写真と謄本——天皇の姿と言葉の場合


木下直之 大学院人文社会系研究科・文化資源学



人間宣言


 俗に「人間宣言」と呼ばれる終戦翌年頭の詔書(昭和21年1月1日)において、昭和天皇は「天皇ヲ以テ現御神トシ且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ延テ世界ヲ支配スヘキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ス」と述べ、天皇は神ではないと明言したものの、人間であると宣言したわけではない。神でないのなら、人間であると受け止められたにすぎない。とはいえ、「朕ハ爾等国民ト共ニ在リ」とか「朕ノ政府ハ国民ノ試煉ト苦難トヲ緩和セン」とか「朕ハ我国民ガ時艱ニ蹶起シ」とも語っているから、天皇は国民のひとりではなく、国民の外におり、政府や国民の所有者であり、したがってただの人間ではない。

 もっとも当時の日本は、敗れたりとはいえ、いまだ大日本帝国憲法下にある。その第二章によれば、大日本帝国の構成員は臣民であり、第五条では、天皇は臣民が構成する「帝国議会ノ協賛ヲ以テ立法権ヲ行フ」とあるから、終戦翌年における元旦での天皇の判断は断然正しい。むしろ、早くも「臣民」を「国民」と呼び換えていることが興味深いし、第三条の「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」という条文との整合性が気になるところだが、これとても、神聖であることと神であることとは別問題と考えることもできるだろう。

 さて、「人間宣言」から11ヶ月後の同年11月3日に、大日本帝国憲法は日本国憲法へと改正された。「臣民」は姿を消し、代わって「国民」が登場した(第三章)。「我国民」という表現も姿を消し、単に「国民」、あるいは「われら」という表現が登場した(前文)。前文のそれは、英訳では“We, the Japanese people”となっており、新しい憲法を制定する段階で、天皇の性格が大きく変えられたことを示している。いうまでもなく、新たに天皇に与えられた性格が「象徴」である。

 とはいえ、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」(第一条)のだから、天皇は相変わらず国民のひとりではない。前文で国民主権を高らかにうたいながら、「国民の権利及び義務」は、第一章「天皇」、第二章「戦争の放棄」に次いで第三章という扱いは、この憲法が敗戦の産物であると同時に、大日本帝国憲法の枠組みを強く残していることを示している。当時の最重要政治課題が「国体護持」だったからだ。

 再び「人間宣言」に戻れば、昭和天皇は開口一番に明治天皇の「五箇条ノ御誓文」(慶応4年3月14日)を示し、そこに立ち返って新日本を建設しようと呼び掛けた。すなわち、一から出直そうというのだ。問題は、幕末の政治の産物であるそれが、昭和21年の日本の戻るべき振り出しであったか否かである。戻るに値する振り出しであったのならば、なぜそれ以後の80余年の歴史が御破算となる事態を招いたのかが、その次には問われるべきだろう。

 昭和21年の日本には、「天皇ヲ以テ現御神」とすることを、天皇自らがわざわざ「架空ナル観念」と呼んで否定せざるをえない現実があった。それは、誰もが天皇を神と信じて疑わなかったというよりは、誰もが天皇を神として扱わざるをえない現実であった。この仕組みがどのように出来上がったのかを、われわれもまた振り出しに戻って考えることにしよう。


成長する天皇、増殖する天皇像


 京都御所紫宸殿において、天地神明に対して「五箇条ノ御誓文」を誓ったとき、明治天皇はまだ16歳の少年であった。天皇には前年に即位したばかり、御所の奥深くで育てられた少年は薄化粧を施され、まるで女装をしたようだったという証言が当時の外国人外交官の記録に残っている(ミットフォード『英国外交官の見た幕末維新』講談社学術文庫、平成10年)。

 王政復古を標榜した新政府の課題のひとつが、成長途上にあったこの少年の身体を改造することであった。新政府の正統性を保証するものが天皇であり、それゆえに官軍を自称して倒幕に成功したのだし、その後も政権を維持するためには天皇を手中に収め続けておく必要があった。

 そこで、天皇は東京へと連れ出された。明治元年の秋に東京に入り、いったんは京都に戻ったが、翌年春に再び東京に向かうと、もう京都には戻れなかった。天皇を京都から引き離すことは、天皇を取り巻く公家社会、公家文化から引き離すことにほかならない。

 東京では、乗馬の訓練が待っていた。輿で運ばれることを当然とし、京都東京間もそれで往復した天皇が、これからは自ら馬の背に乗ることを余儀なくされた。軍隊を統率する強い天皇像を新政府が必要としたからだ。明治初年の『明治天皇紀』からは、訓練の日々がうかがわれる。明治6年になると、軍隊の閲兵に馬で出かけることが出来るようになった。同年3月には断髪が行われ、6月に正服が洋服(軍服)に変わる。

 天皇の姿が写真に撮られるのは、ちょうどこのころである。欧米諸国との外交儀礼上、元首の肖像写真が必要となったからだ。公式の肖像写真は、内田九一により、明治5年8月5日以前に束帯姿と小直衣姿が、断髪後の6年10月8日に軍服姿が撮影された。軍服姿の写真は、剣を両手で持つものと片手で持つものとの二種類が知られる。この軍服姿の写真が、やがて「御真影」として出回ることになる[図1]。

図1

 また、すでに明治4年11月には、横須賀造船所を訪れた際に、スティルフリートによって側近とともに集合写真を撮られたこと、スティルフリート商会による写真の販売が禁じられたことが知られる。最近、この写真と思われるものがロンドンのオークションに出たと報じられた(『朝日新聞』平成13年5月25日付)。さらに、明治5年の早い時期の撮影と推定される馬に乗った写真が知られ、平成13年に神奈川県立歴史博物館で開催された特別展「王家の肖像——明治皇室アルバムの始まり」(会期4月28日—6月3日)で紹介されている[同展図録101頁]。

 写真に記録されたものは、20歳前後のまだ若い、どちらかといえばひ弱な感じの青年の姿であった。もともと外交儀礼の必要に応じて撮影されたものであり、束帯姿と小直衣姿の肖像写真は欧米各国を歴訪中の岩倉使節団に送付され、軍服姿の肖像写真は領事館を通じて各国王族に贈られた。国内でも、明治6年11月3日の天長節に右大臣以下の勅任官・麝香間祇候等35名に、翌年には奏任官に、またほぼ同時期に、求めに応じて各府県への下付も始まった。

 それから明治22年に大日本帝国憲法が発布されるまでのおよそ16年にわたって、出回った天皇の肖像の大半はこの軍服姿の写真を元にしている。早くも明治7年4月には東京府知事が写真の売買禁止を通達しており(『太政類典』2—52)、その後もしばしば販売に関する取締りが行われたという事実は、逆に、複写写真が複写に複写を重ねて普及したことを物語っている[図2]。

図2

 また写真の天皇像は木版画や銅版画や石版画にもなり、こちらも広く出回った。木版画には出来事の場面を華麗に描くという江戸時代以来の伝統的表現があるから、銅版画や石版画ほど肖像写真への依存度は大きくないが、それでも天皇の姿だけが写真からの引用であることを示す作例が何点もある。これら版画における天皇像は皇后像(昭憲皇太后)、皇太后像(英照皇太后)と組み合わされ、多種多様な様相を呈している。その作例は前掲「王家の肖像」展図録に詳しい。

 さらに、写真は油彩画にも写された。同じものを複数生産する版画とは対照的に、油彩画は一点しか作られない。油彩画の場合、まったく同一のイメージであっても、二点目からはレプリカとか模写と呼ばれる。むしろ写真から油彩画への転換に求められるものは、当時の写真が持っていた欠陥、すなわち色彩を持たず小さくて不鮮明で褪色しやすいという欠陥のすべてを補い、その対極のもの、すなわち色彩を持った不変で恒久的な堂々たる肖像を作り出すことであった。また、写真にありのままに写ってしまう現実の身体を加工し、理想化することも油彩画の利点であった。

 ただし、それを可能にするだけの腕を持った画家が当時の日本にはいなかったから、写真はイタリアに送られ、ミラノの画家ジュゼッペ・ウゴリーニがそれから油彩画に仕上げた。天皇皇后の肖像画は明治7年10月に日本に到着し、やはりウゴリーニの筆になる欧米各国の元首像とともに皇居を飾ることになる。続いて、明治12年には、元老院開設に合わせて新しい天皇皇后像がイタリアから届いた。こちらは立像で描かれており、ぎこちない座像だった写真のイメージをさらに大きく加工し、修正している。

 当時の日本に腕ききの画家がいない、といったのは言い過ぎかもしれない。明治12年になると、元老院から命じられて、高橋由一が天皇像を、五姓田義松が皇后像を、荒木寛畝が皇太后像を描いているからだ。いずれも内田九一撮影の写真をもとにした。また、義松の父五姓田芳柳も、妹渡辺幽香も、それぞれに天皇の肖像画を油彩画風に手掛けている(「五箇條の御誓文発布130年記念展、明治天皇の御肖像」展図録、明治神宮、平成10年、および「皇室の名宝」展図録、東京国立博物館、平成11〜12年を参照)。

 それに、天皇の江戸城入城以前、城主たる徳川歴代将軍の肖像は、御用絵師たる狩野派の画家によって描かれ続けてきた。将軍像は没後すぐに追慕像として描かれることが多く、そこでは厳密に肖似性が追求され、また速やかに制作を進めるシステムが用意されていたという(福島県立博物館における榊原悟氏の講演会「将軍画像の制作と肖似性をめぐって」、平成13年7月15日開催)。言い換えるなら、明治維新の時点で腕ききの画家はいくらでもいたものの(個人というよりは工房として)、天皇を京都の公家文化から引き離した新政府が、一方で新たな天皇像の制作に際して、倒したばかりの武家文化へと接近させるはずはなく、むしろ西洋諸国の元首と肩を並べるために、写真と油彩画という西洋の技術を採用したのだった。

 このように肖像制作技術に断絶があった反面、肖像の管理技術には継続が認められる。早くから徳川家康を神格化し、東照大権現として祀ってきた将軍家は、将軍が没するたびに肖像画と肖像彫刻(木像)を制作し、霊屋を建てて厳密に管理してきた。諸藩は同じことを藩主のレベルで繰り返した。こうして藩主もまた没すると神格を与えれ祀られてきた。おそらく、新しい表現形式の天皇像を国民統合の象徴とみなすだけでは不十分で、それが在来の肖像管理技術をどれだけ継承しているのかを視野に入れる必要がある。ただし、その前に、天皇像がもう一度大きく脱皮する様子を見ておこう。


帝王の姿と言葉


 大日本帝国憲法が発布された明治22年に、天皇は37歳になっていた。政府はこの年に向けて、急ぎ足で国家の体裁を整えた。前年には皇居が落成した。この年は新橋神戸間の鉄道が全線開通、上野の博物館は帝国博物館と改称され、新たに京都と奈良にも帝国博物館の設置が決まった。東京美術学校の開校も、美術雑誌『国華』の創刊もこの年で、国家の体面にさらに華を添えるのが美術であるという認識が高まった。

 いわば憲法という新調の衣服に身体の方を無理矢理合わせようとした時代である。天皇だけが青年のままでいることは許されなかった。そこで採用された方法はいささか複雑である。またしてもイタリア人が関与する。明治21年、大蔵省印刷局に雇われていたエドアルド・キヨッソーネが天皇の肖像をコンテ画に描き(天皇その人を隣室より覗き見ながらの最初のスケッチは1月14日に芝公園内弥生社にて行われた)、そのコンテ画を丸木利陽が写真に撮影した。また、皇后は、翌22年6月14日に鈴木真一によって、15日には丸木によって写真撮影が行われた。憲法発布がこの年の2月11日であり、8月19日には、天皇がキヨッソーネと丸木を芝離宮に招いて慰労しているから、肖像製作が憲法発布に合わせて進行したことがうかがわれる。

 明治初年の肖像が写真から絵画へと転換することで普及したのに対し、ここでは両者の関係が逆転している。はじめに絵画ありき、それを写真に転換させることで普及を果たした。逆転の理由は、天皇の身体を写すことよりも(前回は予期せぬ求めにいささかあわてた撮影だった)、憲法を持った帝国にふさわしい元首の姿を写すことが優先されたからである。おそらく、壮年を迎えていたとはいえ、生身の天皇を写すだけでは、その目的を十分に達せなかったのだろう。

 絵画と写真を別物と考える現代のわれわれには少しわかりづらい事態だが、そこに表れたイメージが「真」であることが最優先された結果だと考えればよい。写真伝来以前からある絵画用語としての「写真」は、もともと肖像画に多く使われ、被写体となった人物の本来のありさま(とみなされるもの)が表現できたことを指して用いられた。一方、被写体を画家が目の前にして、その姿をありのままに写す行為は「写生」と呼ばれた。この用語法に従えば、フォトグラフィーという新興の技術は「写真」的であるよりは「写生」的なのだが、紆余曲折を経て、それは「写真」と訳されて定着した。理由の第一は、初期の写真師がもっぱら人物を撮ったこと、第二は、画家の手を介さずに人物像をガラス板や紙にほぼ瞬時に再現する方法が既存の用語法を崩壊させるほどに衝撃的で、その人物の外観ばかりでなく、中身、魂、人物そのものまでが写っていると受け止められたことによる。

 天皇皇后像はセットとして、再び全国へと下付された。「御写真」が政府の用いた公式の名称である。そして、「御真影」はあくまでもそれらの通称であった。いずれも「真」が鍵を握る言葉であるが、一般に後者が普及定着するのは、肖像を意味する「影」もしくは「御影」に強く引きずられた結果だろう。

 新規の「御真影」の下付以前に、すでに四千枚を超える「御真影」が下付されたことを、小林輝行氏が宮内庁書陵部所蔵『御真影下付関係資料』を用いて指摘している(「明治期学校への「御真影」下付政策に関する一考察——「文部省総務局長通知」の背景とその意義」『日本史研究』315)。その大半が明治7年から12年の間に集中し、とりわけ8年には1年間で1462枚の天皇像、1460枚の皇后像が下付されている。多くは軍関係施設、軍関係者を下付先とした。その後下付数は著しく減少し、明治21年になって再び増加する。興味深いことに、学校への下付数は150枚にも満たない。下付総数に対するたったの3.3%を占めるにすぎない。したがって、全国津々浦々の学校に天皇皇后の肖像が奉安されたという「御真影」に対するわれわれの常識は、この時期には通用しない。それはもう少し後に出現する事態であった。

 明治22年12月19日に文部省総務局長辻新次が各道府県知事に宛てて発した通知は、「聖上並 皇后宮御写真ノ儀、是迄道庁府県立学校等ヘハ夫々拝載相成来候処、自今高等小学校ヘモ申立ニ依リ下付可相成筈ニ有之候」で始まり、文部省がいよいよ学校教育の中に「御真影」を取り込む契機となった。先の小林論文によれば、この通知は下付手続きの文部省ルートへの一元化を目的としたものだという。それまでは、文部省直轄学校以外の府県立学校や市町村立学校などは、下付を道府県知事を通して直接宮内省へと願い出ていたからだ。

 ここで視野に入れておくべきものは、少し遅れて、明治23年10月30日に発布された教育勅語である。翌日付けで、文部大臣は道府県および直轄学校宛てに訓令を発した。前者はつぎのような文面であった。
「文部省訓令第八号
                北海道庁 府県
今般教育ニ関シ
勅語ヲ下タシタマヒタルニ付其謄本ヲ頒チ本大臣ノ訓示ヲ発ス管内公私立学校ヘ各一通ヲ交付シ能ク
聖意ニ在ル所ヲシテ貫徹セシムヘシ
    明治二十三年十月三十一日 文部大臣 芳川顕正」
「御真影」の下付が「申立ニ依」るものであったのに対し、教育勅語の謄本は一通を交付し、かつ「貫徹セシムヘシ」を命じていた。当然、それぞれの普及度は異なり、後者が前者に優った。勅語謄本はあっても、「御真影」はないという学校が生まれた。むしろ市町村立の尋常小学校レベルでは、「御真影」の普及は容易に進んでいない。

 一方で、同じ明治23年10月3日に制定された小学校令は学校における「祝日大祭日ノ儀式」を文部大臣が規定することを定め(第15条)、それにもとづき、勅語奉読式のスタイルが定まる。「御真影」を有する学校では、校長による勅語奉読に先立ち、「天皇陛下及皇后陛下ノ御影ニ対シ奉リ最敬礼ヲ行ヒ且両陛下ノ万歳ヲ奉祝ス」ことが行われるようになる(「小学校祝日大祭日儀式規程」第一条、文部省令第四号、明治24年6月17日)。教育勅語謄本と「御真影」とは、このように学校儀式の中でひと組の扱いを受けたばかりか、さらにそれらを学校内の一定の場所に「奉置」ことが求められた(「小学校設備準則」第2条)。
そこで「御真影」の下付を申し立てた例として、佐藤秀夫編『続・現代史資料8、教育、御真影と教育勅語I』みすず書房、平成6年)は、長野県松本尋常小学校に関する一連の文書を紹介する。明治24年4月28日に同校長と松本町長連名で出された請願書には、「本校未ダ 両陛下及ビ殿下ノ尊影ヲ拝載スルノ栄ニ接セズ止ムコトヲ得ズ仮リニ空位ヲ設ケテ拝賀ヲ行フニ過ギザル次第ニ御座候 児童ハ固ヨリ観察ノ力ニ富ミ想像ノ力ニ乏シキ者ナルガ故ニ有形ノ事ニ感ズルコト深ク無形ノ事ニ感ズル事浅シ 是ヲ以テ彼等ハ謹ミテ国歌ヲ唱ヘ恭シク礼拝ヲナシ厳粛ト恭敬トヲ以テ式典ヲ終ルベキヲ知ルモ未ダ其何ヲ以テ然ルヤヲ詳知不仕候」という一節があり、礼拝の対象として有形の「御真影」が必要であると訴えた。

 こうして、「御真影」は天皇皇后の姿、勅語謄本は天皇のことばと受け止められてゆく。それらが天皇の身代わりであるとの前提で儀式が整備される中で(たとえば先述の「小学校祝日大祭日儀式規程」第1条で指示された「最敬礼」は、さらに2週間後の文部省総務局通牒「小学校祝日大祭日儀式規程最敬礼式ノ件」7月3日において「最敬礼ノ式ハ帽ヲ脱シ体ノ上部ヲ前ニ傾ケ頭ヲ垂レ手ヲ膝ニ当テ敬意ヲ表スルモノトス但女子洋服著用ノ節ハ脱帽ノ限ニ在ラス」という具合に厳密に決められる)、写真も謄本もともに紙であるという認識は後退していった。

 一枚の紙のために人が命を落とすという事件が起こって、この当然の認識が改めて意識に上り、さらに社会の表面にも表れる。前掲『続・現代史資料8』の第4章第8節「教職員などの「奉護」殉職」は、数々の殉職事件とその反応を紹介して興味深い。とりわけ、大正10年1月6日に長野県埴科郡南条尋常高等小学校で起こった「御真影」の焼失とそれを守ろうとした校長の焼死は、『長野新聞』紙上で論争を引き起こし、雑誌『信州』に特集号を組ませ(大正10年2月号)、全国に大きな反響を呼んだ。

『信州』が募集したアンケート回答には、「人と物とは何時の場合も換ゆ可きものでない。畏れ多いことではあるが御真影は物であつて中島校長は人である。」(日本銀行調査局野沢正周)とか「陛下と御真影は厳に之を区別すべきものである、御真影といふ一個の物品の為めに決死の危険を冒すには及ばない生命を捨てるには及ばない、御真影を以て陛下同様に神聖視する如きは詩的感想に外ならず」(東京山田肇)とか「御真影とは写真なり。煎じ詰むれば一葉の紙片たるべし。一葉の紙片と人間の生命とは、無論軽重を論ずべきものにあらず。」(東京小林蹴月)など、現代から見れば至極もっともな意見もいくつか認められるが、おおむね校長の精神と行為を称える方向と、「御真影」のより安全な管理方法の開発の方向へと収斂して(奉安庫の技術開発へとつながる)、それが紙にすぎないという認識を表立っては口にできなくなる。天皇の「人間宣言」まで、まだあと4半世紀もある。


御真影と東京帝国大学


「御真影」を「一葉の紙片」ではなく「御真影」たらしめたものは、それをそのように扱う下付手続きと儀式と、もうひとつは写真の質であった。明治後半になれば、写真製版技術が普及し、天皇の写真は新聞や雑誌にも印刷可能となった。すでにふれたように、それ以前は、木版画や石版画などの写真以外のメディアが肖像の普及に与っていた。勢い、「御真影」の画質は、それらまがいものに対して、焼付け写真としての高水準を保つ必要があった。

 市町村立尋常小学校や幼稚園への下付が速やかに進まなかったのは、それが教育体制の底辺であったというだけではなく、オリジナルプリントを供給するには学校数が多すぎたからでもある。そこで、明治25年5月21日に道府県宛てに出された文部次官の通達で、「市町村立尋常小学校幼稚園ニ限リ其校園等ノ費用ヲ以テ近傍ノ学校ヘ下賜セラレタル御真影ヲ複写シ奉掲候儀」を許したが、原寸大の複写であることは厳密に指示された。また、その写真師がさらに複写して他人に譲与することも禁じられた。原本がすでに複写なのだから、真正性を保証するものはむしろ複写の手続きの方であっただろう。

 写真という複製物とそれを「御真影」として扱う儀式との中間には、写真を収める何らかの容器、すなわちフレームが欠かせない。狭義の額縁とともに、写真の前に張る幕や奉安庫、奉安殿、奉安室も広義のフレームとみなせる。それらは写真を物理的に保護するばかりでなく、「御真影」であることを演出する装置としても機能する。額縁や幕に菊花の紋章を付すことなども文部省から指示が出た。

 さて、東京大学安田講堂内に保管されていた四面の漆塗り木製額縁は「御真影」を入れたものと思われる[口絵27-1]。いずれにも金と銀の菊花が11ずつちらばる。二面は明治23年3月31日に、あと二面は大正5年10月31日に、帝国大学によって新調されたことが裏面の記載でわかる。前者には「抱中造」、後者には「木屋漆器店製」と額縁制作者の名前も記され、さらにそれぞれが「第壱号」「第弐号」とも記されている。大きさは外寸で縦60.6、横50.9センチメートルである。大学においてこれほど豪華な額縁を必要とするものは「御真影」以外には考えられない、というのが素朴な第一の推定理由だが、新調の時期も、少なくとも前者に関しては、明治天皇皇后の「御真影」下付の時期にぴたり重なる。

口絵27-1

『御真影下付関係資料』によれば、帝国大学への「御真影」の下付は明治23年2月28日であった。さらに2年後の明治25年2月9日になって、法・医・文・工・文・理・農の各分科大学(のちの学部に相当)に対しても「御真影」の下付があった。小林輝行氏は、他の文部省直轄学校に比べて帝国大学への下付の時期が遅いのは、すでに明治7年6月20日に開成学校へ下付された「御真影」を、そのまま東京大学、帝国大学が継承したからだろうと推測する(「学校下付「御真影」に関する一考察——明治期中・高等教育機関へのその下付と普及」『日本歴史』483)。ちなみに、開成学校への下付は学校への下付の第一号であった。

 一方、大正天皇皇后の「御真影」は大正4年11月10日の即位大礼を待って下付されたものと思われる。もともと即位大礼は大正3年11月に予定されていたが、この年の4月に明治天皇の后であった昭憲皇太后が死去したため、1年延期となった。すでに、大正2年6月12日付で、帝国大学総長、直轄諸学校長、各地方長官に対し、「天皇皇后両陛下皇太后陛下皇太子殿下御写真方奉掲方並先帝陛下同上並奉安方」という文部次官通牒が出ている(佐藤秀夫編『続・現代史資料9、教育、御真影と教育勅語2』みすず書房、平成8年)。天皇皇后の代替わりに伴う「御真影」取扱いの注意である。そこには「天皇 皇后両陛下御真影ハ目下諒闇中ニ付追テ御撮影ノ上御下賜相成ルヘキコト」という一文があり、新たな写真撮影の未だ行われていないことがわかる。

 また、前掲『続・現代史資料9』は大正4年10月8日に神奈川県郡市長、県立学校長に宛てた同県内務部通牒「天皇皇后御真影寸法」を紹介する。それは、「御真影」の寸法を文部省に照会したところ、宮内省より回答があったことを伝える通牒で、縦1尺5寸4分、横1尺1寸8分の図が付されている。この時点でなお神奈川県下の役所と県立学校に新しい「御真影」が下付されていないことがわかるばかりでなく、われわれが問題にしている額縁の内寸法(45.5×35.9センチメートル)が宮内省回答の寸法にほぼ該当することもわかる。

 帝国大学側の資料で裏付けることを今後の課題としたい。『東京帝国大学五十年史』(東京帝国大学、昭和7年)は、わずか2ケ所でしか「御真影」に言及しない。いずれも大正12年の関東大震災による図書館の火災から無事救い出したことを称える記事である。ひとつは「館員の一員は一旦閉ぢたる書庫第一区入口防火用鉄扉を開き、第三区内の金庫中に奉安せる御真影及教育勅語謄本を取出し、之を安全なる場所に移しまつれり」と救出の様子を伝え、あとひとつは「十八日震災後第一回の評議会を開催し、先づ総長より 御真影及勅語謄本を安全に奉遷したる旨の報告あり」と評議会の様子を伝える。後者の報告は震災被害の概況報告にさえ優先された。昭和7年ともなれば、まして本書のような公的出版物であれば、「御真影」も勅語謄本もともに紙切れであるとはとうてい公言できない時代となっていた。

 このようにして大切に守り続けてきた「御真影」とそれに対する儀礼も、昭和20年の敗戦によって一変する。12月20日には各地方長官に文部次官通牒が出され、宮内省への「御真影奉還」を命じた。理由は天皇の着る軍服が時代に合わなくなったからである。したがって、この時点では、新たな服装による「御真影」の下付が約束されている。「成ルベク年内ニ各地方庁ニ奉還スルコト」と、実にあわただしい。「来ル一月一日ノ式場ニハ奉還スベキ御真影ハ奉掲セザルコト」と念を押すことも忘れなかった。むろん、その背後には連合軍総司令部の意志が強く働いていた。(佐藤秀夫編『続・現代史資料10、教育、御真影と教育勅語3』みすず書房、平成8年)。

 明けて昭和21年1月1日、天皇はいわゆる「人間宣言」を発した。「天皇ヲ以テ現御神トシ且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ延テ世界ヲ支配スヘキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ス」という否定を示すかのように、中身のない額縁だけがわれわれの前に残された。




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