1 三体の胸像、どれが一番か?





 一見すると同じ胸像のように見えるが、よくよく見ると三者は三様である。ブロンズ製が二体とセメント製が一体。前者の片方は表面の起伏に丸みがあり、全体の輪郭も柔らかい。これをブロンズ製(甲)とする。もう片方は皮膚のしわや衣服の襞など彫りが深くシャープであり、これをブロンズ製(乙)とする。問われるのは何故三体の像が残されているのか、それらの関係や如何に、である。

 これら三体の像を制作したのは太平洋画会、文展、帝展、日展で活躍した彫刻家堀進二(1890−1978)である。工学部建築学科で彫刻の非常勤講師を務め、本学関係者の肖像彫刻を多数手掛けている。像主の小金井良精(1857−1944)は東京帝国大学医科大学の解剖学教授として国内外に知られた重鎮で、森鴎外(1962−1922)の妹喜美子を妻とした。帝大退官後良精が晴れて80歳の誕生日を迎えるにさいし、かつての同僚、親しい友人、教え子、親族が集い「寿像」を贈ることとなり、この肖像彫刻が造られたのである。大学人のあいだには恩師や先学の功績を顕彰するこのような慣行が古くからあったようで、いまも寿像や遺像など多くの「博士の肖像」が学内に残されている(総合研究博物館特別展示「博士の肖像」展図録参照、1998年)。しかし、「小金井先生寿像」のように三体もあるのはいかにも奇妙である。

 セメント製複製の存在については、次のような話が学内で語り継がれている。第二次世界大戦の最中、日本政府は軍事物資の確保のため国民各層に対し金属製品の供出を呼びかけた。これにより寺社の梵鐘や公共の鋳像など多くの貴重な文化財が供出され、鋳潰されたことは周知の通りである。本学医学部では各種記念像の存続を願う人々が、急遽セメントで複製を誂え、ブロンズ製とすり替えた。そのおかげで「小金井先生寿像」も供出を免れることができたというのである。この話は星新一(1926−1997)も『祖父・小金井良精の記』(河出書房新社、1974年)のなかで紹介しているし、また同種のセメント製複製の存在を医学部の備品のなかに確認することができる。

 一方、ブロンズ製の二体については成立の経緯がいささか複雑である。(甲)と(乙)は一見同一のように見えるが、子細に比較すると彫りの深さや細部の形状に相違が認められる。事実、(乙)では像主の頭頂部に接合線が認められるのに対し、(甲)にはそれが存在しない。というより、頭部そのものの形状はもとより、肩、腕、胸前などどの箇所も形状計測器具で測定したところ、微妙に食い違っていることが判明した。したがって、両者は同一の雌型から鋳造されたものでなく、原型が異なっていたと考えられる。しかし、なぜ彫刻家堀進二は似ているが、異なる二体の彫刻を造ったのか。

 これについては、小金井博士の孫にあたる星新一が上述の回想のなかで、次のような興味深いエピソードを紹介している。昭和12年12月4日、帝大医学部では長与総長(1878−1941)他、160名ほどの参会者を集めて寿像の除幕式が行われた。その日の夕食会の席でのことである。ともに小金井良精の門下生であった足立文太郎(1865−1945)と長谷部言人(1862−1969)の会話のなかで、像主の手許にある頭骨がどうもおかしいということになった。「先生がいつも机の上に置いておいでのとちがっている」というのである。「あの頭蓋骨は日本人でも、アイノでもなく、ヒネーゼ(中国人)らしい」という新井の話を伝えられた堀は、「私のアトリエにあった、台湾で手に入れたものです。それをモデルにしたのですが、日本人のでないとひと目でわかるものですか」といたく感心したという。

 周知の通り、小金井良精はドイツで学んだ医学解剖学を基礎に、形態人類学研究を進めたことで知られる。日本の先住民族について古代人・現生人との骨学的な比較検証を基にアイヌ人説を唱えた小金井は、アイヌ人が伝承のなかで「コロボックル」(アイヌ語で葉の下の人の意)と呼んだ北方民族こそ日本の先住民族であるとした文化人類学者坪井正五郎(1863−1913)と激しい論争を戦わせ、これは後世の語り種にもなった。足立と長谷部が良精の寿像の頭骨の形態を問題にしたのはそうした背景があったからであり、制作者の堀にそのことを話したところ、頭骨を造り替えることに快く同意したというのである。

 現在残されている二体のブロンズ像では、(甲)の方の頭骨は形態人類学の専門家の見るところ、骨学的な理解に乏しく、構造上に問題がある。それに対して、(乙)の方の頭骨は縫合線もきちんと出来ており、骨構造的に納得の行くものになっているという。上記のエピソードと考え併せるなら、最初に造られたのは(甲)で、(乙)はそれを修正したものということになる。ただし、制作者の堀は頭骨をすげ替えるだけ宜しとせず、胸像の全体がより精緻なものになるよう、(甲)を原型にして細部に修訂を施し、改めて鋳造し直したものと考えられる。しかし、堀のこの再製作は結局報われずに終わった。なぜなら、衆目の眼前でお披露目を受けたのは(甲)であり、それを(乙)に取り替える機会は訪れなかったからである。金属供出対策として代替えのセメント像を用意することになったとき、堀は躊躇無く(乙)をその原型に選んでいる。セメント製の頭骨は明らかに(乙)のタイプに属するからである。

 なお、像主が頭骨を手にする図像は、西洋の伝統によると「死を想え」(Memento mori)の象徴的な意味を担うとされるが、ここでは計測具と併せて骨学研究に貢献のあった像主の業績をたたえるものとなっている。堀はドイツの文豪ゲーテが頭骨を見つめているところを描いた絵に霊感を得たと言われている。


1-1 堀進二『小金井良精像』(甲)
ブロンズ、幅67.0、奥60.0、高82.0、1937年(昭和12年)、本体基底部に「小金井良精先生寿像」、本体側面に「昭和12年7月 掘進二作」の銘あり、東京大学大学院医学系研究科・医学部解剖学教室蔵

 現在、医学部本館の階段踊り場に設置されているもの。細部の描写は省略されており、全体の輪郭が柔らかい。頭骨の部分に骨学的な合理性が欠けているが、彫刻家堀の持ち味が一番良く出ている。

1-2 堀進二『小金井良精像』(乙)
ブロンズ、幅67.0、奥60.0、高82.0、1937年(昭和12年)、本体基底部に「小金井良精先生寿像」、本体側面に「昭和12年7月 掘進二作」の銘あり、東京大学大学院医学系研究科・医学部解剖学教室蔵

 ブロンズ製(甲)を原型として、再製作されたもの。顔の造作や洋服の襞など、各所の造形的な表現により一層の進化が認められる。とくに頭骨は骨学の専門家を納得させるだけの合理性を持っている。ただし、(甲)に比べ、写実的な傾向が強まったぶんだけ、造形として硬くなり、表現力も乏しい。

1-3 堀進二『小金井良精像』(複製)
セメント、幅67.0、奥60.0、高82.0、1937年(昭和12年)、本体基底部に「小金井良精先生寿像」、本体側面に「昭和12年7月 掘進二作」の銘あり、東京大学大学院医学系研究科・医学部解剖学教室蔵

 ブロンズ製(乙)を基にしてセメントで模造されたもの。これは創造というより、複製、模造、偽造などの言葉が相応しい。この像の存在は複製がオリジナルの「代理物」として機能したことを歴史的に証している。



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