常呂という小さな町はオホーツク海沿岸、網走市の西隣にある。東京大学の考古学研究室が一九五七年以来、野外調査を続けている北辺の港町である。ソルトレイク・オリンピックで活躍した日本女子カーリングチーム、シムソンズの故郷として知名度があがったとはいえ、この町の名を正確に読める人は東京には多くないかもしれない。現在はトコロというのだけれども、かつてはトーコロと呼んだ。トーとは沼のことでコロとは……があるという意味だから、トーコロとは、沼のある場所をさす。沼というのは町の西にある日本第三の規模をほこるサロマ湖、あるいは、かつてその周辺に広がっていた沼のことらしい。北海道の多くの地名がそうであるように、もちろん、この地名はアイヌ語に由来する。かつて、ここがアイヌの人たちの土地であったことの証である。 この名は北海道の名付け親、松浦武四郎(一八一八−一八八八)が安政六(一八五九)年に刊行した地図『東西蝦夷山川地理取調図』にも登場するし、伊能忠敬(一七四五−一八一八)による類い希なほど精密な測量をへて文政四(一八二一)年に完成した『大日本沿海輿地全図』(口絵14)にも記載されている。また、享保五(一七二〇)年に新井白石が著したアイヌ地誌である『蝦夷志』(図1)、さらにさかのぼれば、寛文七(一六六七)年、当時の蝦夷地をおさめていた松前藩がつくった『松前蝦夷図』にツコロとしてあらわれている。江戸期の和人たちは誰もがここでアイヌの人々に出会った(図2)。少なくとも一七世紀以降にこのあたりに住んでいたのは、北海道の他地域と同じくアイヌの人たちだったということになる。常呂という地名が文字資料でたどれるのは、ここまでらしい。
それ以前の常呂の住人も同じようにアイヌの人たちだったのだろうか、あるいはそれに先立つ人たちが住んでいたのだろうか。文字記録が乏しい事情は北海道の他地域と変わらない。北海道が本格的な歴史時代にはいるのは江戸や明治の和人入植以降。和人による断片的な記事しか残されていないそれ以前は先史時代と呼ぶのがよい。奈良平安時代の史書にも北海道にいた和人と異なる人々の記事はみられるし民族誌や中国の史書も参考にはなるが、先史社会の委細を知るのにもっとも有効なのは、やはり考古学や人類学の現地調査である。 北海道の先住民をめぐる調査や推察は、明治期にそれらが近代的な学問としての産声をあげた当初から始まった。コロボックルというアイヌ以前の先住民がいたことを主張した坪井正五郎の言説は特によく知られている(口絵2、図3)。それから一世紀以上もの間に積みあげられた実地調査の成果は、北海道の先史文化の消長について幕末の探検家や明治の知識人たちには想像もつかなかったほど具体的なストーリーをもたらしつつある。なかでも常呂一帯の考古学的知見はきわだって豊富だ。東京大学文学部が半世紀近く続けてきた野外調査の成果があるからである。
北海道の先史時代の歩みは本州島以南とは同じでない。特に違うのは稲作農耕が伝来した弥生時代以降の歩みである。農耕という人類史にとっては異色とも言える生業様式を受容して以後一気に歴史社会に突入した本州の人々と違い、縄文時代以来の狩猟採集社会がここでは長らえた。かつての縄文土器と類似した土器を用いながらも金属器を使用していた紀元前三世紀から後七世紀の続縄文(ぞくじょうもん)文化、木ぎれで擦ったような文様を器面にもつ土器を使っていた八世紀から一三世紀の擦文(さつもん)文化などと形を変えつつも、本州の急速な社会変化を横目に名もない無文字社会の歴史が連綿とつづいていた。それらはアイヌの祖先たちが残した文化ではあるが、今に残るアイヌ民族伝統の素地が形成されたのは一四世紀頃になってからのようである。 解明されつつある北海道の独自の歴史のなかでも、常呂が位置するオホーツクの沿岸には加えてユニークな過去があった。渡来民の時代である。本州で大和が政治支配を固めつつあった五世紀から六世紀頃、北海道にいた土着の人々である続縄文人とも本州の人々とも全く異なる集団が現れた。ちょうど、今よりも気温が低かった時期にあたる。冷気にさそわれるように南下してきた彼らは、流氷が漂着するオホーツク沿岸に独特な文化を花開かせた。考古学者たちはこの文化をオホーツク文化とよんでいる。 考古学の成果は多くの場合モノに関する文化についてしか語らない。したがって、その担い手がどんな人であったかを判断できないことがふつうである。だが、オホーツク文化の場合は、出土する人骨の形質学的研究によって彼らが続縄文人や擦文人とは非常に異なった顔かたちをしていたことが判明している。その顔立ちはむしろ大陸のアムール川流域、樺太方面の人々と最も似ており、故地もその辺りにあったらしい。オホーツク文化の担い手たちは確かに異民族であった。 彼らの習俗は先住民たちとは著しく異なっていた。拡大家族として生活し五角形や六角形の巨大な竪穴家屋に起居していたこと、流氷とともにやってくる海獣と魚の獲得などで生計をたてていたこと、北方経由で大陸の金属製品を入手していたこと、クマを始めとする動物信仰に篤く家屋内に骨塚をもうけていたこと、先住民とは居住地を異にし異なる生態を異なる技術で開発し続けていたもののついには融合し、一〇世紀頃には姿を消してしまったことなど、常呂の現地調査が彼らの生活を仔細に暴きつつある。 和人がアイヌに出会うよりはるか前に起こった名も知れぬ異民族たちの出会い。外挿された異郷の歴史がオホーツク沿岸にはあった。今回の特別展の第一の目的は、その歴史に光をあてることにある。オホーツク人という先史渡来民の諸活動を解き明かし、一般に語られることの少ない日本列島史の北の一面を探ってみたい。 展示のもう一つの主眼は、常呂における東京大学のフィールドワークを検証してみることにある。幕末や明治、昭和初期の調査はもちろん、北海道の調査研究の多くはエクスペディション型の調査体制をくんできた。地元に協力者をおきこそすれ、拠点は別にあった。文学部の常呂実習施設を中心とした半世紀にもなろうとする東京大学の調査は、それらとは対極にある。常呂に引き上げてきた樺太アイヌの言語学的調査を引き金とした東京大学と常呂町のドラマチックな出会いは、仲介者の大西信武自身の語り(『常呂遺跡の発見』講談社、一九七二)、そして本書大貫論文に詳しい。以後、途切れることなく続く現地調査は、常呂町に拠点をおき、つねに地元密着型の道を歩んできた。調査遺跡の選定に協力したのが地元なら、文学部附属の資料陳列館や研究室、学生の実習施設建設のための土地や建物を斡旋、提供したのも地元である。常呂町と東京大学のここ十年来の交遊はさらに加速度を増している。実習施設教官の地域連携科学研究費による遺跡研究、国指定史跡常呂遺跡の共同調査、さらには文学部公開講座の出張開催など立て続けの事業が密な協力のもとにおこなわれている。一九九三年に整備が始まった「ところ遺跡の森」では、今や町の埋蔵文化財センターや資料館と東京大学の諸施設が同居し、常呂町の先住民に関する一大研究拠点がきづかれつつある。 古代北方の先住民を相手にして始まった東京大学の活動ではあるが、今日それが現代を生きる常呂町地元社会と相互作用し町の文化行政の主要な一翼をにないつつあることは明らかである。遅ればせながら、総合研究博物館もこの交流に関与するようになった。一九九九年には、かつて本館で収蔵していた常呂の発掘標本のほぼ全品を実習施設に集結し、常呂の研究センター形成に寄与することがあった。それを常呂町教育委員会の発掘品と合体のうえあらためて上京させこの展覧会を開くことになったのも、長く続く交遊の一部に位置づけられる。 思えば東京大学の研究者も渡来民に他ならない。オホーツク人と同じように常呂の地にひきよせられてやってきた。両者の交流は、数百年もかかったオホーツク人と土着民の場合よりもはるかに急速にかつ密にすすんでいる。常呂を舞台にして過去と現代に繰り返された異質な世界の避逅と相互作用の諸過程。本展示では、流氷が流れ着く岸辺に忽然と現れ消えた謎めく古代渡来民の顛末を研究者の目でたどるとともに、現代の渡来民たる研究者がフィールドで展開してきた社会的営みのプロセスをも追跡する。 |
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