出土した人形と玩具 |
安芸 毬子 |
近年再開発に伴い発掘調査が行われた都内では、近世遺跡にも着目し大きな成果が得られたことは周知のことであろう。多くの出土資料の中に本稿で報告する、人形や玩具がある。土人形が何故製作されるようなったのか、本稿では、土、木製の人形を中心に、人形や玩具がどのような経緯を辿ってきたのか出土資料と文献史料を交えながら推考していきたい。なお、玩具は外で遊ぶ独楽、羽子板、毬杖の三種にとどめた。
人形「にんぎょう」とはなにか、人形を愛でもち遊ぶといった行為がいつ頃から行われるようになったのか、考古資料で解き明かすことは困難である。人形は初めの頃、人の身代わりとして扱われてきた。では、人形がどのような歴史を辿り江戸時代に多く作られるようになったのか考えてみたい。まず文献では山田徳兵衛氏の『日本人形史』を参考に探ってみる事とする。 平安時代の書物では、ひとがた(人形)・くさひとがた(芻霊(すうれい))・かたしろ(形代)・あまがつ・ひいな(雛)・偶人・土偶人・木偶人・人像(ひとがた)・艾人(がいじん)・傀儡(くぐつ)などがあげられる。まだ、人形とは呼ばれていなかった。 『延喜式』(延喜五〜延長五(九〇五〜九二七)年完成)では、人がたの製作法について書いている。「金銀人像一枚」(長一尺・広一寸)「木人像」(長八寸・広八分、其面錺一金銀二)とある。金銀の箔をおき装飾したことが記されている。また「鉄偶人」「木偶人」も記されている。出土資料も木製が大半であるが、金属や石製、土製などもある。 『親信卿記(ちかのぶきょうき)』天禄三(九七二)年一二月一日の条に、ごく小さな形から等身大までの人がた七枚を小筵に包んで内蔵寮からさしだしたとある。人がたは大小いろいろ用いたようである。出土資料も同様様々な大きさのものがある。 『源氏物語』(巻一三 須磨・一一世紀)には「…陰陽師めして、はらえさせ給え、舟にことごとしき人がたのせてながすをみ給え(ポ)」とある。 『栄華物語』(一一世紀)の念仏法会の件に「あまがつ(天児)」が出てくる。天児を身辺や枕元に置き穢れや禍をそれに負わせることが行われていた。 『色葉字類抄(いろはじるいしょう)』には(一一四七年頃)仮名で明記されている。また室町期の『御湯殿(おんゆどの)の上の日記』の中に「人ぎやう」「にんぎゃう」とある。 『一遍上人絵伝』(鎌倉時代)に、路傍に台を置き地獄極楽の人形を並べ説法を行っている様子が描かれている。 中世の人形については、涌井美夏氏(「中世寺院の史料にみる人形」、一九九九年、『かたち・あそび』第一〇号、日本人形玩具学会)の研究がある。氏の研究を引用すると、興福寺では、平安時代から修正・修二会の造花風流に牛馬や屋形の人形が使われたとある。また、春日大社の摂社である若宮神社では若宮おん祭り(一一三六年に起源)を開催し、頭にのせる田楽笠(=島台)は、笠の中心部に朱の鳥居を置き一面は牡丹のしたに尉姥とワキ大臣、もう一面は、猩々の木彫りの人形をおく。興福寺の史料に羽子板・犬箱・起きあがり小法師を門跡関係者に贈ったとある。また、『多聞院日記』天正一(一五八二)年五月一二日の条は、興福寺から信長に島台を贈答した、また学侶から人形五体がのった島台を贈ったとある。信長からは「人形が多すぎる」「龍神にも無理がある」と返礼してきた。寺側は「其の道々の事ては其人ニ任テ置事常也」人形のことは専門の者に任せておくことが妥当であるといっている。当時、人形を作る専門の人がいたことがわかる。 江戸時代になると、多くの出版物が刊行された。 『毛吹草』(巻四・正保二(一六四五)年、松江重頼著)がある。諸国の名物を挙げた項に、人形や玩具がある。特に地元である京都(山城国)は詳しい。人形遊戯具を抄出すると、雛張り子・絵草紙・二条碁双六・六条坊門賀留多・小川舞扇・毬打・振々玉・羽子・胡鬼板(こきいた)・烏丸金賀留多(かるた)・御霊前人形細工・八幡蘇民将来(そみんしょうらい)・山科源氏絵貝などがある。御霊前人形細工とは、どんな人形であろうか。土人形で有名な伏見、深草、稲荷方面では東福寺門前地黄煎や山黄土(絵具二用之)・壺々火桶等で土人形はまだない。他の諸国をみると、大和の法華寺作土子犬(比丘尼のワザナリ)がある。泉に堺町雛(麁相物也)・摂津では天満宮前の碁盤・秘平野町雙六(すごろく)の寨・津村張人形(世ニ是ヲオキアガリコボシト云也)などである。また、雛遊びと書いてあるが、遊びには屏風を置き、雛は髪を垂らし小袖、袴をつけたもので屏風の前にたてかけ、犬張子も並べたようである。三月三日に雛遊びとは明記していない、子どもの普段の遊びであったらしい。『擁州府志』(貞享元(一六八四)年)には、普通の日の雛遊びにも紙雛や紙人形を並べてお供えをして遊んでいたことが書かれている。雛遊びは平安時代の書物にもある。 『案内者』(巻四寛文二(一六六二)年、中川喜雲著)の「江州木の本地蔵祭」に「諸方の商人立つどひて、おきあがり小法師、土人形、はり貫の野郎にお山人形までありといふ」とある。ここで土人形の名が登場する。同書の巻二初午に、田炮とつぼつぼの名がみられる。 『擁州府志』(貞享元(一六八四)年、黒川道祐著)に天児(あまがつ)の作り方が書かれている。天児と這子は幼児の形代として、災難を受ける身代わりのものであった。江戸時代には民間でも産所に置くようになった。宮中で行われていた儀式が民間でも行われるようになり、玩具として用いられるようになったと思われる。皇族では、今でも天児・犬箱(=犬張子)など置く行事が行われている。土製の這子は東大構内遺跡からも出土している。 『江戸鹿子』(貞享四(一六九一)年、藤田理兵衛著)には浅草橋通張り貫人形・土人形類とある。江戸での土人形の記録であるが、出土した人形で最も古いものは、天和二(一六八二)年の火災で廃棄した遺構からのものである。 出土した資料に基づいて文献をひろってみたが、江戸時代の人形や玩具をとりあげた史料はたくさんあり網羅することは困難である。当時の生活を詳細にまとめた『江戸二色』『嬉遊笑覧』『骨董集』『近世風俗志』等がある(図1、2)。
「人形」という言葉が登場するのは一二世紀半頃である。平安時代の書物では、人形ではないが、人の形をしたものがいろいろな材料で作られていたことがわかる。「ひとがた」の出土事例は多い。室町期(一四〜一六世紀)に、「にんぎょう」という語が出現するが、島台や祭礼の飾り、法会の説教人形であったと思われる。 『和漢三才図会』(正徳二(一七一二)年、寺島良安編)に「泥塑人」(土人形)を挙げ人形や動物作って小児の玩びものにすると記し、旅僧(西行)と狗を描いている。弄び愛でる人形の最初は雛遊びに登場する紙雛であろうか。この雛遊びが後世の「ままごとあそび」となったといわれる。また、雛遊びと人がた流しが結びつき雛祭りとなったともいわれている。江戸時代の土人形も三月の節句に飾ったものが多い。また、子どもを流行の病(麻疹や疱瘡)から守るため全体を赤く彩色した人形も多く作られた。江戸時代は子どもむけの絵本や菓子袋や玩具もたくさん製作されていたことがわかる。
江戸時代に出土する人形以前の人物や動物を模したものを挙げてみる。 出土資料で人の形をしたものは縄文時代の土偶や人物埴輪がある。土偶が弥生時代になると途絶え木製の木偶などが出土する。そして古墳時代の埴輪や土製の手捻りの偶人が出土する。この偶人について金子裕之氏は『日本の美術五』「まじないの世界」(縄文〜古代)(一九九六年)の中で、「磔刑の人形」として挙げている。そして八世紀初頭に成立した『肥前国風土記』『播磨国風土記』の説話を挙げている。人形は手捻りの簡単な造詣のもので大きさは一〜一六センチメートル位である。人形には性器をあらわしたものもある。六世紀を主体とし僅かに八・九世紀に下り出土している。人形の他に模造の農耕具や武具や機織り具、装身具が出土している。 本稿では八世紀〜一八世紀前半に出土した、人形(人物・動物)の図を作成し人形と呼ばれるようになるまでを木製品と土製品からみていきたい。尚、便宜上八世紀〜一八世紀前半までを三期に分類し図とした。
図3の1〜4は「水垂遺跡 長岡京左京六・七条三坊」の報告書(一九九八年)による。延暦元(七九一)年の木簡の出土(長岡京期後半)により年代が把握できる遺跡である。長岡京は僅か一〇年あまりの都であった。出土は護岸工事の行われている川からで、流れに沿う状態であった。特に人面土器が二五〇個、他にミニチュアの竈、鍋、土馬が出土している。1は大きな人がた(七〇センチ)で頭に何か被せている。顔がはっきり描かれている。また手足の表現は切り込みを入れ行っている。5、6は石川県出土の土馬である。5は小松市茶臼山祭祀遺跡、七世紀末の出土。6の土馬の頭部は俯いて表現、出土は八世紀。7は、1〜4と同遺跡同遺構出土の土馬で手綱の表現は墨で描く。8〜13は、平安京跡出土の人がたと土馬と人物(報告書)である。共伴資料は、長岡京から出土したものと同様である。二体の人がたも墨で身体の部位を描くが、手足の表現は1と同様。10は、特殊な形をしており胸部に「秋野方」(=空き・明き)と墨書がある(高一四・五センチ)。「秋野方」(=空・明)は陰陽道で、その年の干支に基づいて吉方と定められた方角(歳徳神)のことである。報告書では「天児」とも書いている。天児は身代わりとなって災禍を負うための人形である。文献では枕元や身辺に置くとある。形状も立体的であり立てて置くタイプであろうか。11の土馬は、性器の表現がある。12の土馬は7の形状に似ている。13の台座の文様は蓮を表現したものか。14は、太宰府条坊跡から出土したもので衣から観音菩薩と報告されている。年代は一〇世紀中葉から一一世紀前半、製作地不明。15は、鳥羽離宮跡から、髪を墨で、口、衣の一部を赤で彩色した人形(高九・八センチ)が出土、一二世紀後半。 図3では、九世紀代の人がたは板状で顔や身体を墨で描き手足は、切り込みをいれて表現している。板状が大半である。人がたは九世紀末〜一〇世紀にかけてみられなくなる。10の胸部にあった「秋野方」が示すように陰陽道がすでに行われていた事がわかる。人がたなどを使用した祭祀が、時代の流れのなかで変化したのであろうか。そして、14のような、菩薩像が出土している。一二世紀後半鳥羽離宮跡から15〜18のように、より人間の姿となり出現する。木製のものは、仏像と報告されていた。18は、土製の手捻りの偶人か、木製のものに比べ稚拙な表現である。ここで初めて人形と思われるものが出現する。19〜22の一群は博多や太宰府から出土した人形である。近世に出土する人形と成型技法が同一の、型合わせである。22は振ると音が鳴る。星印は、中国から博多にむかう途中新安沖で沈没した船の交易品であった人形である。博多出土のものと類似している。胎土や成型法からもこの一群は中国製であろう。23は次図でも述べる鎌倉市若宮大路出土の菩薩像である。
木製品は、立体的で手足のないこけし状の人形が多くなる。八世紀〜九世紀代は、板状で顔や身体部を墨で描き、手足の表現がされた大小様々な人がたが出土したが、九世紀後半から一〇世紀以降少なくなっていく。一二世紀以降は立体的で人間の姿をした、人形や仏像が登場する。 図4の29は鎌倉若宮大路出土の衣冠姿の人形(高四・八センチ)、一三世紀後葉〜一四世紀前葉の下層遺構面8-B柱穴出土。28は女性(高四・〇センチ)、頭部から背中にかけ髪を描く。衣には赤色の彩色痕がある。一四世紀中葉上層遺構面5-E柱穴出土。28、30はそれぞれ異なる柱穴から出土、年代にもややずれがあるため一対とは考えにくい。雛人形ではないかと報道されたものである。24〜26は鶴ヶ岡八幡宮の溝状遺構から出土したものである。下方は削り斎串状のものである。34は草戸千軒町遺跡出土のものであるが、板状のものを割いて石を挟み込んだ人がたである。明らかに水に沈めるための工夫がなされたものである。37は、板状のもので前段階の人がたの一群に表現法が似ている。44〜49は朝倉氏館跡の外濠から出土した人形の一群。48は、非常に小さいもので、直垂(ひたたれ)と小袴姿をしている。顔や髪は墨で描いたもので、立雛を思わせる人形である。この一群のものの表現は独特である。報告書では人形としている。49は土鈴である。胎土や形状は、近世から出土するものと同類である。 31は外国人を思わせる風貌をしている。型合わせで中空の人形である。33は仏像、太宰府出土、二枚型成形で、工具で粘土をえぐり取り隙間を開けている。衣の描写も精緻である。42は布袋、長谷小路南遺跡の一四世紀の住居床面直上から出土。非常に精巧に作られた人形である。彩色に使用された白色(胡粉)が残存していた。内面には布目痕が確認されている。粘土を詰める際の押さえの布跡か。中国のものと思われる。40は一四世紀後半出土の土馬。ここで再び土製の小形の馬が登場する。成型法は手捻りのもので、鞍は別作りで貼り付けている。43は鎌倉の多宝塔二号やぐらから出土したものである。一三世紀後半〜一五世紀代。胎土は同遺跡出土のカワラケと同じものであった。50は、下限一七世紀初頭の大阪道修町・高麗橋の魚市場跡から出土した人がたである。51は、犬型土製品である。愛知県・朝日西遺跡出土で、一六世紀末〜一七世紀初頭のものである。一九九九年一二月、大阪城三の丸から一〇二個体出土したものと同型である。一〇二体という大量に出土したものについての結果報告を待ちたい。 以上江戸時代以前のものをみてきたが、木製品の殆が祭祀関係のものであるが、人形を思わせる形状のものあった。土製品では、九世紀前半に出土していた土馬が姿を消し、それ以後一四世紀まで動物のものは出土していない。人物を模したものは、図3の14の菩薩像であり、愛玩用の人形は、中国製の一群にみられる。近世から出土する人形に最も近い形態である。人形の成型法の一つである、型合わせの祖型は、磚仏にみられる。延文二(一三五七)年南北朝時代、星印・円城寺菩薩立像(七・一センチ)等である。型成型、中実、離れ剤の雲母使用、底部穿孔であった。江戸初期に出土する人形にみられる技法である。国内で製作された土製のものは、菩薩などの信仰関係のものである。
52は、平安京跡二帖半敷町遺跡から出土した、袴姿の人形である。底部に三カ所穿孔がある。固定用の穴か。共伴したものは、操りの女頭である。 江戸で出土した最も古い木製品は一七世紀中葉の、53・55の操りの頭と、猿の人形がある。一七世紀後半から56、57、58の操り人形の頭と手、増上寺子院群BM181の子どもの墓に埋葬された、60の裸人形がある。 江戸時代で最古と思われる土製の人形は、一七世紀前半、61の京都市紫雲山頂法寺(六角堂)から出土した人形である。型成形(中実)、雲母が顕著で、「聖徳太子」と書かれた箱を抱え、笠を背負っている。残念ながら顔は欠損していた。六角堂は太子縁の寺で、鎌倉時代以降民衆の信仰を集めた寺である。一七世紀中葉以降62、63の磁器や陶器の人形が出現する。磁器の人形は輸出むけに製作されたものもある。64は恵比寿、66は猿、67は馬乗り猿である。いずれも施釉された人形である。69は狐、70は稚児、71は旅僧で西行と云われている人形である。 一七世紀後半になり、ここで初めてミニチュアの器物が登場する。68は、土製のすり鉢である。72、73は施釉された京都系の胎土をもつ器物である。図には掲載していないが、陶磁器製の精巧なミニチュアもこの時期から出現する。雛遊びの道具であると思われる。 江戸前期の遺構からは木製の人形の頭が出土する。これは当時流行した操り人形や小形の頭は指を入れたり(穿孔のあるもの)挟んで衣装を着せ遊んだ指人形とおもわれる。 一七世紀代の土製の人形の、西行・恵比寿・大黒・天神・猿の出土例は多い。西行のような比較的大きい人形以外で、型合わせ成形のものはみな中実である。一八世紀代になると、型合わせで中空の人形が出現する。75は這子(はいはい人形)。 76、77は一八世紀第一四半期から出土した、通称裃雛といわれている、お雛様である。 図示した裃雛は茨城県鹿島の神野遺跡の幼児二体の墓に副葬されたものである。全部で裃雛一二点、女雛一二点、花魁五点、這子一点、肥前の松竹梅花文の小瓶二点と蛤などが副葬されていた。今戸の裃雛である。また、子どもに限らず、港区生済海寺牧野家墓所明和二(一七六五)年没の藩主忠寛の墓から彩色が残存した、裃雛二組と女雛二体が副葬されていた。墓の副葬品として人形はよく使われるが、男女年齢を問わず副葬されている。 一八世紀中葉から土人形は、風俗をとりいれ、また各地の神社で売りだされる人形などいろいろなものが製作された。そして禁令が出された「穴一」の遊びに使われた、泥めんこが一八世紀後半から多く出土する。また、碁石形土製品の出土も多い。東大大聖寺藩邸の一九世紀前半の二号石組遺構から二六二個とまとまって出土している。
独楽が登場する文献の中で、最も古いものは『日本書記』七〇二年である。次に出てくる文献は、『倭名類聚抄』である。「独楽、弁色立成伝(和名古末都玖利)有孔者也」とある。要約すると、独楽は日本名を「こまつくり」といい、穴が開いているという。 図6の1が藤原京跡七世紀から出土した最古のものである。地面につく先端を乳頭状に突出させたもの。2は、平安京から出土したもので、上面に抉りをいれている。「叩き独楽・鞭独楽」と呼ばれている。5、6、7、11は千葉地遺跡出土のもので、時期差が多少ある。千葉地から出土したものは、七・八世紀のものと異なり装飾が施されている。種類も叩き独楽の他「捻り独楽」も出土している。千葉地の四点の他12、18は芯棒を差し込み式のものである。独楽は江戸時代一七世紀になっても、形態的に大きな変化はないが一七世紀のものの上側面の削りは滑らかになり、文様を施す。図7の34、35は金沢市の穴水遺跡、一七世紀末の遺構から出土した土製の独楽である。 羽子板は、室町時代の辞書である『下学集』(文安元(一四四四)年)に「ハゴイタ、コギイタ」と二つ読みを載せ「正月に之ヲ用ユ」とある。『俳諧五節句』貞享年間(一六八四〜八七年)に、「胡鬼板」「胡鬼の子」(羽根)としてあげ、「これを突くのは蚊の喰わぬまじないない」であると書いている。一七世紀後半には羽根突きは女の子の遊びとなっている。図6の16は、草戸千軒町遺跡出土のものであるが、図の小さな丸は羽根を突いた跡である。17は石川県の穴水町の白山橋遺跡、一三世紀末〜一四世紀前半の、祭祀遺物埋納遺構から出土したものである。22は七尾城シッケ地区遺跡池出土、中世後半の出土である。一七世紀以降、柄の最上部左右の削りに変化がみられる。文様には「左義長」を描いたものが多いが、押し絵や歌舞伎役者なども描くようになる。図7の右下に掲載した羽子板と木製の三味線は、一八世紀中葉の子どもの墓出土のもので、八本束ねてあった。毬杖も中世の遺跡からは多く出土する。『和漢三才図会』では「…毬杖の遊戯、和漢ともそのくること久し。近世は、ただ。小児の戯れとなし、毎正月、破魔弓と同じく、これを弄す。なお近来これを用いず、故に本式の毬杖見るも希なり…」とある。
以上、人形がどのようにして生まれてきたのか、出土資料と文献から検討を試みた。人がたを用いて祓いの儀式を盛んに行うのは、八世紀が最も盛んであったことが、多くの遺跡で確認されている。そして、人かたは大小様々な大きさや表現を用いていたことが出土資料や文献からもわかってきた。板状であったものが、棒状、立体的になり、より人間を写した形状をもつものとなる。 九世紀後半〜一〇世紀前後に密教や陰陽道などの宗教が混じり合い序々に変貌していったと考えられる。室町期には、「人形」と言う言葉が登場し、島台や祭礼、仏教の説法にも人形を使うようになる。また平安時代から行われていた雛遊びが江戸時代に雛祭りとなり、いろいろな人形が作られるようになったと考えられる。出土した土人形は安価のものであった。販売を促すため縁起物、呪いなどの性格をもたせまた、流行の風俗を盛んにとりいれた。型を使い大量に生産できる土人形は、各地で作られるようになり郷土玩具として今日に残っている。図5左下に主な地域の成形技法について載せておいた。型で作る人形は各地で共通しているが、図示したように違いがみられる。京都の人形は、捻りをきかせたおもしろいポーズのものが多い。金沢のものは、やや上体を反りぎみにしている。そして中実のものが多い。大阪のものは、底部から円錐状に穿孔を施す方法のものが出土している。図示していないが、名古屋出土の一部の人形の内面に布目をもつものがある。図7の左下段に図示した一群は、鎌倉市若宮大路周辺遺跡群の第二面b—5グリッド出土のものである。報告では形代としている。 大きなテーマに挑んだが、明確な結果が出ないまま文を終了したい。今後新たな事実を確認しながら研究のテーマとしていきたい。 |
【参考文献】愛知県埋蔵文化財センター、一九九二、『朝日西遺跡』泉バイパス建設関連第二一・二三・二八・三一・三六・四一次発掘調査』岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター、一九九四、『柳之御所跡 一関遊水池・平番二外所在の発掘調査報告書』 神奈川県立埋蔵文化財センター、一九八六、『千葉地東遺跡』 金沢市埋蔵文化財センター、一九九八、『長田町遺跡・長町遺跡・穴水町遺跡』(『金沢市文化財研究紀要』、一四三) 金子裕之、一九九六「まじないの世界」『日本の美術 五』至文堂 京都市埋蔵文化財研究所編、一九九七、『鹿苑寺(金閣寺)庭園 防災防犯施設工事に伴う発掘調査』、鹿苑寺 京都市考古資料館、一九九三、『古人のいのり』 京都市埋蔵文化財研究所、一九八〇、『平安京跡発掘資料選』 京都市埋蔵文化財研究所、一九八六、『平安京跡発掘資料選(二)』 京都市埋蔵文化財研究所、一九九八、『水垂遺跡 長岡京左京六・七条三坊』 研修道場用地発掘調査団、一九八三、『研修道場用地発掘調査報告書』 古代學協會、一九九五、『土車』第七三号 古代學協會、一九八七、『高倉宮・曇華院跡第四次調査 平安京跡研究調査報告』 堺市教育委員会、一九九〇、『堺市文化財調査報告第三四集』 新宿区厚生部遺跡調査会、一九九三、『圓應寺跡—新宿区立若葉高齢者住宅サービスセンター建設に伴う緊急発掘調査報告書—』 鈴木裕子、一九九六「甦る鎌倉」『陶説』 五二二、日本陶磁協会 千葉地遺跡発掘調査団、一九八二、『千葉地遺跡』『中世遺跡発掘調査報告』、鎌倉市鶴岡八幡宮 都教育東京文化財団、一九九八、『尾張藩上屋敷跡遺跡』、第一巻、東京都埋蔵文化財センター 東京都教育文化財団、一九九四、『丸の内三丁目遺跡』、東京都埋蔵文化財センター 日本人形玩具学会、『論文集 日本の人形・玩具』、人形・玩具のシクルロード研究叢書 長谷小路南遺跡発掘調査団、一九九二、『長谷小路南遺跡—鎌倉市由比ヶ浜三丁目二〇二』 広島県草戸千軒町遺跡調査研究所、一九九三、『草戸千軒町遺跡調査報告特—北部地域北半部の調査—』 広島県草戸千軒町遺跡調査研究所、一九九四、『草戸千軒町遺跡調査報告監—北部地域南半部の調査—』 広島県草戸千軒町遺跡調査研究所、一九九五、『草戸千軒町遺跡調査報告協—南部地域南半部の調査—』 町田市立国際版画美術館、一九九七、『版と型の日本美術』 港区芝公園一丁目遺跡調査団、一九八八、『増上寺子院群 光学院・貞松院跡 源興院跡—港区役所新庁舎建設に伴う発掘調査報告書』、港区教育委員会 山田徳兵衛、一九六一、『日本人形史』、角川書店 山村信榮、一九九七、「中世の素焼人形考」、『博多研究会誌』、第五号、三九〜五二頁 涌井美夏、一九九九、「中世寺院の史料にみる人形」『かたち・あそび 日本人形玩具学会誌』第一〇号 由比ヶ浜中世集団墓地遺跡発掘調査団、一九九四、『由比ヶ浜四-六-九地点発掘調査報告書—大蔵省印刷局鎌倉宿泊書建設に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書—』 若宮大路周辺遺跡群発掘調査団、一九九九、『若宮大路周辺遺跡群』(小川町一丁目一〇六番地一他地点—第一次、小川町一丁目一一六番地一他地点—第一次)、鎌倉市教育委員会 |
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