2 オホーツク氷民文化

オホーツク人のゆくえ

宇田川 洋




  オホーツク文化という環オホーツク海古代文化の一つは、西暦十世紀頃の最盛期を過ぎると何故かその姿をかの地から消すことになる。同時代を一部共有していた擦文文化を担った擦文人(アイヌの直接の祖先)との関係はどうなっていたのであろうか。オホーツク文化の後にトビニタイ文化と呼ばれる文化が続いたが、それを考えることによってその辺りの問題を解く一つのヒントが得られると思うのである。そこで住居と土器を考えることによってオホーツク人のゆくえを探ってみたいと思う(図1)。

図1 トビニタイ文化の土器と竪穴の成立過程

  まず竪穴住居址をみておこう。擦文文化の竪穴は隅丸方形で、南東側の壁にカマドを設置し、中央部に地床炉をもつのが基本である。大きさは一辺が四〜一〇メートル位である。これに対して、オホーツク文化の竪穴は五角形ないし六角形で、コの字形の粘土貼り床をもち、石組み炉を有するのが基本である。大きさは長軸が一〇〜一五メートルに及ぶ大型のものである。これらに対して、トビニタイ文化の竪穴は擦文文化の隅丸方形を踏襲し、オホーツク文化の石組み炉をもち、カマドや粘土貼り床は用いられないのが基本となっている。両者の融合がここに見られるのである。

  次いで土器群を見ていこう。最盛期の頃のオホーツク土器は、壷形で粘土紐の貼付文(ソーメン文)をもつものであった。同時代の擦文土器は、菱形ないし深鉢形で刻線文を施したものである。それらが融合あるいは接触したような新たな土器群が登場するのである。それをトビニタイ式土器群と呼んでいる。羅臼町トビニタイ遺跡出土資料を標識としているものである(図2)。その特徴は、器形が底部を除いて擦文土器の髪形を基本とし、文様としては擬縄貼付文や紐状貼付文(ソーメン文)、刻線文を施しているもので、完全に擦文土器とオホーツク土器の両方の特徴を合わせもつものである。このトビニタイ土器群は古いグループ(II式)と新しいグループ(I式)に分けることができるが、トビニタイII式は紐状貼付文土器で、十世紀頃の擦文中期の土器に伴うようである。I式は十三世紀頃の擦文晩期の土器群に伴い、擬縄貼付文に刻線文が主体的に加わるものである。中間のグループも存在し、擬縄貼付文と紐状貼付文土器で、十一〜十二世紀の擦文後期の土器群に伴出することが分かっている。さらに近年、道北部において、トビニタイII式土器平行の段階で元地式土器と呼ばれる一群が擦文土器とオホーツク土器の接触型式として注目され出している。また、トビニタイII式より古いタイプとしてカリカリウス式土器群とされる一群がある。

図2 トビニタイ式土器
羅臼町トビニタイ遺跡 2号竪穴 高33.0cm 東京大学常呂実習施設蔵

  以上が従来の考え方であったが、最近は少し違う見方が出されている。大井晴男(一九九四)は次のように述べている。例えば斜里町オタモイ一遺跡や須藤遺跡のトビニタイ土器群と擦文土器に関して、「搬入された擦文土器」「模作された擦文土器」「融合型式(トビニタイ土器群)」が含まれていると言う。それらの混然とした土器群を製作した人間集団がトビニタイ文化を担った人たちであると述べる。そして「人間集団を弁別し・確認するための方法」としての「型式論」が必要であることを提言しているのである。このことは、オホーツク人のゆくえを探る上で重要な指摘と言える。

  また、大西秀之(一九九六)は擦文土器の「模倣品」をより細かく分析して、斜里町ピラが丘遺跡のそれをPR型、オタモイ遺跡・羅臼町オタフク岩洞窟遺跡のそれをOT型と呼んでいる。それらの地域的な広がりをエリアI(網走〜斜里市街地)とエリアII(知床半島〜大平洋岸)として地域差があることを指摘している。氏は後に後者を細分して、知床半島部をエリアIIとし、エリアIIIは標津〜釧路としている(大西、二〇〇一)。それを編年に当てはめ、新しくなるほど模倣品としての完成度が高くなるという。そして「ヒトからヒトへの技術の伝達と習得」を考えている。つまり、トビニタイ土器群の製作者は、「たとえ擦文文化圏にいたとしても、こうした製作の"場"に参加できなければ、擦文式土器の製作技術の習得は不可能」とし、さらに「異文化集団が、こうした製作の"場"への参加を許されている状況では、最低限の意思疎通をはかるためのピジン(接触言語)の成立が予想される。逆に、ピジンが生まれるほどの緊密な関係であるからこそ、土器製作の"場"への参加が許されると考えるべきである」と言う。そして、エリアIの集団は「接触・交流というレベルを超え、擦文文化集団との間に社会的なネットワークの一部を共有していた」とし、「こうした背景には、両集団を密接に結びつけるような関係、例えば婚姻や協業などが成立していた状況を仮定せざるをえない」とする。

  このようにして、オホーツク文化を残した人たちはトビニタイ文化を残した人たちへと替わり、さらに擦文文化の人たちと接触し、言葉の壁を乗り越えて"同化"の道を辿ったのであろう。しかし、純粋なオホーツク人の生業はあくまで海を舞台とする海獣狩猟であり、擦文人は鮭鱒をメインとする漁労に主体をおいていたことを考えると、すべてのオホーツク人がトビニタイ文化を残した人となって擦文人の中に吸収されていったとは思えないのである。オホーツク人が謎の海洋民族と呼ばれる所以の一つでもある。


【参考文献】


大井晴男、一九九四、「搬入土器と模作土器と」、『彌生』二三、東京大学文学部考古学研究室談話会、一二〜三七頁
大西秀之、一九九六、「トビニタイ土器分布圏における“擦文式土器”の製作者」、『古代文化』四八〜五、四八〜六二頁
大西秀之、二〇〇一、「“トビニタイ文化”なる現象の追求」、『物質文化』七一、二二〜五六頁




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