属には世界に200以上の野生種があるといわれている.仮にバラの花粉の構造を研究するとして,野生のバラを求めて世界中を歩き迴ったとしよう.200種もの野生種を見つけるだけでも何十年もかかってしまうだろう.なかには個体数が限られていて,簡単には見出せない種もあるだろうし,見つけたはよいが花は終わっていることもあろう.

少し長くなるが,ここでおしば標本の歴史を簡単に述べておきたい.

おしば標本の創始者はイタリアの本草学ルカ・ギーニ(Luca Ghini, 1490年〜1550年)と考えられている.しかし,ヨーロッパでは13世紀には乾燥させた花の色を保持する方法が存在したことから,もっと古い時代のおしば標本が発見される可能性はある.アルドロヴァンディ(Ulisse Aldrovandi, 1522年〜1605年)は,全世界の植物を含むおしば標本の収集をめざした最初の人物であった.遠方の国々の植物を描くための資料としてのおしば標本に価値を認めたのであった.

おしば標本の収集のための詳細な知識が記述されたのは,スピーゲル(Adrian Spieghel)の『ハーバリウム入門』(Isagoges in Rem Herbarium, Libri Duo, 1606年)が最初である.スピーゲルは良質の紙に植物をはさんで徐々に重さを加えながら圧搾する方法を説明し,植物は毎日検査し,裏返さなければならないと注意している.植物が乾燥したら紙の上にのせ,さまざまな大きさのハケでゴム糊を塗る.スピーゲルはこのゴム糊の処方も示している.次に,植物を台紙の上に移し,その上に亜麻布をかけて,植物が台紙に付着するまでむらなくこする.最後に台紙と台紙のあいだ,または冊子の中に布をはさみ,ゴム糊が乾くまで圧力を加える.

スピーゲルはおしば標本が重要なことを察し,ひとつを仕上げるのに費やされる労力が高い称賛に値することを認めている.彼自身はおしば標本収集を「冬の庭園」(Hortus hyemalis)と呼んでいるが,「生きた本草書」とか「生きた本草図譜」,あるいは「乾いた庭園」とも呼ばれた.おしば標本,植物標本室,さらには植物学博物館を意味するハーバリウム(herbarium)という言葉はスピーゲル以降,印刷物の中に散見されるが,一躍この言葉を一般化させたのはトゥルヌフォール(Joseph Pitton de Tournefort, 1656年〜1708年)が著わした『王立植物標本室の分類法』(Institutiones Rei Herbariae, 1700年)である.これは,当時のパリの王立植物標本室でのおしば標本の分類法を記述した著作で,後の分類体系の概念形成の発展に大きな影響を及ぼした.

おしば標本は長期保存ができ,汎用性があり,しかも管理が比較的易しい.これを保存するためのスペースは液浸標本など他の形態の植物標本に較べはるかに小さくて済む.また,凍結標本のように保存のためのコストもあまりかからない.多くの場合は変色もするし,多肉質の植物では乾燥させることによる変形も著しい等,いくつかの欠点はあるものの,何百万点もの研究資料を一ヶ所に集めて収蔵できる利点は大きい.科学史,なかでも植物分類学史は,このおしば標本の利点がどの欠点に対してもこれを凌駕する意義を有していたことを明らかにしている.つまり,植物学,なかでも分類学の発展と標本量の増加とは表裏一体の関係にあるということができる.おしば標本は細胞以上のレベルの形態学の研究,中でも微小で硬質な花粉や種子からマクロな形態の研究には支障なく,利用することができるのである.花粉の研究者はハーバリウムに行きさえすれば世界中で採集された標本の中から必要な材料を入手できるのである.

主として分類学や形態学の研究資料として収集されたおしば標本は,それ以外の研究分野にも貴重な資料として役立つことが判ってきた.可憐な鷺に似た花を開くサギソウ(ラン科)は絶滅が心配される野生植物のひとつである.その減少の原因は,サギソウが高値で売れるため山草業者が自生地から根こそぎ採っていってしまうことにある.そのためかつては広く各地に分布していたものが,急速に減少していったことが推定できる.しかし,サギソウがかつて広く分布したことを証明するものがあるだろうか.ハーバリウムの標本はこのような情報を伝える数少ない資料でもある.

おしば標本からはさまざまな有用物質も抽出されている.被爆標本や被爆地で年を変えて採集された標本は大気中の放射能の変化などを研究する貴重な資料でもある.おしば標本からDNAの抽出も可能で分子レベルの遺伝情報を得ることもできるようになった.分析解析の技術の進歩は標本の新たな利用を生み,これからも先端研究の推進に役立っていくことが期待できるのである.現代のハーバリウムには,植物学博物館の訳語を与えるのが適切だというのが筆者の見方である.Nationaal Herbarium Netherlandの日本名をオランダ国立植物標本館とはせずに,オランダ国立植物学博物館と訳したのはそのためである.

1575年に創設されたとされるライデン大学ははじめLeidsche Hoogeschoolと呼ばれていて,植物園の建物の一室にHerbarium Academicum Lugdunumという名の植物標本室があった.その標本室には,植物学史上重要なファン・ロイエン(Van Royen)やヘルマン(Paul Hermann)が収集作成した標本集があった.

 

ライデン大学国立植物学博物館はこの大学自身の標本室が,ひとつの母体とはなっているが,今日の重要生をもつに至ったのは,オランダ王立植物標本館と合併が行われたことが大きい.後者は1830年にブリュッセルからここに移され,1832年に合併が公に決まったのである.ライデン大学の植物標本室がかつて王立植物標本館Rijksherbariumと呼ばれていたのは,この合併の歴史によっている.

他方,オランダ王立植物標本館の設立は1825年3月31日にさかのぼる.国王の命令によって当時のオランダの首都ブリュッセルに設立された.このとき定められた利用規定が,館は十分な監督下に植物学を専攻する学生に対して開放されねばならないと規定しているのは興味深い.また,実際に植物学の教授と教授の推薦のある学生の標本利用を認め,植物学の教授は研究のため一定期間,受領書と引き換えに標本を借りることができた.今日の標本館や博物館に近い利用形態がすでにこの時代からとられていたことは注目される.

ライデン大学の植物標本室やオランダ王立植物標本館の創立は植物標本館としては世界でも早いほうだと言ってよい.ちなみに,パリの国立自然史博物館は1653年に創設されているが,有名な大英博物館自然史部門(現在のロンドン自然史博物館)の設立は1753年である.コペンハーゲンの植物学博物館は1759年,ケンブリッジ大学は1761年,ウプサラ大学は1785年,ベルリンのダーレム植物園博物館はさらに遅れて1815年,そして今では世界最大規模の植物標本を収蔵する王立キュー植物園標本室は1853年になって設立されたものである.

1832年に合併が決定されたものの,実際の合併が終了したのは1871年になってである.このように合併に時間がかかったのはユンクーン(F. W. Junghuhn)ら一部のスタッフが新館長となる王立植物標本館長のブルーメ(C. L. von Blume)の監督下におかれることを望まなかったためである.

旧王立植物標本館
旧王立植物標本館.シェルぺンカーデにあった時代の建物.
 

ブルーメは1862年に亡くなり,ミクェル(F. A. W. Miquel)が後を継いだ.1872年になって,オランダ植物学会(Botanische Vereeniging)の植物標本コレクションもライデンに保管されることになった.館長ミクェルがブーゼ(L. H. Buse)に申し出てから9年後にやっと実現したといわれている.こうしたことが契機となり,オランダ菌類学会などの公的機関や個人からの標本の寄贈が行われるようになった.こうした寄贈標本に加え,スタッフや政府の研究機関の関係者より収集された標本,他の標本館や個人コレクションの所有者との交換によって得た標本,個人コレクションや自然史探検家から購入した標本が次々に加わり,ミクェル館長の時代にライデンの標本館はその収蔵標本数でも世界有数の規模に達するまでになっていた.

ライデンが収蔵する標本の中でもとくに重要なものはオランダの東インド会社や旧植民地で収集された標本である.その中には,東インド会社が経営に関わった,今日植物学上マレーシアと呼ばれる,ニューギニアから西へ,スマトラ,ジャワに至る熱帯アジアの島嶼地域やマレー半島,フィリピンの植物のコレクション,シーボルトに代表される日本の植物コレクションが含まれる.こうした標本を基盤としてライデンでは今日に至るまで熱帯アジアの植物,とくにマレーシア地域の植物の多様性,分類などについての国際的センターとしての役割を果たしている.

1999年にオランダの3大学の植物標本館,つまりワーゲニンゲン農業大学の植物標本館(Herbarium Vadense),ユトレヒト大学植物標本館,そしてライデン大学の王立植物標本室の3つの植物標本館は合併し,オランダ国立植物学博物館(Nationaal Herbarium Nederland)を形成することになった.ただし,全コレクションは一ヶ所に集中するのではなく,従来通り3つの大学に分散して収蔵と利用を図るものである.これらの3植物標本館は,それぞれ現在の専門分野を維持し続ける.すなわち,ライデンはアジアとヨーロッパの植物標本,ワーゲニンゲンは熱帯アフリカの植物標本,ユトレヒトは新熱帯の植物標本を主に収集・収蔵する.それぞれの大学での植物分類学関係の講義・教育活動は続けられるが,研究活動と標本管理ではいろいろな面で統合されることになった.大学からそれぞれの分館への資金供給は減ったが,オランダ国立植物学博物館として政府から補助金を受けることになった.これは,主にコレクションの科学的な管理,熱帯諸国からの学生のための分類学的教育・訓練,ヨーロッパの共同研究に向けた研究を対象としたものである.

この新しい状況に対処すべく研究グループが再構成された.ライデンでは,2つの研究グループができた.それは,1)東南アジアの維管束植物(以前の熱帯グループとシダ学と花粉学の統合)と,2)ヨーロッパの隠花植物と顕花植物(以前の隠花植物研究グループとオランダ植物相研究グループの統合),という2グループである.また,ワーゲニンゲン分館とユトレヒト分館同様に,系統学,系統生物地理学,バイオシステマティックスの研究プログラムの中に分子系統学が含まれることになった.上記の合併は実際にはライデンの王立植物標本館の予算の大幅な削減案に対して,前向きの回答として採られた改革であったとみることができる.削減案の提案直後から将来に対してしばらく不確実な状況にあったオランダの植物分類学は,再び将来に持続可能な前途を手にしたのである.状況を的確に判断し,適切な措置を講じることができたのは,新しい機構の館長であり,ライデン大学分館長でもあるバース(Pieter Baas)教授の指導力に負うところが大きい.分館となった今,ライデンはユトレヒトとともに,とても良好な状況にある.オランダで最近実施された全大学の生物学科の国際的な外部評価は,ライデンにおける最近5年間での研究は,質,生産性,実用性,将来の可能性に対して優秀であると評価している.

世界でも指折りの高い植物の種多様性を有するマレーシア地域の植物誌である,『マレーシア植物誌』(Flora Malesiana)を完成するためにライデン大学分館は多大の努力を払ってきた.今後ともこの事業は継続されることになったのは喜ばしい.また,今回のシーボルト・コレクションの東京大学への一部分与などもライデンが進めてきた国際的な協力関係の推進の一環と理解することができる.

王立植物標本館
王立植物標本館
シェルベンカーデから移転後の建物で, 現在のファン・ステーニス・ヘボウに移転するまで使用されていた. 現在はライデン大学が使用している.
旧王立植物標本館
ライデン大学国立植物学博物館の標本収蔵室.
標本は小形の標本ケースに収納されている.
 
おおば・ひであき 東京大学総合研究博物館教授
(Professor, University Museum, University of Tokyo)

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