「レプリカ」を超えて


角田拓朗 文学部・美術史学



なぜ『大ガラス』のコピーはつくられたのか。


 マルセル・デュシャン(1887—1968年)[1]。二十世紀美術を代表するこの「芸術家」は二十世紀という大量複製・消費文化の文脈の中で、不可解で多くの謎を含む作品を発表し続けた。その彼の代表作『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』、通称『大ガラス』が制作されたのは1915—23年のことである[2]。現在この作品は彼の他の作品とともにフィラデルフィア美術館に展示されている。

 その第一番目のレプリカ、広くストックホルム・ヴァージョン(以下、《ストックホルム》と記す)として知られているものが制作されたのは1961年の初秋である[3]。第二番目のロンドン・ヴァージョン(以下、《ロンドン》と記す)は1966年[4]。そして第三の東京ヴァージョン(以下、《東京》と記す)が完成したのは、オリジナル制作から実に半世紀以上もたった1980年のことであった[5]

 まずは『大ガラス』の基本的な性格を確認しておこう。

 単純に同じモノを作り出すことはデュシャンの嫌った「趣味」に陥ることになる[6]。そこで重要なのが限定三百部で1934年に発表された『グリーン・ボックス』すなわち正式には『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』と呼ばれる作品の存在である。その名のとおり緑色の箱で、その中に『大ガラス』に関する93枚のメモが収められている。実際の制作に関する立面図や平面図などもを含むそれらのメモからは『大ガラス』にまつわる多くの思考の跡を読み取ることができる。

 デュシャンは『大ガラス』が単純な「網膜的」快楽に供されることを拒否した。そしてこの難解な作品を読み解くために、これらのメモを参考にして欲しいと望んでいた[7]

 デュシャン芸術が語られる場合には、彼の作品そのものより思考・言説の方に大きく比重が割かれる傾向にある。レディ・メイドの印象が強いからであろうし、また彼の多くの作品に対するディスクリプションが作品を「理解」することにそれほど有効でないためでもあろう[8]。しかし、そのような傾向で『大ガラス』を理解する試みは危険である。なぜならレディ・メイドと『大ガラス』との間にある存在感にはあまりにも大きな隔たりがあるから。レディ・メイドは身の周りのものを選び、署名するという行為をもって、「美術」という制度・システムに対する批判を示す作品である。それに対し『大ガラス』にはそのような意図はなく、逆にそのかたちの厳密さへのこだわりが顕著である。そのことを具現化してみせようとする強固な意志が『大ガラス』には感じられる。

 作品として後に発表された『グリーン・ボックス』ではあるが、その中にはデッサン・下絵が含まれ、制作の時系列上では『大ガラス』に先行する。つまり『大ガラス』を結実させるためのプロセスが『グリーン・ボックス』の中に開示されているのである。ただし、プロセスといっても、単純に作品実体よりも下位に置かれるわけではない。作品とそのプロセスとの関係では、多くの場合作品の方が重視される。しかし思考に重きを置くデュシャンの場合、必ずしもそうとは言い切れない。『大ガラス』と『グリーン・ボックス』は、相互補完的な関係にあるからだ。この観点から『大ガラス』を『グリーン・ボックス』から新たに作り出すことが可能だという発想が生まれる[9]

『大ガラス』にはデュシャンの思考の断片——運動、時間、四次元、透視図法、エロティスム——が未完の状態で集められている[10]。『グリーン・ボックス』の中のメモがレシートの裏であったりノートの切れ端であったり順序すらもバラバラな状態であるように、『大ガラス』上の思考は断片的で未完状態にある。一般には、デュシャン芸術唯一のイスム、エロティスムにより円環的に支配された、「花嫁」と「独身者たち」との不毛な愛の交歓が物語られているという。ただしこの通説も、デュシャンは彼特有のシニカルな態度のせいで決定的なものにならない[11]。しかしそのような身振りを示す一方で、デュシャン自身も彼の芸術全体にエロティスムが貫通することを認めている[12]。そしてこの『大ガラス』に未完のかたちで散りばめられた多くのテーマが、そのエロティスムを軸としてデュシャン芸術の本質を表象していることは明白である。デュシャン研究の多くが『大ガラス』に向かって進められ、『大ガラス』から発想されるのはそのためである。

『大ガラス』はデュシャンの作品の中でもひときわ明確なかたちを持つ。この特徴が研究意欲のみならず、レプリカ制作へと誘惑するのだが、この未完の作品のコピーが作られる理由は単純である。つまり、現在フィラデルフィアにある『大ガラス』の移動が困難というよりも不可能に近いからである。『大ガラス』はその名からわかるようにガラスを主体とし、その図柄も鉛箔などが天然のニスで固定されるなどもろいものである。実際今あるオリジナルの姿も1926年に無数のヒビが入った後にデュシャンが修復したものなのである。

《ストックホルム》は移動不可能性のゆえに生まれた。1961年、ストックホルムの国立近代美術館で<Art in Motion>展が開催される予定であった。その出品作として『大ガラス』が出品候補となったものの、搬送が不可能とのことで一度は断念された。が、主催者側の強い希望により美術批評家のウルフ・リンデによりレプリカが急遽制作されることになった。リンデは三ヶ月で大ガラスを完成させた。《ロンドン》も同様に1966年の「マルセル・デュシャン回顧展」のために制作されたものであるが、ここで注意すべきは図版・写真複製での展示プランが採用されなかったことである。『大ガラス』が放つアウラを観者に感じてもらうことが大切であると考えられたのである。モノとして現前することの迫力を誰もが認めていたのであろう。

《ストックホルム》や《ロンドン》と違い、《東京》は展覧会出品を最初から企画して制作されたわけではない。制作の直接的契機はデュシャン研究であった。デュシャンを研究するために『大ガラス』をコピーすることが試みられたのである。見るだけでは理解できない側面を体感する試み、それはまさしく「追体験」の試みだった。

 東京ヴァージョンの制作の監修にあたったのは瀧口修造[13]と東野芳明[14]であった。特に瀧口は生前のデュシャンと親交を結び、日本におけるデュシャン紹介の第一人者でもあった。口約束か書面の上か定かではないが、本来は『大ガラス』のレプリカ制作も彼とデュシャンとの間で取り決められたものであった。デュシャン没後の1977年に制作が着手された時、デュシャンの意図がそのまま具体化されるよう、デュシャン夫人から瀧口・東野両名の監修が条件として示されていたのである。

 両名の監修があるとはいえ、実際の制作には多くの困難がともなった。第一の問題は『大ガラス』を制作する意味であった。なぜ『大ガラス』のレプリカをつくるのか。これに対する深い問いが瀧口から離れなかった。一応の結論として、『グリーン・ボックス』から作られる『大ガラス』はすべて等しく真、という先述の考えに到達する。次に、フィラデルフィアにあるオリジナルの『大ガラス』のかたちをそのまま使用してもよいのか、という問題にぶつかる。『大ガラス』を未だ見たことのない人に『グリーン・ボックス』を示して新たに『大ガラス』を描いてもらってはどうか、という極端な考えすらあった。最終的にはフィラデルフィアから大きく隔たることが不可能だとの考えから、割れる以前の、制作された当初の姿の『大ガラス』を志向するという結論に至った。この方針のもと制作が開始されたわけだが、その意味づけ以上に困難を極めたのは実際の制作であった。次章ではその実制作を振り返ってみよう。


『大ガラス』のコピーをつくる


『大ガラス』はその構造上二つの領域に分けられる。ほぼ中央に水平に位置するガラス板「花嫁の衣裳」を境に、上位が「花嫁」の領域、下位が「独身者たち」の領域である。もちろんガラス板自体が上位・下位でそれぞれ別のものであるため、コピーする際も各領域ごとに行われた。

 上位半分の領域は「花嫁」、「銀河」、そして「九つの射撃の跡」から構成されている。下位の透視図法に支配された幾何学的領域に位置する機械的な「独身者たち」の形態に対して、「花嫁」は有機的な器官を連想させ、また「銀河」は不定形フォルムである。オリジナルの実際の制作では、「九つの射撃の跡」は先にインクの付いたマッチ棒をおもちゃの戦車から発射してそれが印した跡をガラスに転写し、そこに穴を穿ったものである。「銀河」は一説によればシェービング・クリームをガラス板ではさみ、デカルコマニーの技法で伸ばしたものであり[15]、そこに四角く空けられた「喚起弁」はガーゼを風にあてそれがそよぐ形を写したものである。さらに「銀河」には微妙な色のムラがある。唯一「花嫁」だけがデュシャンの初期作品のデッサンから転写されたものである。

 以上のことからわかるように、この領域を支配しているのはデュシャンの意図を超えた偶然性である。この偶然性がレプリカ制作の際に大きな問題となった。デュシャンの思考を追体験するその結果として『大ガラス』があるのであれば、追体験もまたその偶然性にさらされねばならない。当然そう考える。《東京》制作時も最初はそう考えた。しかしそれではプロトタイプから遠ざかってしまう危険性がある。とはいえ、同じような試行を繰り返し、似たような結果を採用するという方法では偶然性を経験したことにならない。つまり、『グリーン・ボックス』から生まれたすべての『大ガラス』が等しく真である、ということがこの偶然性の介入により成立不可能になる。さまざまな議論を重ねた結果、上部領域に関してはフィラデルフィアのその形態を忠実にコピーすることになった。《東京》の制作方針、割れる以前の姿を志向するということに従ったのだ。実際、《東京》の上部領域はオリジナルの形態を正確にトレースしたものとなっている。この観点から考えれば、《東京》は単純な意味での、単にかたちを写しとるという意味での「レプリカ」であると考えられる。

 上位の「花嫁」の領域が大きく偶然性に支配されているのに対し、下位の「独身者たち」の領域は科学、具体的に言えば透視図法によって支配されている。ここでデュシャンが意図したことは透視図法の復権であった[16]。完全なる透視図法のもとに一つの消失点に向かって構成要素を等しく表象すること、これが下位の領域を作り出すうえで最も強くはたらく原則であった。

 デュシャンは異常なまでに透視図法に対してこだわりを見せた[17]。このこだわりは彼の四次元に対する興味に由来する。四次元を三次元として、視覚できるかたちでそれを把握するための手段をそれに求めたのである。彼にとっての透視図法とは四次元のみならず、さらにすべてのモノを見るという行為の最も確かな概念装置であった。さらに透視図法的な視覚を象徴する素材がガラス[18]であるから、その復権の意図は素材からすでに計画されていたのであろう。

 そのような意図を承け、レプリカ自体にもその厳密さが要求される。しかし《ストックホルム》は短期間で作り上げねばならず、またリンデ自身がフィラデルフィアのそれを見ていないとの理由から厳密さがそこなわれている。それに対して《ロンドン》、《東京》では透視図法に則った正確な形態の表象を導き出すため、図面の引き直しが行われている[19]

《東京》制作の際、《ロンドン》の図面が参考にされたという経緯もあり、両者は互いに近似している。《東京》制作、特に透視図法に関しては岩佐鉄男の論文に詳しく記述されている[20]。それによると実際のオリジナルでは必ずしも達成されていない透視図法の厳密さに困惑しながら制作した状況がうかがえる。《東京》においても1ミリメートル単位の精密な実測を行い、透視図法に基づき下部領域の図面を引き直し、個々の形態の位置を決定する作業が行われた。その正確さこそがデュシャンの思考の純粋な表れと仮定して。しかし現実としてオリジナルではずれが生じている。岩佐によると、そのずれの原因は「作図上の誤差、ガラス上に線をうつすときのずれ、ガラス破損による歪み」にあり、「おそらくこれらが複合した結果」そうなったのだという。例えば各部の実測図では、特にフリーハンドで描かれたと考えられる「独身者たち」の位置決定に関してはフィラデルフィアと大きな隔たりを示す。研究熱心な彼であったから単純な失敗とは考えがたい。透視図法に強いこだわりを見せながら、一方で作品としての「見え」に気を使ったと考えることができるのだ。この図面と作品実体とのずれを岩佐は「アーティストの特権」と称している。そして最終的に《東京》はそのずれを認めつつ、実際の「見え」に配慮して方針通り制作されたのである。

 以上のように、正確さを旨として《ロンドン》と《東京》は図面が引かれたわけだが、完成したモノ自体としてはその間に明らかな違いが存在する。それは色である。『大ガラス』の魅力はその思考の複雑難解な点にも求められるが、その思考を具体化しているのはほかならぬ『大ガラス』という作品実体、ガラスとその上に描かれた不可思議な形態である。そしてその思考を視覚的に最も強く支える構成要素がガラスであり、そして時間とともに変化する色なのだ。その脆く冷ややかな光をたたえた危うき存在の上に、次第に色あせていく色の変化を静かに感じることが、この作品のモノとしての最大の魅力である。

 しかし《ロンドン》の作品実体からはそのような危うさ、色の変化は見られない。その色は言うなれば一様なのだ。色の退色を示す部分が明瞭には見られない。全体としてはオリジナルの風合いから隔たった「きれいさ」が感じられるのである。これではオリジナルの『大ガラス』が持つアウラはかもし出されない[21]。計画当初は退色をある程度許容することを計画していたらしいが、しかし現実にはフィラデルフィアと大きく異なっている。この原因は材質にあるのかもしれない。ロンドンのそれは強化ガラス製だからである。そのため微妙な化学変化の差異が生じたのではなかろうか。ハミルトンは決して壊れることのない『大ガラス』として誇ってさえいたのだが、原作のアウラが失われては作品としての価値も半減する。

 それに対して《東京》はよりオリジナルに近い。よりその思考に即した視覚化が実現されている。ガラスもなるべく当時の成分に近いものが選ばれた[22]。色彩もオリジナルと似た具合に退色が進行している。カラー・チャートの制作のためフィラデルフィアにまで赴き、ガラスの上に数多くの絵具を塗りながら試行錯誤が繰り返された。以前デュシャン夫人はレプリカの中で《東京》が最も良いと語ったそうだが、フィラデルフィアとの近似を考えれば当然であろう。

『大ガラス』にとって色は重要な構成要素である。ただ制作が長期にわたったためか、デュシャンの色彩に対する考えは変化を示す。制作当初はガラスにより固定することで不変の色彩を保つことを意図していた[23]。しかしその退色こそが重要だと認識を改めた節がある。この認識は、ガラスを用いた習作の経験、作品とは壊れるものだという考えからと推測される[24]。リンデに対する制作の助言でも「古く見えることが大切」と語っている[25]。この思考の揺れは作品の二重性、死にゆくことを運命付けられながら、かつ永遠性を志向したアンビヴァレントな作品として結実している。このような『大ガラス』の面白みは《東京》でも看て取ることができる。

 以上のように、『大ガラス』の性格は多岐にわたる。そしてそれが要求する技術は高度である。透視図法以外にも例えば、「検眼図」の銀膜面の洗い落としの作業や、ガラスのヒビに直結しかねない「九つの射撃の跡」の穴開けの作業、そして構造的に重量がかかりやすく、一つ間違えばすべてが砕け散るガラスをステンレスの枠に収める作業。当時制作に携わった横山正は「よく考えて見ると、<大ガラス>の構造はほとんど無謀と言ってもよいものである」とその困難さを語っている[26]。これほどの技術的な困難を克服して作品をコピーする、その追体験を通して何が見えてくるだろうか。デュシャンがこの『大ガラス』で実現したかったこと、彼が考えるコピーの意義、そしてオリジナルについて。これらが『大ガラス』を透して見えてくる。


『大ガラス」東京ヴァージョンが語ること


 大量複製社会の時代を迎え、それを逆手にとったデュシャン。レプリカ制作を積極的に認めたデュシャン。彼はオリジナリティの否定を主張すべくレディ・メイド作品をつくるかたわらで『大ガラス』を制作していた[27]。この事実もまた意味ありげだが、それほどまでに自らの手業を注ぎ込んだ『大ガラス』の計画・野望・想いは大きいと考える方が自然である。彼自身もこの時期『大ガラス』が全てだったと語っている[28]。彼は自らの制作に集中するがゆえ、他のすべてのことに対しては真の意味で無関心であったという。後にあらゆるレプリカを容認する態度も、そのあたりに源泉があるのかもしれない。

 そのようなデュシャンが導いた『大ガラス』東京ヴァージョン。これに対して今、レプリカ、オリジナル、ヴァージョン、多くの名が付けられようとしている。本論では冒頭から「ヴァージョン」という語を用いているが、アルトーロ・シュヴァルツによる作品総目録ではフィラデルフィアがオリジナル、その他すべてはレプリカと記されている[29]。ロンドン・ヴァージョンを収めるテイト・ギャラリーの公式キャプションでもレプリカの表記である。むしろ東京においてヴァージョンが用いられていることの方が珍しい。

 では東京ヴァージョンの性格からするとどれが適当か。『グリーン・ボックス』から生まれたと考えれば、共通する性格を持ちつつも各個体の差異を容認するヴァージョンという呼称が適当であろう。この意味ではフィラデルフィアもまたヴァージョンの一つと考えられる。さらに作品は壊れるという観点を加えれば、作品の唯一性という意味でオリジナルであると言える。しかし形態の観点からすれば、フィラデルフィアのそれを忠実に再現していることから、オリジナルの対概念であるレプリカとも言える。ただし思考の追体験という観点からすれば、単純なレプリカという意味の情報量を超えたデュシャン論を展開しており、その独自性、オリジナリティを強く主張してもいる。

 この作品にはどれが適当なのか、おそらくすべてが許容されるのだろう。複数の読みが可能な状態で開示されていることがデュシャン芸術の特徴であり、面白みだからである。

 たしかに、「レプリカ」にすぎないとの批判もあろう。だが、レプリカであるにもかかわらず展覧会へ出品された意義を考えるべきである。実際に写真としての展示プランが採用されなかった経緯がある。デュシャン芸術における『大ガラス』の占める位置の大きさもさることながら、そのかたち、情報財としての有効性が認められたために、レプリカであっても出品されたのだ。モノそれ自体が持つアウラを観者に伝えたいがために。すると奇妙な現象が起こる。情報財としてのレプリカではあっても展覧会という場の力がはたらき、「作品」へと転化してしまう場合があるのだ。単に美しいだけのものなら美術品の域を出ない。それが「作品」となるには第一により多くの人の眼に触れること。次にその批判をうけること。そうして「作品」としての質を見極められて、初めて「作品」へと転化する。展覧会とは、そのような単なる美術品から「作品」への転化を図る一大契機なのである(ただしこの「質」というのが可変的な基準であるため「作品」であるかどうかの見極めは単純な問題ではなかろうが)。つまり、『大ガラス』の三つの「レプリカ」はそこに止まらず、「作品」への転化を促されているのだ[30]

『大ガラス』をコピーすること、それはデュシャンの思考の「追体験」であった。見ているだけでは決して知覚できない作品の息遣いを肌身で感じることができた。《東京》にとって、その作品実体をつくりだすことは極端に言えば第二義的なもので、その第一義は思考のプロセスを追う復元考古学的探求であった[31]。しかし、このように述べてしまうとかたち、作品実態が思考よりも軽視されるかのように誤解されかねない。これは先述した『大ガラス』の実体としての重みという論とも矛盾すると感じられよう。だがここで気づかねばならないのは、この構造こそがデュシャンが批判し続けた「網膜的」な絵画のあり方なのである。思考とかたちという二項対立で捉え、どちらかを上位・優位とみなす絵画のあり方、特に近代クールベ以後のかたちの重視、絵画表面上の技法の稚拙な遊び、かつその絵画内容の薄さ、つまり「オリジナリティ」がないことを「網膜的」と呼び、その構造に対して反発し続けた。だから『大ガラス』において思考とかたちの密接な関係を表現することをデュシャンは試みたのだ。

 デュシャンは「職人」(artisan)であることを好んだ[32]。それは彼の言葉や身振り以上に『大ガラス』の技術力の高さからより強く感じられる。彼の謎めいた思考と作品の不可解な形態、それらは互いに密接に結びついており、それを表現するためには高度な技術力が必要不可欠であった。作品の形態自体が思考そのものなのだから、それを厳密に表現することとは、彼のオリジナリティを主張することにほかならない。

『大ガラス』東京ヴァージョンを制作することはデュシャン芸術を理解するための「事件」であった。特に高度な技術を実践することで一面的な理解に基づくデュシャン像を大きく揺るがした。デュシャンの『大ガラス』は手業の結晶である。技術力があればこそ、『大ガラス』の豊かな思考が作品実体にじかに反映される。いたずらに芸術家の手業・技術を誇示するのでなく、自らの芸術的思考を結実するために技術力が必要である、とデュシャンは『大ガラス』で静かに語りかけている。

 そしてそのデュシャンの大いなる挑戦を復元考古学的に追求し、技術的困難を克服して、《東京》は完成した。その第一義的な本質を考えれば、この制作のためになされた多くのデュシャンに関する研究や翻訳の業績も併せて評価されねばならない。しかしこれまで見てきたように、このガラス上で表象されるさまざまなデュシャン解釈、その総合体としての《東京》の存在感は他に抜きん出ている。《東京》はまさしく造形言語としてデュシャンの思考とその研究をあらわす、つまり作品実体としてマルセル・デュシャン論を展開しているのだ。これもまたオリジナル制作から半世紀遅れた、彼の芸術の解釈・研究やその功績への賛辞をも含んだ、デュシャンを大いに語る『ガラス上の遅延』と呼べるのだろう。

 デュシャンは二十世紀を代表する「芸術家」であると冒頭で言い切ったが、それへの懐疑は多くの人がまだ持っているのではなかろうか。あまりに神話化されすぎているため忌避されている面もないではない。ただその作品と彼の詐術的な身振りが、彼の意図如何にかかわらず、今この領野まで導いてくれる概念装置としてはたらいていることの重要さを無視してはならない。

 この『ガラス上の遅延』が語る二十世紀美術におけるコピーの意義は二つある。一つは「オリジナル神話」によって逆に骨抜きになったオリジナリティを批判するための、その神話の破壊という意義。そしてもう一つは必ずある確固としたものとしてのオリジナリティの復権を希求する、その創造の可能性の領野を切り拓こうという意義である。そうしたことをデュシャンが考えていたかどうかは問題ではない。重要なのはわれわれがその作品を透して、コピー・オリジナルのその豊かな広がりを考えていくことである。

 デュシャンによりさらに明確にコピー・オリジナルという世界が見えてくる。それは複雑で迷宮のように立ち現れる世界かもしれない。しかしそのときこそこの『大ガラス』東京ヴァージョンを見て欲しい。それは今われわれの目の前に「レプリカ」を超えて、その世界を透視させる概念装置として件んでいるのだから。



【註】

[1]フランスに生まれ、主にニューヨーク、パリで活躍。その作品は多岐にわたり、その多くが後に展開される多くの二十世紀美術の源泉とみなされている。彼に関する主な著作を以下に列挙する。東野芳明『マルセル・デュシャン』、美術出版社、1977年。 滝口修造『コレクション 滝口修造 3』、みすず書房、1996年。マルセル・デュシャン/ピエール・カバンヌ『デュシャンは語る』岩佐鉄男・小林康夫訳、筑摩書房、1999年。Marcel Duchamp, Duchamp du signe, Ecrits réunis et présentés par Michel Sanouillet, Flammarison, Paris, 1975;Arturo Schwarz(Ed.), The Complete Works of Marcel Duchamp, DELAND GREENIDGE EDITIONS, New York, 1997;Francis Nauman, Marcel Duchamp, The Art of Making Art in the Age of Mechanical Reproduction, Abrams, New York, 1999.[本文へ戻る]

[2]『大ガラス』については多くの論考があるが、主な文献を紹介する。 東野芳明『マルセル・デュシャン』、美術出版社、1977年。オクタビオ・パス『マルセル・デュシャン論』宮川淳・柳瀬尚紀訳、書肆風の薔薇、1990年。[本文へ戻る]

[3]ストックホルム・ヴァージョンの経緯に関しては以下の論文を参照した。ちなみにリンデによって1990—91年に『大ガラス』の新たなレプリカが制作されている。これは展覧会へ出品するために、従来の《ストックホルム》が破損する危険性を考慮して、別のレプリカを必要としたためであった。Ulf Linde, La copie de Stockholm, Marcel Duchamp, abécédaire, Musée National d'Art Moderne, Centre National d'Art et Culture Georges Pompidou, Paris, 1977;前掲Marcel Duchamp, The Art of Making Art in the Age of Mechanical Reproduction.[本文へ戻る]

[4]ロンドン・ヴァージョンに関しては以下の雑誌、論文を参照した。サイモン・ウィルスン著『テイトギャラリー 図説ガイド 日本語版』、Tate Publishing・ミュージアム図書、1996年。Andrew Forge, In Duchmp's Footsteps, Studio International, 1966;Ronald Alley, Catalogue of The Tate Gallery's Collection of Modern Art/other than works by British Artists, The Tate Gallery in association with Sotheby Parke Bernet, 1981.[本文へ戻る]

[5]東京ヴァージョン制作に関しての経緯は以下の雑誌、論文等による。横山正「「大ガラス」レプリカ」、『美術手帖』、5月号、美術出版社、1978年。横山正「「大ガラス東京版」その後」、『美術手帖』、10月号、美術出版社、1979年。横山正「「大ガラス東京版」の完成」、『美術手帖』、6月号、美術出版社、1980年。横山正「「大ガラス」東京ヴァージョンの完成」、『美術博物館ニュース14』、東京大学教養学部美術博物館委員会、1997年。「マルセル・デュシャン「大ガラス」東京ヴァージョンの完成」、『GA』、261号、綜建築研究所、1980年。岩佐鉄男「〈大ガラス〉の透視図法」、多摩美術大学研究紀要第2号、1985年。東野芳明「瀧口修造の「シガーボックス」——「死後異本」はロビンソンの手で」、『第七回オマージュ瀧口修造 マルセル・デュシャンと瀧口修造』、佐谷画廊、1987年。塩崎有隆「瀧口修造と「大ガラス」東京版」、『第七回オマージュ瀧口修造 マルセル・デュシャンと瀧口修造』、佐谷画廊、1987年。横山正「デュシャンの『大ガラス』と透視図法」、『美術博物館ニュース23』、東京大学教養学部美術博物館委員会、1987年。横山正「〈大ガラス〉東京ヴァージョン制作苦労噺」、『マルセル・デュシャン展——〈レディメイド〉と〈大ガラス〉の謎』、朝日新聞社、1993年。[本文へ戻る]

[6]デュシャンの「趣味」については熊谷論文参照。[本文へ戻る]

[7]前掲『デュシャンは語る』、81—82頁参照。[本文へ戻る]

[8]レディ・メイド作品のレプリカは数多く作られたが、作品の性格上美的「趣味」の排除を意図していることから、必ずしもオリジナル通りに復元されているわけではない。この場合形にこだわることは作品の本質でなく、デュシャンの思考と矛盾するとも考えられるのだ(ただしミラノの画商であり、デュシャン研究家の一人でもあるシュヴァルツはあえてオリジナル通りの復元にこだわったが)。[本文へ戻る]

[9]瀧口は東京ヴァージョン制作の方針を定めたものの、その後も制作の意味を問い続けていた。それは、その思考に最後まで戸惑っていたかのようであった。[本文へ戻る]

[10]1912年の半ばから「花嫁」「処女」「移行」に関する一連の作品を制作。191年には「チョコレート磨碎器」や、「独身者」の平面図・立面図、そしてこの時点で最終的な『大ガラス』の構成図を描いてさえいた。1914年からは「独身者」の習作を開始していく。この点で『大ガラス』はそれ以前のデュシャン芸術の集大成と言える。[本文へ戻る]

[11]前掲『デュシャンは語る』、80頁参照。[本文へ戻る]

[12]前掲『デュシャンは語る』、185—187頁参照。[本文へ戻る]

[13]瀧口修造(1903—1979)。美術評論家、詩人。デュシャンのみならず、シュルレアリスムや多くの芸術批評で知られる。その著作は『コレクション 瀧口修造』(全13巻、みすず書房)としてまとめられている。[本文へ戻る]

[14]東野芳明、1930年生まれ。瀧口の次世代のデュシャン研究家。その論考は前掲文献の他に、『マルセル・デュシャン「遺作論」以後』(美術出版社、1990年)にまとめられている。[本文へ戻る]

[15]前掲『マルセル・デュシャン』、197—202頁参照。[本文へ戻る]

[16]前掲『デュシャンは語る』、72頁参照。[本文へ戻る]

[17]彼が1913年末から1914年一杯まで司書として勤めたサント=ジュヌヴィエーヴ図書館のそれに関するすべての文献に目を通すこと、とのメモが残っている。この時期は『大ガラス』制作の準備期間に相当するから、デュシャンは大方このメモ通りに行動したと思われる。このことはジャン・クレールが指摘するように、サント=ジュヌヴィエーヴ図書館に所蔵される透視図法に関する書籍の内容と『大ガラス』の比率との一致が物語っていよう。また『大ガラス』と透視図法との関係は以下の論文に詳しい。Jean Clair, Marcel Duchamp et la tradition des perspecteurs, Marcel Duchamp, abécédaire, Musée National d'Art Moderne, Centre National d'Art et Culture Georges Pompidou, Paris, 1977;ジャン・クレール「デュシャンと遠近法理論家の伝統」横張誠訳、『エピステーメー』、11月号、1977年。[本文へ戻る]

[18]ガラスと透視図法の関係は、前掲[註17]論文、および前掲横山正「デュシャンの『大ガラス』と透視図法」に詳しい。[本文へ戻る]

[19]《ロンドン》制作したリチャード・ハミルトンに注目してみよう。彼は本来芸術家であり、制作当時ニューキャッスル・アポン・タイン大学に所属していた。そこで彼は『大ガラス』についての講義を行い、また『グリーン・ボックス』を活字におこし英訳したものを1936年に出版している。これを機会にデュシャンと親交を結んでいる。そして、デュシャンが作ったもの以外に二つの習作を制作した。それは「濾過器(篩)」と「眼科医の証人」である。しかもこれらはデュシャンとの共同のサインを入れ五十部限定で刷られている。このようにデュシャン、『大ガラス』に精通したハミルトンであるから、その図面の正確さのほどが知られよう。[本文へ戻る]

[20]岩佐鉄男「〈大ガラス〉の透視図法」、『多摩美術大学研究紀要』第2号、1985年[本文へ戻る]

[21]ノイマンは前掲書において、『大ガラス』のアウラの源泉はそのヒビにあると語っている。確かにその通りで、この点が大きくフィラデルフィアとその他の『大ガラス』を、つまり「オリジナル」と「レプリカ」を大きく隔てている。しかしそのヒビまでもコピーすることは本文で言及しているように偶然性の問題が生じ不可能である。だから逆にこのヒビのない姿にまた新たな『大ガラス』の存在価値を見出しうるのではなかろうか。[本文へ戻る]

[22]ガラスの製法に関しては以下の論文に詳しい。ちなみにその内容によれば、《東京》はフィラデルフィアのよりも明るいガラスが用いられているのだという。確かにその輝きの自己主張は強く、故に観者はより強くガラスを意識することになる。横溝正夫「デュシャンの『大ガラス』東京ヴァージョン(東京大学教養学部美術博物館)と『階段を降りる裸体No.2』(フィラデルフィア美術館)」、「月刊コミュニケーション」、213号、株式会社広研、1999年。[本文へ戻る]

[23]前掲『デュシャンは語る』、79頁参照。[本文へ戻る]

[24]前掲『デュシャンは語る』、137—138頁参照。また作品の死については退色など経年変化つまりは時間との関係性や、さらに美術館制度との関係も併せて考える必要がある。詳しくは熊谷論文参照。[本文へ戻る]

[25]リンデ前掲書、31頁参照。[本文へ戻る]

[26]前掲横山正「〈大ガラス〉東京ヴァージョン制作苦労噺」、26頁参照。[本文へ戻る]

[27]註[9]で述べたように、『大ガラス』への習作が開始されたのは1912年半ばからである。レディ・メイドについては熊谷論文リスト参照。[本文へ戻る]

[28]前掲『デュシャンは語る』、78頁および130頁参照。[本文へ戻る]

[29]シュヴァルツ前掲書、700頁参照。[本文へ戻る]

[30]しかし、このプロセス自体が硬直化してしまう場合がある。それもまた展覧会という場・機能である。美術館、展覧会という制度があまりに一般化されてしまったため、そこに陳列されたものを無批判にありがたく崇めてしまう「習慣」が生まれてしまった。もちろんこの仕組みをデュシャンが見過ごすはずもなく、彼一流のやり方でそれを批判している。その代表的な例が史上最も有名な便器である。デュシャンと美術館の問題は非常に興味深い問題である。死後その作品は美術館という制度・場に置くこと、すべりこませることを自ら望んだ。このことは美術館という制度にデュシャンという毒を注入することにほかならない。それにより「美術館」、ひいては「美術」という近代に作られた特殊な制度自体の崩壊を試みたに他ならない。このことがその後の二十世紀美術の混迷を煽ったといっても過言でない。[本文へ戻る]

[31]ビュトールは東野との対談の中で『大ガラス』東京ヴァージョンの制作に関して、「考古学的探索」として評価している。 M・ビュトール/東野芳明「美術は古くて新しい「本」だ」(『世界』、538号、岩波書店、1990年)、340頁参照。[本文へ戻る]

[32]デュシャンはartistであることよりもan-artistであることを、また職人であることを望んだ。このことについて熊谷論文参照。[本文へ戻る]

[33]『大ガラス』東京ヴァージョンと並行して行われた研究の成果の一部を紹介する。 マルセル・デュシャン特集、『エピステーメー』11月号、1977年。『デュシャンの世界』、朝日出版社、1978年(前掲『デュシャンは語る』は本書を文庫本化したもの)。[本文へ戻る]



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